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カナリアな日々

百姓になって16年目。補習塾カナリア舎はフェードアウトしました。小麦、大豆などを作っています。

僕は強迫神経症だった?1

2008-02-17 00:19:11 | 僕は強迫性障害だった?ヘンなこだわり

以前も書いたけれど、うちの横の農道(舗装されていない)を通る車が気になってしまう。



ここ5年ほど、この農道の先で家を自分で建てている方がいて、この人が3日にあけずやってくる。いったい何に手間取っているのかまだまだかかりそう。



ここ数年はこの人が来る日が苦痛だ。元商社マンらしい。船橋在住。
話したこともあるが、腰も低いし大人しそうな人。
今日も一日この人の車や、それに関連した大工さんらしき人の車などにとらわれていた。



道路を通って何が悪い、と自分でも思うけれど、まだ田んぼの時期でもなく、この人がうちの先に家なんて建て始めさえしなかったら、一年のうちで半分は静かなのになぁと思うと、腹立たしい。


農道の真横に教室があるから、余計にそう思うんだろうね。
授業の邪魔というよりは、むしろ「どうせ生徒なんか来ていないから皆が気楽に通るんだ」というような思いこみかな。


(最近は田んぼ作りをやめたのであまり来ないのだが)以前は農道を隔てたうちの前に、農機具小屋を持っているおじいさんが、時々突然シャッターを開けるのが嫌で、それがきっかけかなと思う。
このおじいさんのことも何年も毎日毎日とらわれていたなぁ。



朝目が覚めると、そろそろそのおじいさんが田んぼの水を見にやってくるのではないか、などとドキドキしてもう眠れなくなった。
どこかで車のドアのバタンという音が聞こえると(僕この音大嫌い)、確認のために起き出して行ったり。



その頃から農道を通る車があるたびに、誰の車か確認するようになった。(農道側に窓のない)教室で勉強しているときは、(車が通ると)走って窓のあるお茶の間まで走ってナンバーを確認する。
こいけが、お茶の間にいるときは、何番だった?と教えてもらう。
よく通る人の車は、ナンバーで覚えているので、顔をいちいち確認する必要はないのだ。


こいけがテレビに夢中になっていて、「番号よく見えなかった」なんて言うと怒ったりもした。



(農道の先は)田んぼしかなく、道も一本なので、行った車は必ずまた帰ってくる。最後の車が帰ったことを確認して、やっと安心して夜を迎えられるのだ。



似たようなことを以前も書いたことがあったと思う。
今回は意図的に「確認」という言葉を使ってみたのだが・・・・



これって強迫神経症(OCD)の「確認行為」だよなぁと改めて気づいた。



昨年以来、音に過敏になって強迫観念が悪化して(今も少しあるのだけど)ということがあって、姉崎のクリニックで(明確な強迫行為のない)強迫神経症だと、診断されてショックを受けたけれど・・・・
(気にしすぎという医者もいた)




HPにもあるように、強迫的完璧主義だとは認識していたけれど・・・・




どうも、元々かなり強迫神経症的部分はあるぞと、思い始めた。



ぼちぼち、変な自分、について書いていこうと思う。


強迫が

2007-06-02 17:12:35 | 僕は強迫性障害だった?ヘンなこだわり

夕べ久しぶりにきつめの強迫観念に襲われてしまった。ここ10年では一番ひどいかも。
それ自体がひとつのトラウマだ。

 


夜テレビを見ていたところ、ある場面から大きなスピーカーが自分の右斜め前にあり、大きな音が流れているさまをイメージしてしまった。
普通はそれをある程度の格闘で追い払う(忘れる)ことができるのだが、昨晩はなんか違ったんだなぁ。


うまく気を散らすことができずに頭の片隅にぼや~っというイメージ(音が鳴っているような、振動しているような)が入り込んでしまったような気がして、更に恐怖感が募った。
そこで更に(よせば良かったのだが)気晴らしになるかとお風呂に入ってしまい、そこで更に悪化。(風呂場は狭くて音が反響するので、逆効果になる場合多し)


もうこの強迫から逃げることは一生無理なのだというような恐怖に襲われた。
もううめくは泣き叫ぶ(一応小さな声で)は吐き気はするはトイレは行くは。「もう限界かも知れない、もう死ぬ」


このまま夜中もこれに苦しむのだったらいっそのこと、ってちょっと思ったわ。
「神様助けて下さい」と手を合わせて祈らずにはいられなかった。
安定剤を飲んで、こいけにも頭をなでてもらって、、だんだん落ち着いてきてぐっすり眠れた。

 


音のイメージ自体もも恐怖なのだが、それがずっと頭から今後生きている限り離れないのではないか、というのはほんとに恐怖だ。


なぜ、このような強迫観念がいつまでも起こるのかなぁ。


学生時代どんなにいい成績をとっても、当たり前のようになっていて、ほめられることもなく、そのことで「もっともっと頑張らなくてはだめなんだ」という強迫的完璧主義の性格になったのではないか、ということは以前から思っていた。

 


ただ、それだけでもなく、その後の挫折やひきこもりになって、長い間の自責の念、罪悪感、無力感などにさいなまれ、自己評価が下がり、面の皮が(一見厚そうに見えるのだが)薄~い膜のようになってしまったこともあるのかも知れない。


加えて季節の変わり目であること、仕事のことなどもそりゃ悩みは尽きない。
こうあるべきという自分の姿と今の自分の姿との距離感もやっぱりあるし。


強迫的でリラックスできず、神経質、執着的(粘着質)、こだわり、そんな性格がこういうときに自分を苦しめる。
結局はそのイメージを払えるどころか、自分で探し求めてしまっているのだ。座禅でいうと一切の妄想、想いをただ頭の中に流れるままにしておくということらしいけど、僕の場合は格闘してしまっている。


こんな静かなところに過ごしているのに、頭の中に大きなスピーカーを抱え込んでいるようなのは耐え難いこと。忘れる、ということがいかにありがたいことか。
何でもない日常の光景が、不安と恐怖に満ちた人生の現実へと一変する。


K君も(音ではないようだけど)似たようないやなイメージが頭に浮かんでなかなか追い払えないなんて言っていたっけ。そういえばどうしてるだろう、全然連絡来ないけれど。会いたいなぁ。


今日は午前中、(いつも僕が草を刈っている)田んぼのご夫婦が珍しく草刈りにいらしたので、ご挨拶して、僕も途中から草刈り機を出して手伝ってあげた。
斜面ではなく、いつもはトラクタで耕運してしまう休耕田の部分。


で、いい汗かいて少し横になったらまた少し強迫が出てきた。


これからこいけの娘がご飯を食べに来るというし、大丈夫かなぁ。
夜はホタルを見に連れて行って、癒されたい。


きっと大丈夫。また楽になれるさ。これを書いている間は不思議と忘れてたよ。


ちょっと重たかったかな。1曲お送りしますね。


Just Too Many People
/ MELISSA MANCHESTER(1975)

(想い出にさようなら / メリサ・マンチェスター) 

ニューヨーク生まれのシンガーソングライター。
調べたらまだ元気で活動しているらしくてうれしかった。

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