まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

29歳の吉田松陰は小塚原の刑場に捨てられた

2021年04月20日 | Weblog

そうだ。

それを伊藤博文たちが掘り起こし、世田谷の、今では松陰神社となっているところへ移動させた。

なんて文章を、エキセントリックな思想家、副島隆臣さんで読んだんだよね。

というのも、昨日の葬儀で、棺に納められた後の、係の方の仕草がいかにも大切に丁寧に、という風情だったので。

松蔭のことを思い出した次第。

もちろん、かつての戦地には、今でも遺骨は放置されてもいるわけで。

大きな歴史を見れば、松蔭どころじゃない扱われ方はしこたまあったんだろうけどね。

もっとも、遺体の中に、当のその方がいらっしゃるというのでもなく、やがては。

土に帰るのだし、だけど、遺された方々の記憶のためには、当のご遺体が当座の徴でもあるから。

なんてこと、浮かんできたのでした。

ところで、このところまた、ピアノソナタへ戻り、ベートーベンのね。

ピアニストをたくさん輩出している、というのか、各地で神童と呼ばれた方々が功なり名をなし。

今では便利なもので、iPhoneのiTunesですかさずダウンロードできるんだよね。

めんどくさがりの当方としては、もっけの幸い、ってなもんで。

落とす落とす、いつ聴くんだ、くらいの、またぞろの病気が出てきた次第。

たしかに、同じ曲をそれぞれのピアニストが、それぞれの人生をひきづりつつ、あるいは、切り開きつつの。

演奏の数々、わがプリウスライブは、大賑わい、ってなわけです。

悲愴、月光、熱情などなどと名付けられた曲、面白いものだ。

ソクラテスじゃないけど、「無知の知」がいつまで経っても押しかけてきて。

日々がその連続、なんてことにもなり。

定年とか死期とかのゴールを決めるのは、まったくもって、もったいなきことの限りなり、だな。

有為転変、常にいろんなことごとが変化し、転がり、一つとして同じところにない、はずで。

そうだ、今朝も、日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり、なんて言いながら顔洗ったんだった。

そんなわけで、有為転変の今日を生きるとします。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安否確認のドブ掃除

