まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

老いは一からの出直し

2006年09月15日 | Weblog
コンビニで立ち読みしていたら、どこかのえらいお坊さんが、言っていた。

老いは一からの出直し。

おさらい。

きれいな心でかえっていくために、と。

これ、いつか、妻も言ってたな。

きれいな心でかえりたい、って。

生まれたときにはきれいな心なんだけど、見過ぎ世過ぎの間に、ちりあくたが積もってしまう。

それをきれいにすることが、老いの役割でもある、というのが、そのえらいお坊さんの意見。


ところで、縄文時代に文字があった、と言う。

「ヲシテ」というらしい。

その中に、ユキキノミチ、つまり、この世とあの世の、行ったり来たりの道、という表現がある。

天からタマ(こころ)が降りてきて、シイ(からだ)と合体して、タマシイになる、ということらしい。

きれいな心にかえらないと、あの世に帰ることができず、シイをなくしても、この世をうろうろしなければならなくなる、という。

そのやり方を書いたのが、ススカのミチだ、と。



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習慣

2006年09月15日 | Weblog
朝起きると、パソコンの電源を入れて、ぼくのブログを見るのが、習慣になっちゃって。

と、ケーキ屋けんちゃん。

この間、御神輿おたくやパソコン教室のお姫さんたちと飲んだとき、彼が言う。

そりゃ、うれしいね、と思いつつ、おれも、6時におきて、パソコンに向かっているよ、と。

おじおば会って、彼の口から出てきたときには、不思議な感じだった。



近くにいた鉄工所が、ぼくの女房は、10年くらい、HP、ブログに日記を書いてて、オフ会なんかもやってる、と言う。

だけど、僕は知らないことになっているんだ、と。

かたつむり日記さんも、そんな話だったな。

だんなさんには内緒だって。

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リセットボタン

2006年09月14日 | Weblog
もしもリセットボタンがあったなら、と妻と話す。

このボタンを押すと、よすぎみすぎで身についたもろもろの感覚が、すべてなくなり、1万年くらい前の人間にもどる、という想定。

その人が、この時代に登場したら、途惑いの連続、大笑いの連続だろうね、と。

衣食住が、これほど、満たされた時代はありえなかっただろうし。

なのに、なのに、なのに、と。





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パトリオット

2006年09月14日 | Weblog
メル・ギブソン主演のパトリオット。

1776年、アメリカの独立戦争が舞台の映画。

イギリスの国王軍とアメリカの正規軍・民兵の戦いを描いているわけだけど。

残虐なイギリス軍に対するレジスタンス、という構図。

主人公の子どもが殺され、子どものフィアンセも殺され、堪忍袋はパンパンになり、ついには、破裂する。

時と所を変えたら、どこかで見た構図だ。

よくよく人間って、歴史から、学ばないものだ。

イラクであり、アフガンであり、レバノンであり、パトリオットの群れを、日々、作り続けている。

見ていて、不思議な気がした。

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むずかしいこと

2006年09月13日 | Weblog
私にはむずかしいことはわからないけど。

というのは、先輩の奥さんから、よく聴いた言葉。

長男のところに、お嫁に言ったわけだけど、姑さんのくちぐせだったらしい。

彼女は、もともと、文学少女で、表現ということにこだわっていた。

医者の娘で、知的な雰囲気を漂わせていた。

お姑さんも、僕には気さくな人に見えるんだけど。

だれしも、自分の思い決めた役割にはまり込んでしまうと、モード、変わっちゃうからね。

社長、夫、妻、母、父、子、従業員などなど、いろんな役割、あるからね。

お姑さんが、その言葉を発すると、何も言う気がしなくなる、と、かの先輩の奥さんは言っていた。

そりゃ、そうだ、翻訳すると、あんた、なに、えらそうなこと言ってるの、だまりなさい、と意訳する気になればできるし。

実は、あなたと、もう少し、心を通い合わせた会話をしたいの、という具合に、意訳をすることもできるんだけどね。

わが知的な先輩も、お嫁ちゃん、という役割にはまり込んでもいたんだろうから。

人間、おたがいさまで。

蛇足ながら、彼らは、今は、別々の人生を歩いている。
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キャベツ畑の夜

