たぶん、これが、昨日も少しふれたけれど、二番目の孫娘からのメッセージだな。
とふと、今、浮かんできた。
目線を合わせて、それに応じれば、一つのコミュニケーションが成立、ってことか。
言葉はとても便利なものなので、多くの場合、それに依拠し、そこでの齟齬に傷つき、とかね。
あるある、ってなもんだな。
1年以上続いている、いわゆるコロナ禍、ってやつで、家族での会話が増えたんだけど。
そこで、自分と子どもたちの関係を、わが父親との関係に置き換えてみたりすることが多くなっていて。
密を避けろ!の社会からの要請により、逆に、亡き父親であったり、施設に入所中の母親であったり、との。
密が濃厚になっているとも言えるか。
だから、コロナ=567で弥勒菩薩なんて説も、満更でもないわけだ。
解釈一つで、幸せにも不幸せにもなる、って格言?だな。
グローバリズムという面の拡がり、もっともっと遠くへ、というスタイルが、国境で、それこそ齟齬をきたし。
人の行き来がままならない状態に陥っている現時点、ナショナルな思いが、さまざまな形で目につくようになる。
のかもしれず。
自分というものの確認作業のとっかかりは、どうしても、他人は自分と違う、ってところから入らざるを得ない。
んだろうしね。
ユニクロの柳井さんが、ウイグルへの圧政に、ノーコメント、ということで批判されていたけれど。
ウイグル綿を使った製品化、って次第だけど、僕も使わせてもらっているし、なんて言い始めたら。
今朝のコスタリカのアキアレス、という珈琲だって、フェアトレード、なんて言葉が存在することが。
アンフェアの存在証明でもあってさ。
「風の盆」のお祭りは、風よ吹かないでくれ、だし、鈴鹿の精錬の民のお祭りは、風よ吹いてくれ、だし。
なんて書き出すと、終わらなくなりそうなので、このあたりにしときます。