2021年04月19日 | Weblog

昨日は、拠なき事情にてブログはお休み。

って、表題なんだけどね。

村のできごと、町内会のドブ掃除が朝も早よから、って次第で。

のだけれど、下水道はそれなりに整備され、泥がたまることも無くなって、ついでに。

界隈は高齢化、の波に抗えず、ってこともありで、結果、ああでもないこうでもない。

なんて話を、10何人か、僕ともう一人だけはタバコを吸いながら、という情景。

のなかで、相方からの言葉を表題にしたのでした。

別段、一年に一度やらなくても、だけど、ご近所さんの安否確認くらいの気分で、ってわけだ。

流通が今のようになるずっと前には、北街道というのは、幹線道路でもあったんだろうから。

それに、何本かの小さな交差点のあるところなので、お店が小さな隆盛を極めもし。

だったんだろうな。

子どもの頃の記憶をたぐれば、あそこが下駄屋さん、ここが桶屋さん、饅頭屋さん。

鶏屋さん、お肉屋さん、八百屋さん、なんてお店がせいぜい100mにも満たない間に軒を連ね、だ。

木曽の奈良井の宿、とか、会津の、なんだったか、とか、もっと言えば、軽井沢の追分近くの。

マイナーな御代田の宿、の宿場町と比べるのもなんだけど、そんな具合に。

そこここに、大きなから小さなまでのプチ繁華街に軒を並べた小さな店の数々、ってことだな。

効率が悪い?生産性が低い?って。

大きなお世話だよな、と思うけれど、押し寄せる近代化の波に攫われちゃった、ってわけだ。

それらは今となれば、跡形もなく、という時間の中で生まれてきた方々からすれば。

そこには何もなく、ただ、家が立ち並び、あるいは、コンビニの駐車場になり、とかね。

歴史は、そうして、過去を過去として葬り去ってしまう、あるいは、くれる、とも言えるか。

ゆく川の流れは絶えないんだ、いつも流れていく。

流れゆく川へ刻むのが恨み、恩は石に刻む、という言葉を僕に残してくれた方、この事務所の近くの会社の。

社長さんだった。

その会社も今はない。

僕の記憶の中にはある。

朝から少々感傷的な気配だね。

今日は、妻の義理の叔父の葬儀だ。

幽界がなくなった、という言説もある今の、あちら側はどんな具合なのか、なんてのも、少し気になる。

そんな葬儀だ。

というのも、そのうち、生と死に関してのことが、明らかになる瞬間があるかも、なんて予感・関心が。

当方の現在なので。

なんてことはともかく、虹始めて見る(あらわる)、という第15候の最終日だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いつもと違う時間が流れ

2021年04月17日 | Weblog

なんて書くと、いかにも、だけど。

早い話が、先に走りを終わり、コスタリカのアキアレスと名づけられた珈琲を落とし。

さて、という時間が、7時過ぎ。

雨の、しかも大雨の予報が見事なのか、どうなのかハズレ、今日も走ることができた。

ありがたい。

この間、「エートス」というお店で、店長さんなのか、オーナーさんと呼ぶ方がいいのか。

あるいは、焙煎士でもいいか、そんな御仁との会話で、中南米の浅煎りがタバコにあいますね。

ってやつを、今朝は実践、という風情だな。

もっとも、こちらは浅煎りでもないのかな、にしても、ほんの少し、酸味も感じないこともない。

なんて朝、昨日来社された御仁と、「天国にちがいない」という映画、その標語について意気投合。

彼、そのフレーズ、どこかで聞いた、とiPhoneのEvernoteから、倉本聰のフレーズ。

『人生は、アップで見れば悲劇だが、ロングショットでは喜劇である』を探し出し。

どうやらこれは、チャップリンが言っていた言葉らしいね。

一つの瞬間、当方に引き寄せれば、「トゥルネラパージュ」で音にひたった後、さて一服するか。

とお店の外の喫煙席に座らんとした時に目に入ったポスターに書かれた、くだんのフレーズ。

そこにインスパイアされ、来社の御仁のなかの何かと絡まり、その瞬間は、どこかへ放り投げられ。

そのうち、また、何かのタイミングでやってくる、というわけだ。

というようなことが、まさに、アップの人生でもありロングショットの人生でもあるな。

悲喜劇交々、って事になるか。

そんなアップダウンがなければ、ロングで、つまり、引いてみている観客席からの視線では。

つまらない映画だよね、って。

走り終わった後の文章は、で口がいいような、なんだろう、ま、いいか。

夕べの短編小説は、谷崎潤一郎の「母を恋ふる記」だったけれど、途中で眠くなってしまったな。

内容が眠い、というのではなく、わが睡魔がやってきたんだよね。

なにせ、前日は浜松帰りなので、4時15分起床・瞑想、というわが日常では非日常だったので。

され、今日に入っていくか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トゥルネラパージュの音にひたった時間

2021年04月16日 | Weblog

社員さんに以前お聞きした浜松の喫茶店。

スピーカが豪華なもので、みなさん、静かに、瞑目したり本を読んだりして過ごしている。

そんな時間をわが方もしてみた。

大画面に流れるのは、チャップリンの映像か。

そこへ、ジャズやシャンソンが流れ、空間を満たし、温泉に浸かるように音を楽しんだ。

昨日は、同友会の浜松支部総会へ参加させていただき、少し喋れ、ということで。

そこでも楽しんできた次第で。

その前哨戦が、くだんのトゥルネラパージュ、なんていう意味なのかね、と哀しい性だね。

意味を探る、って衝動。

そこにこんなポスターがあった。

 



人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇である、というフレーズが飛び込んできて。
 
思わず、シャッターを、って顛末だったんだけど。
 
なんか、面白そうな映画だな。
 
ところで、イソップ物語、ってのは、子どもの頃から知っていた童話?寓話?
 