2006年09月13日 | Weblog
井川のキャベツ畑へ行った時。

これは、野○をするところ。

大地に向かってすると、病気もなおる、とは、オーナーのOさんの弁。

その晩、酔った彼は、そこへ泊まっていくことになる。

夜は暗いだろうな。

漆黒の闇。

物音もしないし、人の気配もしないし。

彼いわく、かもしかが口紅つけて、カラオケ歌いに来る、と。

自称大正13年生まれ、ほんとは、10歳くらい若いんだろうけど。

53歳のとき、親友がなくなった。

この間、泊まった時、酒を飲みながら、その彼を呼んだんだって。

でも、来なかったな、とポツリと言う。

朴訥な彼の語りには、哀愁があった。

超能力者ごっこで、実は、そのとき、その彼は、そこにいたよ、なんていう、軽口は言えなかった。



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こわがりの理由

2006年09月12日 | Weblog
うちの妻も子ども達も、こわがり。

夜、風呂やトイレに行くのをこわがる。

と、以前、アップしたことがある。

それは、おれに見えないものが見えるからだよ、なんて、半ば、冗談めかして言っておいたりもしたんだけど。

夕べ、妻が口を開く。

実は、2~3年前から、気になっているところがある、と。

その昔、源頼朝の腹心だった梶原景時、鎌倉から京へ逃げるとき、この地を通ったんだけど、土地の豪族と激戦になり、結局、一族そろって討ち死に。

そのうちの一人、名前はわからないけれど、山梨県は韮崎出身の方が、屋敷のなかに眠っている、ということで、地の神様を祀っている。

そのお墓のあるあたりが、気になるんだ、という。

その話を聞いたとき、背筋がぞくっとしたから、そりゃ、きっと、ビンゴだね、と思う。

そこへ、母は、毎朝、お線香をあげる。

時代をまたぎ、時代をたがえて、エネルギーは、いろんな化学反応として、あらわれる。

おかげで、夕べは、妻は風呂はいらず、ねる。
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ヒーリング

2006年09月12日 | Weblog
ヒーリングってきくと。

ふぃーりんぐ おおお ふぃーりんぐ というハイファイセットの唄を思い出す。

ので、なんとなく、いい感じに聴こえる。

癒すという訳をあてたりするので、余計だね。

誰かのブログにあったけど、HEALINGって、ギリシア語のHolos(全体)からきてるらしい。

Whole(全体)Holy(聖なる)Health(健康)も同じ。

人と人、人と地球の関係、その中で、欠けている部分を修復する、みたいなイメージがあるな。

ただし、あくまでも、修復で、根本的な解決、というわけではないようにも思う。

じゃ、どうするの、ともなるんだけど。


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いなご

2006年09月11日 | Weblog
南伊豆では、ハスの花は見れなかったけど、足を踏み入れると、イナゴの群れ。

長女である母親は、その昔、よくイナゴの佃煮を作ったことを語る。

末のおばは、幼くて、よく覚えていないようだったけど。

一晩、袋に入れておくんだって。

黒い糞を全部ださせ、その後、足とヒゲをとってゆでる。

その後どうするのか、は聞かなかったけど。

とにかく、貴重な栄養源だった、と。

わがふるさとでも、そこかしこに、イナゴはいたけど、時を経る間に、イナゴの生息する場所は、人間の居住区に変わってしまった。

イナゴは見えなくなったね、ですましているけど、猿なんかは、たくましいから、里に出没して、迷惑している、なんてニュースがある。

猿のDNAの中には、おれの縄張りによそもんがはいってきて、という思いもあるんだろうね。

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臥龍橋

2006年09月11日 | Weblog
井川、富士見峠近くのキャベツ畑へ行く。

とりたてキャベツとお肉のバーベキューは、はじめて味わう、といえるほどのおいしさだった。

昭和46年から開墾をはじめた、という0さん所有の畑。

そりゃ、いろんなご苦労をされただろうな。

標高1000mなので、見上げるジャンボジェットの機影も、透き通った白が、とても、美しい。


写真は、帰途、臥龍橋、と名づけられた橋からとったもの。

同行の表具屋のオヤジが、滝が好きだということもあり、それに、龍が臥せる、というのも、なかなか、そそられる名前だったので。

井川街道というのか、この街道ぞいには、白髭神社が散在している。

ずっと、南に下った久能の海岸から、白い、長い髭をもった先人が、沢伝いに北上したのかもしれない。

その途中、龍が臥せるようだ、という感想を残して地名になったのかも、と自称素人妄想歴史家は思ったりしている。
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