なぜか、今朝は、こんな表題になってしまったのだけれど。
何十年前になるのか、学校から帰った庭先で母親を詰った僕がいたわけだ。
もちろん、母親は泣き始め、だ。
どんな理由からだったのか、いずれ、何かの行動、仕草を母親に叱られた腹いせに、って流れだろうな。
それにしても、ひどい言い草、世の母親方からは総スカン食いそうな物言いだよね。
それなら、からの始まりがまた、ありがちな心理というのか論理というのか思考グセというのか。
そんな流れでもあるね。
僕のこの時のフレーズは、僕の中で生きているのだけれど、果たして、母親の中では、というのか。
その外の、どこに格納されているものなのか。
要介護度3、いや、4だったか、であれば、現在時点での記憶の手繰り寄せ方は、おぼつかなく。
昨日、お昼時、タランティーノの「パルプ・フィクション」という映画の話題になり。
あれ、冒頭のシーンを、いくつかの視点で撮っていて、それを斬新な思いで観入った記憶があるんだけど。
われわれが日々、日常の中で体験・経験していることを、神の如き視点で描いていた、とも言えるか。
面白かったな。
そんなタランティーノもハリウッドを密かに襲っているスキャンダルの渦中の人かも、なんて話もあったり。
悲しい話だ。
それはともかく、今朝の雨は、いい雨だな。
春雨じゃ濡れていこう、と大見えを切りつつ今日に出かけるとします。