その作者、イソップは、サモス島の奴隷だったらしいね。
 
と、いつもの白川静さんのbotでわがタイムラインに流れてきた。
 
そもそもの寓話というものの出来が、専制者に対する力のない民衆の抵抗物語、という一つの証左として。
 
なんてコメントとともに。
 
いつだったか書いたアネクドットなんてのも、そうだしね。
 
子どもの頃に読み聞かせられるイソップ童話、といういでたちになると、そんな斜め目線というより。
 
クスッと笑う、程度なんだろうな、忘れちゃったけど、物語。
 
くだんの映画、監督がエリア・スレイマンというナザレ出身の御仁だというから、イエスの再来かね。
 
なんて気分を少し抱きつつ、本日に出かけるとします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今朝の巴川は上流に流れている。

2021年04月15日 | Weblog

満潮ということなんだろうな。

勾配が鈍い川、と書いたら、夕べの、相良の御仁との会話が思い浮かんできた。

何川だったか、相良城のあった土地で、その川の周辺が隆盛を極めた時代もあって、と。

船を浮かべて艶っぽい空気も流れ、なんてことね。

それを復活させたいものだ、なんて話だった。

そりゃ、静岡、古代マレー語で天国という意味を持つ駿河の、お宝発見、という仕儀とも通じるね、ってわけだ。

かたや、ご当地清水の川が、巴川。

駿府城を作るときの石垣の石を運搬中に、川に落とした、落城につながるから使えん、ということで。

現在では巴川製紙の正門となっている、そこで作られたノート、トモエリバーがわが愛用の。

それも、北海道の女史に教えられたもので。

その紙に書き留められた言葉の数々が、僕の一日、とも言えて。

そこからインスパイアされて、次なる一日、人生、会社経営、となっていく。

今朝の珈琲は、ブラジルからのシャパドンと名付けられたもので、甘い、といっても砂糖の味ではないけど。

ところで、福島での、水の話。

アンダーコントロール、とか、汚染水⇨処理水、飲んでも大丈夫、よその国の垂れ流す水の方が放射能濃度高い。

とか。

さまざまな言葉が飛び交い、行き交い、しているけれど。

それらの言葉が刺激する世情、風評、政治情勢などなど。

どちらを取るか、どんなポジショントークに与するか、なんてことでもあり。

なんて当方のトークのポジションはどこなのか、ってことでもあるか。

真を極め、真実にたどり着く、というのも、これまた、幻想の一つでもあり。

せいぜい、その時々の、気分、または、科学的見地、見解、そうだと思われている事実。

いや、それにしても、今朝の文章は、わけわかんないね、ま、それも宜なるかな。

わけわかんないことをわけわかんなく書いているに過ぎないのだから、さ。

それについては、パンデミックも同じ、といえば同じ、違うと言えば違う。

ということで、相変わらず本来の流れに逆らって流れていく巴川を眺めながら、終了です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チベットの塩を買ってあったんだった。

