当たり前と言えば当たり前だけど、川は川下に流れる、ってのは。
ところが、めでたいことに、というのか、ある気づきを知らせてくれるために、というのか。
わが巴川は、通常の朝は、満潮と重なるのか、川上に流れているんだよね。
なので、他所では日常の光景が、非日常となる、なんてちょっと哲学的な話になっちゃうわけだ。
逆に流れると、流石に、そこに同時に流れるエネルギーも、流れに棹ささない状態なので。
実のところ、くぐもった、滞った、逡巡した、そんな感じでもあるんだな、あえて言えば。
教訓めかしてこの光景を眺めれば、その他の出来事も、ほとんど似たようなものかも、というね。
流れに身を任せず、俺が、私が、僕が、身共が、という具合に、リキを入れ、肩肘を張り、だな。
そんな情景は、そこかしこ、なのかもしれず、俯瞰した、神の如き、宇宙からの視点では、ね。
また今、巴川を眺めやったら同じく、で、いい感じだな。
のだから、本日は、巴川からのメッセージをいただくとするか。
こんなブログ書きを平安時代の、例えば、源氏物語の誰だっけ、与謝野晶子じゃなく、清少納言でもなく。
円地文子でもないか、紫式部だ、彼女はどんな具合に眺めるかね。
なんの益もないものを、とは言わないだろうな、少なくとも。
人々の営為が、資本主義社会に取り込まれる前だからね。
ひょっとしたら、あんた、お腹いっぱいなんだね、とかの感想はあるかもな。
食べ物を探したり、耕したりしなくてもいいの?なんてね、あたしは、これこの通り、下男が持ってきてくれるけど。
とかさ。
今朝は、わがiMacのOSが新調なったので、つまり、アップグレードだっけ、いや、なんてったっけ。
ま、とにかく、新しいバージョンになったので、アップル用語を使うと、最適化するのに少々時間がかかり。
なかなか、文章を打てなかった、なんて事件もあったりしたので、ここまでくるのが長かったのです。
というわけで、雨の巴川を眺めながら、終了いたします。