そうだ。
それを伊藤博文たちが掘り起こし、世田谷の、今では松陰神社となっているところへ移動させた。
なんて文章を、エキセントリックな思想家、副島隆臣さんで読んだんだよね。
というのも、昨日の葬儀で、棺に納められた後の、係の方の仕草がいかにも大切に丁寧に、という風情だったので。
松蔭のことを思い出した次第。
もちろん、かつての戦地には、今でも遺骨は放置されてもいるわけで。
大きな歴史を見れば、松蔭どころじゃない扱われ方はしこたまあったんだろうけどね。
もっとも、遺体の中に、当のその方がいらっしゃるというのでもなく、やがては。
土に帰るのだし、だけど、遺された方々の記憶のためには、当のご遺体が当座の徴でもあるから。
なんてこと、浮かんできたのでした。
ところで、このところまた、ピアノソナタへ戻り、ベートーベンのね。
ピアニストをたくさん輩出している、というのか、各地で神童と呼ばれた方々が功なり名をなし。
今では便利なもので、iPhoneのiTunesですかさずダウンロードできるんだよね。
めんどくさがりの当方としては、もっけの幸い、ってなもんで。
落とす落とす、いつ聴くんだ、くらいの、またぞろの病気が出てきた次第。
たしかに、同じ曲をそれぞれのピアニストが、それぞれの人生をひきづりつつ、あるいは、切り開きつつの。
演奏の数々、わがプリウスライブは、大賑わい、ってなわけです。
悲愴、月光、熱情などなどと名付けられた曲、面白いものだ。
ソクラテスじゃないけど、「無知の知」がいつまで経っても押しかけてきて。
日々がその連続、なんてことにもなり。
定年とか死期とかのゴールを決めるのは、まったくもって、もったいなきことの限りなり、だな。
有為転変、常にいろんなことごとが変化し、転がり、一つとして同じところにない、はずで。
そうだ、今朝も、日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり、なんて言いながら顔洗ったんだった。
そんなわけで、有為転変の今日を生きるとします。