と言う、いきなりの愚痴めいた表題なんだけど。
忙しいからダメ、ってわけでもなく、また、昨日と同じような。
忙しいは、心を亡くすほどに無心になる、なんて話だな。
無心になる時間が、増えた、瞑想的に生きている時間が長くなった、とも言えるわけだ。
って、少々、くどいかね。
そんな中、今朝は、マンデリン。
開封されずに二週間は経過してしまったか、なので、ちょっと、心配していたんだけど。
酸味もそんなに感じずに、まろやかな甘さとともに、味わった。
彼ら、生き物だよね、当たり前だけど。
水には、人類のすべての記憶が宿っている、なんて話もあり、毎朝の神棚。
水換えの時には、丁重に彼らにご挨拶をし、あなたの記憶のすべてをいただきます、なんてね。
そう、もう師走なのに、去年からの榊が青々としていて、驚嘆のかぎりなり、って次第で。
わがスペースの清らかさ、あるいは、流れのよさ、を毎朝、再確認させていただいているんだよね。
このところ、見える世界と見えない世界の境界、または、それへの言及についてのタガが外れたようで。
感じるママを、気になるママを、書き表してもいて、なにせ。
そのあたりの禁忌、タブー、ひそひそ話の由来ってのが、せいぜい、明治の維新期、由来。
程度の、人類創生からすれば、ほんの須臾なる時間でしかなく。
そんなところで狐疑逡巡していてどうするんだよ、ってなもんです。
おおらかに、爽やかに、滞りなく、思いのままを語ればいいんですね。
どのみち、言葉に表し、誰かと共有すれば、そこでの修正、昇華なんてのは、いともたやすく。
できるんだからね。
当時、と言うのは、明治期、修験者や加持祈祷師や、そう言った類の方々は、20万人いたそうで。
さらに、それらの方々の係累まで含めれば、相当な数の塊が、排除、排斥、パージされ。
と言うんだから、途方もない、精神の、文化の、土俗の、革命だったんだよね、あの頃。
そこに視点をおかずに、やれ、道徳が、とか、最近の若い者は、風潮は、と言う嘆き節は。
どうもね、片手落ち、って具合だな。
と言うわけで、次なるルーティンに入るとするか。