なんて書くと、いかにも、だけど。
早い話が、先に走りを終わり、コスタリカのアキアレスと名づけられた珈琲を落とし。
さて、という時間が、7時過ぎ。
雨の、しかも大雨の予報が見事なのか、どうなのかハズレ、今日も走ることができた。
ありがたい。
この間、「エートス」というお店で、店長さんなのか、オーナーさんと呼ぶ方がいいのか。
あるいは、焙煎士でもいいか、そんな御仁との会話で、中南米の浅煎りがタバコにあいますね。
ってやつを、今朝は実践、という風情だな。
もっとも、こちらは浅煎りでもないのかな、にしても、ほんの少し、酸味も感じないこともない。
なんて朝、昨日来社された御仁と、「天国にちがいない」という映画、その標語について意気投合。
彼、そのフレーズ、どこかで聞いた、とiPhoneのEvernoteから、倉本聰のフレーズ。
『人生は、アップで見れば悲劇だが、ロングショットでは喜劇である』を探し出し。
どうやらこれは、チャップリンが言っていた言葉らしいね。
一つの瞬間、当方に引き寄せれば、「トゥルネラパージュ」で音にひたった後、さて一服するか。
とお店の外の喫煙席に座らんとした時に目に入ったポスターに書かれた、くだんのフレーズ。
そこにインスパイアされ、来社の御仁のなかの何かと絡まり、その瞬間は、どこかへ放り投げられ。
そのうち、また、何かのタイミングでやってくる、というわけだ。
というようなことが、まさに、アップの人生でもありロングショットの人生でもあるな。
悲喜劇交々、って事になるか。
そんなアップダウンがなければ、ロングで、つまり、引いてみている観客席からの視線では。
つまらない映画だよね、って。
走り終わった後の文章は、で口がいいような、なんだろう、ま、いいか。
夕べの短編小説は、谷崎潤一郎の「母を恋ふる記」だったけれど、途中で眠くなってしまったな。
内容が眠い、というのではなく、わが睡魔がやってきたんだよね。
なにせ、前日は浜松帰りなので、4時15分起床・瞑想、というわが日常では非日常だったので。
され、今日に入っていくか。