ひろポンの“わたしにも作れますぅ” 

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Helle Nice : エレ・ニース

2020-09-07 | Motorsport
久々のレースネタです。

ご存じの方も多いですが、今年の全日本スーパーフォーミュラに久々に女性ドライバーが
参戦しています。

タチアナ・カルデロンはコロンビア出身の27歳。
ミドルフォーミュラからFIAGP3、アルファロメオF1のテストドライバーを勤め、昨年FIA-F2を経て
今年、道上監督率いるスリーボンド・ドラゴコルセから参戦が決まりました。

先日の開幕戦の茂木は12位でフィニッシュ、まだまだ不安定な要素が多く今の時点で
評価は難しいかなあ。
このあとルマンに出るそうで、その後の岡山戦は再入国がどうなるか未定ですが
ルックス的にはとりあえずOK(笑)なので頑張って応援したいですねえ。

でもって何でここで女性ドライバーの話かというと、先日イタレリのアルファ8C2300をポチった訳でして、当然のことながらカラーリングは当たり前にアルファレッドに塗って、キットのヌヴォラーリのモナコ仕様にするか、あるいはカンパーリのモンツア仕様にしようか、あれこれ考えていたのですが、ふとあるドライバーの仕様を思いついた訳です。

そのドライバーが1930年代のフランス人女性ドライバー〝Helle Nice〟 エレ・ニース。

昔の女性ドライバーというと、レラ・ロンバルディとかよりはるか前にマリア・テレーザ・デ・フィリッピスが最初のF1ドライバーとして有名です。

遡ってF1が始まるずっと前、1900年に5人兄弟の末っ子として生まれたニースは若いころからヌードモデルやバレーダンサーで十分な収入を得ていました。
親友のレーサーの影響で彼女もレースに出場したかったけれど女性であることを理由に拒否されます。
その怒りの反動をスキーに求めたけれど怪我をして膝を痛め、ダンスもスキーも結局断念。

スリルやスピードへの欲望を再びレースに求め、30年代にブガッティで数々のレースに出場。
フィリップ・エタンセランやルネ・ドレイフュス、ルイ・シロンら当時のトップドライバーに混じって
それなりに成功しお金も名声も得て、引き続きアルファロメオで参戦します。





しかし1936年のブラジル、サンパウロでのレースで地元のマヌエル・デ・テフェと3位を争っていた最終ラップ。
原因は不明ですが、ゴール直前、押し寄せた沿道の観客が蹴り入れたのか?コースに転がる干し草のバリアを避けようとしてコースアウト。
クルマは観客の中に飛び込み横転し、投げ出されたニースがぶつかった警官と観客の6人が死亡してしまいます。




彼女は3日間昏睡状態で無事生き残ったものの、この事故で以後スポンサーも集まらず厳しい立場に置かれます。
その後第2次大戦が起こりますが、ブラジル政府の補償金などで生活をしながらレースを再開。

そして戦後の1949年、モンテカルロラリーに出場のための前夜祭パーティー席上で、元チームメイトのルイ・シロンからいきなり公然と〝ゲシュタポのスパイだ〟と罵倒されます。
戦時中ニースがドイツ人レーサーと親しかった事もあり、ナチスの干渉をあまり受けずに戦争を乗り越えた事など感情的な問題もあったようですが、何一つ確かな証拠も無かったのに敵国に寝返った、との公の場での有名人シロンの主張は彼女のキャリアを終わらせるに十分な出来事でした。

家族にも見放され恋人にも去られた彼女の人生は、ここから緩やかに転げ落ちていきました。

財産も尽き果て無一文になり、俳優の慈善団体からの寄付に頼り、1975年南仏ニースの路地裏の
汚いアパートに強制的に移され、1984年に83歳で亡くなりました。

最後はあまりに貧しい生活のため野良猫のミルクを盗むほどで、亡くなった後も疎遠だった家族は
墓に遺灰を埋めることさえ拒否したので、後にニースのために設立された財団が墓の横に記念碑を建てました。

最後まで彼女の汚名は晴らされること無く、その功績さえ闇に葬られてしまったため
ニースはモーターレーシングの歴史から忘れ去られてしまっています。

彼女の人生についてはイギリスの評論家、作家のミランダ・シーモアの本、〝ブガッティの女王:
モーターレーシングの伝説を求めて〝が二玄社より10年ほど前に翻訳されて出版されています。
興味のある方は是非読んでみて下さい。

ニースのブルーのアルファロメオ2300、出来ることなら形に残してみたいと思う
そんなお話でした。