昨日は、拠なき事情にてブログはお休み。
って、表題なんだけどね。
村のできごと、町内会のドブ掃除が朝も早よから、って次第で。
のだけれど、下水道はそれなりに整備され、泥がたまることも無くなって、ついでに。
界隈は高齢化、の波に抗えず、ってこともありで、結果、ああでもないこうでもない。
なんて話を、10何人か、僕ともう一人だけはタバコを吸いながら、という情景。
のなかで、相方からの言葉を表題にしたのでした。
別段、一年に一度やらなくても、だけど、ご近所さんの安否確認くらいの気分で、ってわけだ。
流通が今のようになるずっと前には、北街道というのは、幹線道路でもあったんだろうから。
それに、何本かの小さな交差点のあるところなので、お店が小さな隆盛を極めもし。
だったんだろうな。
子どもの頃の記憶をたぐれば、あそこが下駄屋さん、ここが桶屋さん、饅頭屋さん。
鶏屋さん、お肉屋さん、八百屋さん、なんてお店がせいぜい100mにも満たない間に軒を連ね、だ。
木曽の奈良井の宿、とか、会津の、なんだったか、とか、もっと言えば、軽井沢の追分近くの。
マイナーな御代田の宿、の宿場町と比べるのもなんだけど、そんな具合に。
そこここに、大きなから小さなまでのプチ繁華街に軒を並べた小さな店の数々、ってことだな。
効率が悪い?生産性が低い?って。
大きなお世話だよな、と思うけれど、押し寄せる近代化の波に攫われちゃった、ってわけだ。
それらは今となれば、跡形もなく、という時間の中で生まれてきた方々からすれば。
そこには何もなく、ただ、家が立ち並び、あるいは、コンビニの駐車場になり、とかね。
歴史は、そうして、過去を過去として葬り去ってしまう、あるいは、くれる、とも言えるか。
ゆく川の流れは絶えないんだ、いつも流れていく。
流れゆく川へ刻むのが恨み、恩は石に刻む、という言葉を僕に残してくれた方、この事務所の近くの会社の。
社長さんだった。
その会社も今はない。
僕の記憶の中にはある。
朝から少々感傷的な気配だね。
今日は、妻の義理の叔父の葬儀だ。
幽界がなくなった、という言説もある今の、あちら側はどんな具合なのか、なんてのも、少し気になる。
そんな葬儀だ。
というのも、そのうち、生と死に関してのことが、明らかになる瞬間があるかも、なんて予感・関心が。
当方の現在なので。
なんてことはともかく、虹始めて見る(あらわる)、という第15候の最終日だ。