言葉の意味、じゃなく、リアルな、生の闇。
山に登る人なら味わうことができるかな。
というのも、夕べの、呑みの相方、遠州は森町出身で、幼い頃の話。
雲の厚い夜などは、まさに、表題のごとくで。
ほんの数十センチ先の人の顔さえ、見えない闇だそうで。
星の灯りで見ることはできるんだけど、と。
それほどに暗い、漆黒というわけだ。
この表現はインパクトがあり、記憶に残る呑みだ、と表現してしまうくらい。
万葉集や古今和歌集などの、古典をあれやこれやと評論する、ま、味わう、と言ったほうがいいか。
のだけれど、果たして、都会の真ん中の書斎で、なんてシチュエーションで育ったとしたら、彼の。
表現した、漆黒の闇、ってのを、どれだけ感じ取れているのか、危ういな。
なんて話は、そこら中にしこたま、転がっているんだろうな、とね。
妄想する世界とまんまの生身の世界、とでも言えるか。
生身の世界も、妄想からなる言語を使わなければ、どうにも伝わらない、ので、そこに。
文学が発生する、なんて書くと、随分と大げさな話なのかも、だけど。
古来、数多の賢人たちが、その体得、体感した真理を、つまり、言葉で伝えられないことを言葉によって。
創意工夫の中、たくさんの文書が残されてきた。
新約・旧約の聖書にしても、歴史的には、誤読の連続なのかもしれなくて、と。
誤読が時に意図的になされ、権力に結実し、みたいなね。
そういえば、友人のお父上、戦時中、薩摩は特攻基地で有名な知覧、の近くの鹿屋にも、特攻基地があったらしく。
そこでの整備兵だったかな、なのだけれど、終戦後、戦時の話は一切語らず、その代わり。
召集されなかった弟さんが、お酒の席では語った、なんて話を聞いたことがあり。
語れない、黙せずにはいられない、そんな体験もあるんだよな、と思ったものですが。
すべてを白日のもとに晒し、マニュアル化し、言わなきゃわかんないだろう、みたいな風潮、というのかね。
だけど、言えば言うほどわからなくなる、なんてこともあるんだろうね。
秘すれば花、なんてフレーズ、あるし。
くらいの話にまで展開する、「漆黒の闇」だったのです。