2021年04月14日 | Weblog

今は亡き、経営コンサルの一倉定さんがお書きになった「正食と人体」という本に出会ったのは。

もう何年になるのか。

塩について書いてあった。

その頃出会った塩屋さん、というのか、発酵関係の、糠味噌だったりのお仕事をされている社長さん。

そうだ、たしか、糠漬け師匠と奥様のことを呼んでいたんだった。

そこのお塩を今でも使わせていただいていて、しかし、魚への塩ふりがうまくいかないな、と思ってもいて。

で、気がついたのは、他の用途で購入していた「チベットの雪華」という洒落た名前の塩が。

いい塩梅にパラパラ感があるので、早速、今度試してみよう、という気になった、という顛末。

魚に塩をふる、昨日の大将の弁では、板前10年の技、だったか、とにかく、熟練度の必要な仕儀だそうで。

そりゃ、素人がうまくいかないわけだ。

なので、次回の焼き魚が楽しみなのです。

ところで、くだんの塩の話、戦後の専売化で、塩化ナトリウムという化学的に抽出されたものが。

塩、と呼ばれるようになって、その過程て、海水に含まれるミネラルが消失。

というのが、いわゆる食卓塩のような塩、で、日本人は塩分取りすぎですよ、ってエセの結論だ。

これ知った時、世の中の、というのか、世間、巷間で言われていることの、胡散臭さを思い知ったのだけど。

意識高い系と思われたり、言われたりする人たちは、それぞれに、自然塩、ってのを選択し。

という世情だね。

一倉さんの書いていたのは、ざっくりいうと、人間は、塩化ナトリウムを取りたいんじゃなくて付随する。

ミネラルを欲する、だから、ミネラルが満ち足りれば、過剰な塩は取らない、くらいの話だったな。

戦後、東北地方を調査したヨーロッパの学者さんが、かの地の食から、塩取りすぎだよ、と言ったらしく。

だから、脳卒中やら何やらの血管系の、高血圧系の病気が多いんだ、の結論。

と一倉さん、書いてたな。

これも、ヨーロッパみたいに肉食の、肉の中に塩分が入ってる食事とごっちゃにしちゃって、とかね。

今朝は知らぬ間の塩談義になっちゃったな。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

それならなぜ僕を生んだの?

2021年04月13日 | Weblog

なぜか、今朝は、こんな表題になってしまったのだけれど。

何十年前になるのか、学校から帰った庭先で母親を詰った僕がいたわけだ。

もちろん、母親は泣き始め、だ。

どんな理由からだったのか、いずれ、何かの行動、仕草を母親に叱られた腹いせに、って流れだろうな。

それにしても、ひどい言い草、世の母親方からは総スカン食いそうな物言いだよね。

それなら、からの始まりがまた、ありがちな心理というのか論理というのか思考グセというのか。

そんな流れでもあるね。

僕のこの時のフレーズは、僕の中で生きているのだけれど、果たして、母親の中では、というのか。

その外の、どこに格納されているものなのか。

要介護度3、いや、4だったか、であれば、現在時点での記憶の手繰り寄せ方は、おぼつかなく。

昨日、お昼時、タランティーノの「パルプ・フィクション」という映画の話題になり。

あれ、冒頭のシーンを、いくつかの視点で撮っていて、それを斬新な思いで観入った記憶があるんだけど。

われわれが日々、日常の中で体験・経験していることを、神の如き視点で描いていた、とも言えるか。

面白かったな。

そんなタランティーノもハリウッドを密かに襲っているスキャンダルの渦中の人かも、なんて話もあったり。

悲しい話だ。

それはともかく、今朝の雨は、いい雨だな。

春雨じゃ濡れていこう、と大見えを切りつつ今日に出かけるとします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目の前の床を両手でトントントンと叩く

2021年04月12日 | Weblog

たぶん、これが、昨日も少しふれたけれど、二番目の孫娘からのメッセージだな。

とふと、今、浮かんできた。

目線を合わせて、それに応じれば、一つのコミュニケーションが成立、ってことか。

言葉はとても便利なものなので、多くの場合、それに依拠し、そこでの齟齬に傷つき、とかね。

あるある、ってなもんだな。

1年以上続いている、いわゆるコロナ禍、ってやつで、家族での会話が増えたんだけど。

そこで、自分と子どもたちの関係を、わが父親との関係に置き換えてみたりすることが多くなっていて。

密を避けろ!の社会からの要請により、逆に、亡き父親であったり、施設に入所中の母親であったり、との。

密が濃厚になっているとも言えるか。

だから、コロナ=567で弥勒菩薩なんて説も、満更でもないわけだ。

解釈一つで、幸せにも不幸せにもなる、って格言?だな。

グローバリズムという面の拡がり、もっともっと遠くへ、というスタイルが、国境で、それこそ齟齬をきたし。

人の行き来がままならない状態に陥っている現時点、ナショナルな思いが、さまざまな形で目につくようになる。

のかもしれず。

自分というものの確認作業のとっかかりは、どうしても、他人は自分と違う、ってところから入らざるを得ない。

んだろうしね。

ユニクロの柳井さんが、ウイグルへの圧政に、ノーコメント、ということで批判されていたけれど。

ウイグル綿を使った製品化、って次第だけど、僕も使わせてもらっているし、なんて言い始めたら。

今朝のコスタリカのアキアレス、という珈琲だって、フェアトレード、なんて言葉が存在することが。

アンフェアの存在証明でもあってさ。

「風の盆」のお祭りは、風よ吹かないでくれ、だし、鈴鹿の精錬の民のお祭りは、風よ吹いてくれ、だし。

なんて書き出すと、終わらなくなりそうなので、このあたりにしときます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この世にやって来た子はどんな風に世界を認めるのか

