まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

老いは一からの出直し

2006年09月15日 | Weblog
コンビニで立ち読みしていたら、どこかのえらいお坊さんが、言っていた。

老いは一からの出直し。

おさらい。

きれいな心でかえっていくために、と。

これ、いつか、妻も言ってたな。

きれいな心でかえりたい、って。

生まれたときにはきれいな心なんだけど、見過ぎ世過ぎの間に、ちりあくたが積もってしまう。

それをきれいにすることが、老いの役割でもある、というのが、そのえらいお坊さんの意見。


ところで、縄文時代に文字があった、と言う。

「ヲシテ」というらしい。

その中に、ユキキノミチ、つまり、この世とあの世の、行ったり来たりの道、という表現がある。

天からタマ(こころ)が降りてきて、シイ(からだ)と合体して、タマシイになる、ということらしい。

きれいな心にかえらないと、あの世に帰ることができず、シイをなくしても、この世をうろうろしなければならなくなる、という。

そのやり方を書いたのが、ススカのミチだ、と。



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2 コメント

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Unknown (macoron)
2006-09-15 16:42:21
いつか自分のブログで書こうと思っていたネタですがここに書かせていただきます。



反論とかじゃありませんので、

「こんなこと阿呆親父が考えているのか」

程度で受けとって下さい。



人生の体験はダシをとるのとよく似ていると思うのです。

人生で出会ういろんなことはダシの素なのです。

これらのものから、いかにおいしいく澄んだダシをとるか?

それが、その人の人間の深さになってくると思うのです。

同じようなダシの素をつかっても、できるダシの味はそれそれです。



そして、いいダシがとれたら残りのカスは執着しないでポイと捨てちゃう。

こうすれば、こころをきれいにしていくことはできます。(言うほど簡単なことじゃないけどね)



生きてきて、こころにちりあくたを積もらせるのは悪いことかというと、そうではないのでは・・・・・

と思います。



このちりあくたは、ダシの素かもしれません

人生その時その時で、常にきれいなこころにしていれば

年をとって、よりおいしいく濃厚なダシをとることができる。

そのように考える私です・・・・・



ただ最近、捨ててきたダシのカスの中にも

大切なものがあったなぁと思い、

もう一度カスの中をあさっている私もいます。





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同感です (糠漬け初心者)
2006-09-16 20:07:23
いつも、真摯なmacoronさんと等身大のコメント、ありがとうございます。



僕も、ちりあくたを積もらせるのは、悪いことではないと思っています。

いいとか悪いとかを超越して、人間の生きている時間はある、と思えるからです。



昔の話ですが、ショーケンといしだあゆみのことです。いしだあゆみが、悪たれ小僧のシーョケンに対して、いいところも悪いところも含めて愛している、みたいな事を言っていた記事を読んだことがあります。

自分にたいしても、他人にたいしても、そう思います。



きれいなこころ、というのは、かくあるべき姿、ではないと思っています。



《ただ最近、捨ててきたダシのカスの中にも

大切なものがあったなぁと思い、

もう一度カスの中をあさっている私もいます。》



この姿は、僕も同じだと思っています。

つつみかくさず、ジャッジせず、生かす、と呪文のごとくに唱えていますが、自分の過去さえ、トラウマさえ生かす、という姿勢です。







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