今朝の道中なんだけど。
車が近づいても動ぜず、こちらも減速をし、止まらんばかりで。
恐る恐る通り抜けた。
ちょうど、小芝神社の前だ。
おっとりして朝を味わっている風情で、平和の象徴なんて言葉も浮かびそうだけどね。
えさやりの時なんか、流石に、そこは生存本能が溢れかえり、他者をはねのけ餌にありつく姿は。
平和という言葉に託した、その本質でもあるかね。
雨雲が猛威を奮った後は、今度は、猛暑、という言葉では、ちょっと、勘違いしてしまうかもしれない。
各地での40度越え、あるいは、39度、38度の文字が踊る。
福岡に住む、退職薩摩隼人からの電話では、誰もこちらを案じての電話をくれなかった。
という嘆きのものだったらしく、変わらぬ自虐ネタで、逆に、安心もしたりしてもいて。
なんだけど、この酷暑?だ。
もちろん、安全パトロールなんかへも行く身としては、そんな言葉遣いもせざるを得ず。
想定に踊らされるな、だっけ、命てんでんこじゃないけど、片田教授が唱えていたフレーズ、あったよね。
三陸は、鵜住居での津波からの逃亡劇。
知識の防災ではなく、行動としての防災、とでも言えるのか。
言葉を吐いて安心してしまう、という心理というものもあって。
いやいや、ここで、防災の話をしたいんじゃないんだった。
感覚、というのか、体感、というのか、暑い暑いというけれど、割と自分の口からは言わない。
という自分のことについて、考えてみようかな、とも思っていたんだ。
何故なんだろうな、と。
暑いね、というのは、時候の挨拶程度で、応酬もしたりもするけれど、その実。
そんなに参っているわけでもなく、というね。
日頃のテーマが、言葉に引っ張られない、というのか、踊らない、というのか、言われていることを疑う。
と言うのかね。
そんなんなんで、暑さについても、そのズレを感じてもいて。
この列島には、四季があり、素敵ですよね、と言うことになり。
その折々の風景も愛でることができるんだけど、逆に言うと、そこそこの変化があっていいんだよね。
と言うことでもあって、変化が激変に変わった時、果たして、どうなんだろうな、と言うわけだ。
酷寒の地であれば、カラダも感性も酷寒仕様、酷暑の地もそうだよね。
その酷暑仕様の働き方を見て、ほんと、かの地の住人は、働かないよな、なんて嘆く姿が。
わが四季仕様のものでもあってね、そこからの卒業というのか、変容というのか、骨折りだろうな、と。
なにせ、よく働くでしょ、律儀にして勤勉、ってね。
それが災いとなる、なんての、誰も気がつかないよね、だって、いい人仕様でしょ、律儀、勤勉なんての。
誰も文句言えないんだからさ。
そこへ、不要不急の事態以外、家の中にいてください、という酷暑予報の中、現場で働く。
しかも、1秒を争う新幹線の発着時間、ってことだからさ、あるいは。
賞味期限、これ切れそうだよ、みたいな買い物の姿とかね。
いいと思っていた、律儀さ、正確さが、いやいや、それは、四季折々を愛でることのできる土地柄由来でしょ、みたいな。
因果は巡る、なんて言葉、あるけど、まさに、巡るんだよね、自分のところへ。
なんて感想をもつ、40度オーバーの列島模様だ。