2021年04月11日 | Weblog

どうも、仰々しいタイトルだったけど。

昨日、孫娘たちがやって来ていて、二人目の孫娘、10ヶ月。

しばし、遊んだ。

言葉でもなく、身振りでもなく、なんだろう、なんらかのコミュニケーションを手探りしてみた。

通じたような、通じないような、心許ないものではあったんだけど、楽しかった。

他の来訪者、長男坊や嫁さんや一人目の孫娘には、河岸の市で買い求めた生のバチ鮪がえらくうけて。

とかね、いろいろあったのでした。

ところで、SNS上でもマスのメディアでも、池江璃花子さんの話題が花咲き、って感じで。

たしかに彼女、すごいものだな。

死んでしまいたいくらいの苦痛、苦行からの復活。

番組で、バタフライのストローク、18でやって来たのを17にした、なんてこと、語っていて。

自分のカラダとの会話をしながらの、そんな話が、当方と比べようのないトップアスリートなんだけど。

その凄さが、わが走りとシンクロもし、だった。

いいお天気の中、今朝は、早めに走るとするか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弥勒菩薩の降臨

2021年04月10日 | Weblog

なんていう解釈をする方もあるんだよね。

今回の、コロナ、567⇨666、でミロクってわけだ。

は、ともかく、それぞれがそれぞれの解釈の中で、それなりの世界観を築き、生を繋ぐ。

ということになるね。

だから、これも、一つ。

「コロナは概念」という四コマ漫画が発刊され、重版したのか、な。

いや、どうだろう、それにしても、それなりに売れているらしく。

つまり、頭の中の概念でしょ、コロナ、という解釈。

あるいは、世界的なパンデミックで、用心用心御用心、って解釈もある。

そんな世界観を発信しているグループ、というか、政府と名付けられた領域からだけど。

もっとも、その発信の根っこにいることになっているお役人さんが、呑気に、禁じられた会食。

挙句の、いわゆるクラスター、なんてことで。

メディアに叩かれ、責任者は、まさに叩頭、これ、なんて読むのかな、そんなこと、していたな。

救世主の如くにワクチンを待ち望むグループもあるし、かたや。

副作用が危険で、すでに、何人?何十人?何千、何万人?の死者が出ている、なんてことやら。

分断と言うけれど、いろんな解釈、データ、知見、卓見、意見、感想などなどがあるんだよね。

もっとも、コロナに限らず今までだって、まわりで起こっていることは、そんな類だったのかも、な。

ある中学校で、卒業の記念写真に、一人の生徒をお花で飾って載っけた、だったかな。

よくあるでしょ、写真撮影の時に欠席した子をそうするの、って。

それが問題になり、マスコミからの集中砲火、の渦中にいたのが、わが同級生の教師で。

取材をたびたび受け、ほんとにあったことを語ったのだけれど、もちろん。

あるストーリーで、使い勝手のいいように切り取られ。

なんてこと、元来穏やかな彼、広角泡を飛ばし、までいかない程度の。

嘆き、怒りを語っていたな。

と言う小さな物語もあった。

コロナ、ミロク、パンデミック、と言う流れも、似たようなものだな。

なんてメジャーなところで語れば、こんな言説だって、炎上の素、って算段だろうな。

そんな中、昨夜読んだ、坂口安吾の、「魔の、(なんだっけ忘れた)」と言う短編小説、面白かったな。

あの御仁、いいわ。

戦争中の、荒正人や平野謙やらが登場するの、だけどね。

これ、感想文を書き出すと、キリがないのでやめときますが、力の抜け加減がよかったのでした。

徴兵され戦地に生かされても絶対に生きて帰ってくるぞ、と言うような彼らと、死ぬも生きるも。

流れのままに、なんていう安吾が、現今の世情と瓜二つとも解釈でき。

と言うわけだ。

そんなこんなで、第14候、鴻雁北る、こうがんかえる、に入るとします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする