銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

角野栄子がNHK歳末助け合い運動の顔に-2・・・・・横浜関内に在った横浜市立教育文化センターが、潰された。それは、近美鎌倉館の閉鎖と、同じ仕組みであろう

2018-12-13 07:11:45 | 政治

 今は、13日の午後2時ですが、非常に驚くべきことを発見しました。横浜市関内駅そばに在った画廊と美術館を兼ねた横浜市直営のビル(旧名教育センタ-)がなんと、関東学院に売られてしまって居たのです。

 驚きました。これは、東京では、上野の都美術館に、該当する施設で、上野の都美観で、開かれていた、公募団体展の、神奈川支部展が、開かれている場所でした。長年にわたって、神奈川県における、アートの中心地のひとつだったのです。

 この破壊は、神奈川県立近代美術館・鎌倉館の閉鎖と、まったく同じコンセプトで、行われたと、思います。すなわち、私に対する個人的な弾圧としてこの、両方が、移転をしました。

 この考え方は、思い過ごしでも何でもないです。今、このセンターのwikipediaから、簡単な、歴史的背景を語る説明文をコピペしようとしたら、できないのです。これは、完璧にCIA軍団が裏に居るケースなのです。したがって、私がこの章の中で、言って居ることは100%、正しいのですよ。でも、できない所を、種々の工夫をしてやっと、成功したので、巻末に、後注4として、その施設の歴史的意義を述べます。

 その施設が、破壊をされたのは、残間理恵子さんが、2001年に、そのビルの八階のホールで見るも無残な形で、私を排除したからです。つまり、簡単な言葉でいうと、500人の聴衆の面前で、侮辱の極みの眼に出会ったのです。それを、私が書いたとたんに、その施設は、壊されることとなったのでした。文末、副題6で、それを語ります。

それ(=公共の用地を、関東学院へ売り払う。しかも、8年間も使わないで居た上で、そんなことをした)が、急に発見をされたので、朝予定をしていた角野さんと、対照的な例としての、女性文化人を上げて行こうとしていた文章は、副題5以降は、ここでは、省きます。教育センターの破壊は、大事件であり、反語的に言えば、私が、どれほどの、大物であるかを証明する出来事ですから、角野栄子と言う、個人の事は、ちょっと、ペンディングとして、横に、置いておきましょう。

  そのコピペできなかった部分の、特に歴史的な背景とうは、こちらの冒頭にも、二度目として、置いておきます。

横浜市教育文化センター(よこはましきょういくぶんかセンター)は、横浜市中区万代町1-1にある地上11階・地下2階建ての複合施設である。JR根岸線関内駅前の大通り公園に面した一角に、1974昭和49年)に完成した。前川國男の設計により、打放しコンクリートとレンガタイルで仕上げられた、4つの建物が合わさったような外観を持つ。建設当時は大通り公園直下で市営地下鉄の建設工事が行われており、3工区に分けて作業が行われた[2] 2階には収容人員524[1]の横浜市教育文化ホール、地下1階から地上3階にかけては横浜市民ギャラリーが入り、横浜市教育委員会も事務所を置いていた。特に横浜市民ギャラリーは2010年の実績で利用率99%、年間46万人の来場者があったが、1996耐震診断で倒壊の危険性を指摘され、東日本大震災により建物の存続断念が決定された[3]。横浜市民ギャラリーは2012年度末で一旦閉館し、20141010日に、横浜市西区宮崎町の市職員会館「いせやま会館」を改修して再オープンした。その他の部分についても20133月末をもって完全閉館し[4]今後解体される予定である[3]。跡地は関東学院大学により、20224月完成を目標にキャンパスや、市民も利用可能なホールやギャラリーからなる建物が建設される[5]

 こんな大切なものが、そこで、残間理恵子が、私をいじめただけで、潰されるのですよ。耐震何とかとは、口実に過ぎないです。どうしてかというと、残間理恵子の後ろには、大物、CIAエージェントが居て、その人間たちが、ビビりだからです。

 悪い事をしているくせに、自分達の真実の姿が世に出て行くことを極端に恐れているからです。

 特に、私が死んだ後に、「あれは、嘘だったよ」と、する為に、この建物を、潰すのです。もし建物が無くなって居たら、若い読者は、『本当に、雨宮舜の方が、嘘を書いているかもしれないなあ』と、思うかもしれないでしょう。だから、それを狙われているわけです。

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これは、前報(18-12-11日付 後注1)の続きです。そちらには、昨12日の夜に、大量のエピソードを入れ込み始めて、推敲が終わりそうもなくなったので、まず、角野栄子さんが、関連している部分だけを、中心に纏めようと、13日の朝、考え直したところです。しかも、角野栄子さんが、新橋駅で、過剰に傲慢であり、他の人なら必ず答えてくれる、あのいちご色の秘密を、何故、私には、その時に、教えてくれなかったかと、言う部分の、謎解きに入ります。そこから、種々の、他の謎も解けて来るし、例のCIAエージェント足る人間の、・・・・・特に伊藤玄二郎と、自分を公的には死んだことにしているが、本当はまだ、生きて居て、この種の各種の罠を案出している、井上ひさし・・・・・の悪辣ぶりが、あぶり出せるからです。

副題1、『私は目の前(=TV画面)に、角野栄子さんが、で、正面切って、かつ、ビッグサイズで、現れたので、びっくりして、18-12-11に、改めて、wikipedia を読み直した・・・・・すると、彼女は早稲田大学を卒業後、紀伊國屋書店出版部へ入ったと、出て居た・・・・・なるほど、それなら、伊藤玄二郎とは個人的に親しいでしょうと、納得をする』

 12月11日の火曜日に、主人と一緒にテレビを見て居たら、前の前にビッグサイズで、角野栄子さんが現れたのです。それで、前報で、軽く、・・・・・角野栄子さんと、私が似ているかどうか・・・・・を、語っています。主人が「お前とそっくりだね」と言うので、検討してみました。しかし、その時、私の頭の中に在ったのは、それほど、簡単な事ではないのです。この20年間の事・・・・・特にチャンスを潰され続けて来た、過去の出来事・・・・・が走馬灯の様に頭の中に浮かんだのでした。

 角野栄子さんは、そのテレビコマーシャルにおいて、紺色のお洋服を着て居ました。瞬間的に消えたので、プリントだったかどうかは、判りません。もし、プリントだったら、彼女自身の描画、もしくは、お嬢さんの描いた絵から採ったモチーフを全面に散らしてあったかもしれません。それは、wikipediaによると、デザイナーと結婚をされたそうで、ご主人側の、人的コネもあり、自分専用の生地を特注で作ってもらえるのでした。

 前報に、そのいちご色について、私が分析した文章があります。私は、自分の才能は、主に、美術系の創作に在ると、自認をしているのですが、特に色についてセンスが高いのです。今、文章を書いているのは、文章だと、パソコンを使うと、細切れの時間でも出来上がるからです。それと、場所をとりません。美術系作家として、全部で、9回、あっちこっちで、個展をした私が更にいい物を作ろうとすると、膨大な道具と場所が必要なのです。でも、ともかく、美術に詳しいので、新橋駅の、地下六階のホームにおいて、私は、以下の如く考えたのでした。

 『傲慢なこの人は、私を無視しているわ。しかし、私は、こういう事を語りたいのだがなあ』と。

  「私は画家なのです。この色は、どちらかというと、シャルボネと言うパリの版画インクメーカーのカーマインという色に似ています。でもね、油絵具でいうと発色が全然違っていて、(それは、版画インクは染料の一種であり、透明度が高いが、油絵具は、岩石などの粉末を油で溶くので、まったく違う素材ででき絵居るからですが)カーマインは朱色です。油絵具でいうと、この色(角野さんが言うイチゴ色)は、Holbeinの、Cadmium Red Purpul が似ていますね」とか。

 もし彼女が私の会話に乗ってくれたのなら、さらに、パリのシャルボネ本店の話に入って行ったと、思います。画家や、版画家は、実際問題としては、その本店では買いません。高いからです。同じシャルボネのインクでも、紙や、薬品などの他のものと一緒に、5%ぐらい値引きしてくれる問屋から、買います。しかし、その本店に、現れているものは、パリが、世界に誇る美的センスと、エスプリなのです。新宿の世界堂も陳列はきれいです。銀座の伊東屋も、陳列がきれいです。しかし、シャルボネ本店とは小さくて、白と茶色だけがお客に見える形の、宝石箱のようなお店なのです。

 それを語りたかったのですが、角野さんが、まったく無反応なので、私は、彼女のそばを去りました。

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副題2、『今、ひどく驚いたのだが、大内順子さんが、2014年10月30日に亡くなっていた。NHKは、一切報道をしなかった。裏から伊藤玄二郎たちが、そうせよと、指示したと思う。ひそい、ひどい。小林幸代さんのケースは特番まで、放映をしたのに』

  NHKが、鎌倉エージェントと、私が呼ぶ集団に、100%支配を受けているのは、この大内順子さん逝去のニュースがメインでも、プチニュースでも一切出なかった事でも明らかです。葬儀(しのぶ会)に、千人もの出席者があったと、言う事でもわかる様に、大変な、人気者であり、大物だったのですよ。このブログは、フィールドを政治と限定をしていますので、もしかしたら、大内順子さんを知らない人もいるかもしれませんが、少女期から、その美貌で知られたファッションライターです。中原惇一が描く美少女のリアルアイコンと言ってもよい存在でした。その後、交通事故に出会って、顔に傷を負ったので、大きなサングラスを常用していた人ですが、サングラスをかけて居ても、その美貌と品の良さは、際立っていたのです。

 私は、一本ブログを書いています。それが、また、美しい文章なので、それを再び、ここで、使う事を恐れて、大内順子さんの逝去をNHKニュースは伏せたのでした。どういうブログかと言うと、六本木のミッドタウンの、B1で、偶然見かけた大内順子さんに、声を掛けて、「上でお茶をご一緒しませんか?」と、言ったら、「いいですよ」と、賛成してくださったのです。そして、45階のリッツカールトンのロビー(お茶も飲める)で、一時間半程度、その後で、二子玉川に帰える、彼女とご一緒したのです。その際に、私の方が、「私は東急電鉄の全線切符を持っているので、二子玉川を回って帰るのは、別に何でもないのです。お話をもっと聞きたいです」と言ったからです。

 その日の私の方の目的は、サントリー美術館を見た後でリッツカールトンの、45階でお昼のビュッフェを試そうとしていたのでした。しかし、お昼のビュッフェは、まだ始まっておらず、従って、田園都市線で、二子玉川に帰って来たのでした。

 その頃は顔写真が全国的に出回って、このひととは付き合わない様にと、命令が下る・・・・・(誰を通じてといえば、残間理恵子とか川名昭宣とか、林真理子とか、中瀬ゆりなどを通じてだと、思うが)・・・・・という妨害がなかったので、ありとあらゆる有名人が、一緒に話をするのを同意してくださったのです。私は、実はすこぶる魅力的な存在なのですよ。顔が美形でもないし、有名人でもないのですが、話の内容と、態度が、素敵なのです。

 大内順子さんの方は、地下一階で、開かれていたランヴァンの内覧会を見た帰りだそうです。もうちょっと、お茶の時間を伸ばせば、ビュッフェは始まるのですが、大内順子さんほどの、有名人だと、ビュッフェなんか嫌いなはずなので、私は一緒に帰る事を提案したのです。

 私の方は、当時、東京圏内の、ありとあらゆるビュッフェを制覇することに、取り組んでいました。そして、一人で、それを試しながら、心の中では、京橋の有名画廊のオーナーであり、同い年であり、しかも、私を、味方してくださったが故に殺されたのではないかと、私が考えている、山口みつ子さんと、一緒のつもりでした。

 私は結構、おしゃべりな方ですが、その日は、大内順子さんが、嫌がらない限り、相手への質問をして、彼女の考えを、聞き取る方へ専念をしました。ありとあらゆる概念が、私には、ピンときました。本日丁寧に、彼女のwikipediaを開いてみた処、彼女の父親が、横浜正金銀行勤務であって、子供のころは上海にいたと、あり、『ああ、それでなのだ』と、納得をした次第です。

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副題4、『・・・・・戦前に、中国大陸に渡って、そこで、過ごした人は、スケールが大きい・・・・と、元アメリカ大使館勤務の高校の先輩・斎藤敏江さんが、言った。それが、大内順子さんにも、私にも当てはまるのだった』

 大内順子さんの父君は、元、横浜正金銀行勤務だそうです。そこにもちょっとした、共通点がありました。実は、私の母は結婚後、そこに勤めているのです。父は、結婚後、母に物足りなさを感じて居たのです。下関の高女専科(今でいう短大)卒ぐらいの学歴の母では、・モガ・足りえないと、思っていたのです。知識や教養が不足していると考えたのです。でも、若いサラリーマンの給料では、私立の女子大に、妻を通学させるのなど無理ですから、代わりに、できるだけいい会社に、勤務させようとしたのでした。当時の父は、早山石油・・・・のちに丸善石油とその名前を変えた。今は統合があまりにも複雑に進んだので、今のその会社名は、皆目わからないが、・・・・の精油所のエンジニアであり、夫婦で、生麦に住んで居たのです。母の父は、母の実家の養子でしたが、後に、別の家の養子になった人で、当時秋山姓でしたが、既に、旧制・柳井商業中学の校長だったので、母はどんな会社にもスムーズに入社できたのでした。

 その後、父は満鉄(調査部、中央試験所)というところに転勤します。当時の日本は石油が必要で、石油エンジニアは、満州で研究することを求められていたのでした。頁油岩(現在の言葉でいうシェールオイル)を、研究していたのです。美術評論家の金沢毅氏は、おしゃれでしょう。ボルサリーノに、ロングコート。或る時、ふときいたのですが、父君は満州政庁勤務だったそうです。当時の満州とか上海で、暮らすのは、日本で過ごすより、ずっと自由で、民主主義的だったそうです。川名昭宣君も親が満州エリートではないかなあ? 安倍総理大臣も祖父が満州政庁勤務ですよ。岸信介氏の事です。

 その日の大内順子さんは、繊細で、謙虚な人でした。その大内順子さんと角野栄子さんは、二、三の共通点があります。それは、女性に好まれるタイプの有名人だという点。(フェロモンたぷっぷりでアッピールしているわけではなくて、素敵なおしゃれでリーダーシップをとっているからでしょうが)他です。

 しかし、私に対する態度は、正反対でした。 角野栄子さんの不は、抜群に冷たくて、犬みたいに、こちらをあしらったわけです。が、そういえば、18年前に、最初の人間として、私を犬みたいに厚かったのが残間理恵子さんでした。角野さんの裏に居る人物と、残間さんの裏に居る人物が同じだとは思いません。そして、彼女たちを納得させる手法も同じだとは、思いません。が、そのどちらをも、是から分析をして行きたいです。

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副題5、『2001年に、横浜関内で、私は残間理恵子さんから手ひどい差別と、排除の態度を取られた。それは、ホールでのシンポジウム会場でのことだから、新橋駅ホームで角野栄子さんから、排除の処遇を受けた時よりも、被害程度は大きい。500人以上が、注目をする中での出来事だったから。その裏側を、18年後の今、推理してみよう。角野栄子さんを教唆洗脳するよりも別のルートが使われたと思う』

 2001年9月2日から鳴り物入りで、横浜トリエンナーレが開かれました。第一回です。その前に、横浜関内駅前に在った、教育センター八階のホールで、シンポジウムが開かれました。司会者は、堀浩さいで、パネラーは、北原照久、残間理恵子、南条史生でした。堀浩さいという美術系作家は、上の副題3で語っている山口みつ子さんの画廊で、個展をする常連でした。しかし、私は、彼の作品は好きではないので、個人的な会話を交わしたことは有りません。

::::::::::ところで、ここで、挿入ですが、私は真にレベルの高い人からは、評価が高い人間なのです。今まで、それを・たからもの・の一種だと考えていたので、阿刀田高さんから、氏の講演会の会場(神田の学士会館内)で褒められた話とか、安西篤子さんから、書物に対するお褒めのはがきをもらったことなどを書いていないのですが、・・・・・この2001年ごろはすべての美術評論家とも知己があり、「銀座で、川崎千恵子を知らないのは潜りだ」と、言われていた時期でした。だから、聴衆にも、壇上の人の双方に、役立つ質問ができるはずでした。

 ところが発言をさせてもらえないのでは、どうしようもありません。しかし、その瞬間から、私には裏が解りました。瀬島龍三一派が動いているのだと。しかし、どうしたら、こういう事が将来再び、起きるのを阻止できるか、その手法は、わかりませんでした。

 だってね。メルマガ時代の、相手先が判る形式の文章内では、こんなことは下品すぎて書けません。恥ずかしいじゃあないですか? こっちがあほだと、誤解を受けます。だって、残間理恵子は、有名人ですよ。美貌の、人でもある。『そんな人を相手に、悪口を書いたら、あなたが負けるのは当たり前じゃアないの』と、言われるのが落ちでしょう。

 しかし、今の私は、そういう懸念を取っ払ってしまったほどに、被害が大きいのです。いつも、神様だけを相手にしていて書いていますと、言っています。残間理恵子の背後に居たのは、まず、石塚雅彦さんは、確かでしょうが、他にも居たのかもしれません。バーター取引として、彼女は、文化人に、講演会の、企画を持ち込む会社を設立しました。日本の文化人の生殺与奪の権を握ったのです。

 だけど、一方で、彼等はビビりまくっているのですよ。ばれたか、それは、大変だと、成って、まず、その現象が起きた、場所を潰して行こうとしています。これは、鶴岡八幡宮境内、他、鎌倉市内で、頻繁にみられる手法です。だから、残間理恵子のバックに、CIA日本人エージェントがいるのは確かなのです。

 なお、この、同じ会場(800人の定員である)の後ろの方で、内藤松子さんが、危機に来ていました。彼女は、私とお茶大付属高校動機卒です。その後芸大に、進学しています。でも、村松画廊で、個展をしたりしているし、黒田悠子さんと、動機の筈ですから、私のここに書いてある意見を否定して来る可能性は、高いです。それを視野に入れながら、こういう事を書いていて、しかも、一歩も、説を、ひく気はないのですよ。

 さて、上を書いて、パソコンを閉じた後で、7時間後の夜10時半に戻ってまいりました。ここで、この文章の本筋とは、あまり関係が無いのですが、内藤松子さんが、昔話したエピソードのうち、二つが、忘れられないので、それを記録をさせてくださいませ。

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副題6、『内藤松子さんの実家は、南側の土地が、だまし取られてしまったらしいのだ。もし、それが、北側だったのなら、だまされても、それほど、悔しくはないだろう。しかし、私が問題としたいのは、買い取った人間が誰なのか? という事だった』

  私は不思議と、内藤松子さんとクラスが一緒になったことが無いのです.しかし、教科によっては、クラスを乗り越えて、生徒が参加する物もあるのです。が、そこでも、一緒だった記憶がないのです。ただ、今から話すエピソードだけは、伝聞ではなくて、彼女本人の肉声で聞いた記憶があるのです。ただし、二人だけの会話の中ではなくて、全部で、五人ぐらいが、同じ話を聞いているのですが・・・・・彼女のお父さんは学者なので、世間知らずで、だまされやすいのだそうです。で、或る時に、不動産屋が訪ねて来て、「お庭の一部を売ってください」と、言ったそうです。「テニスコートにするから、環境は悪くなりません」と、言ったそうです。で、売ってみたら相手の言葉は嘘であって、その後とても嫌な思いをした」と、言う話でした。

 さて、テニスコートにするからと、言われたと、聞くと今の人は、「嘘でしょう?」というでしょうね。しかし、私は、戦前の住宅地は、区画が大きかったと知っているのです。船橋市、塚田というところに住んで居た時は、我が家は、300坪で、お隣は、700坪と千坪でした。だから、内藤さんの実家が、戦前に買い求めたものだったら、最低でも、200坪か、300坪ある筈だから、ご両親が相談の上で、『一部、売ってもいいわね』と、考えたことは有りうるのです。

  でもね。私は内心で、次の様に思ったのです。・・・・・大学教授のお嬢さんが、悔しい思い出を語るなんて、ちょっと、品がないし、残念な風情ですね。だけど、もし、相手が、田中角栄だったら、この表情と表現は致し方ないなあ・・・・・と。これは、田中角栄の政治家としての評価とは別の問題としていうのですが、彼の生き方を、嫌う人は大勢いたと、思います。特に南側に田中角栄が、引っ越してきて、最初は古家を一区画買って、200坪か300坪の普通の家だったのに、どんどん、どんどん、周辺の土地を買い漁って行って、目白御殿を作り上げたのだとしたら、松子さんが、『私の両親を、だましてあの人はひどい。でも、下の学年に真紀子さんが居るから、真相を100%は、語れないけれど』と、思うのは有りです。しかし、当時の私は、頭の回転だけは、バカに早いのですが、口は追い付かない方なので、自分の思いを、松子さんに告げることは有りませんでした。

 何度も言うようですが、1999年に、ニューヨークで、日本人の若い女性を相手にして喧嘩して、圧倒的に、勝ってしまった時以来、ぶっちゃけた会話ができる様になったのです。なんだ、何だ、そうだったの、知らなかったなあ』と、思って、他人とのリアルな世界での会話でも、何も恐れなくなったのですが、それ以前、57歳までは、口が回らない人でした。というスピンオフから、元へ戻ります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

副題7、『犬みたいに、私を扱った、残間理恵子の、裏には、やはり、CIAエージェントの、大物が居たのだった』

 これから、先は、14日の夜に書きます。

後注1、

 

後注2、  

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2014-12-22

ファッション評論家・大内順子さんお別れの会 1000人が参列し故人しのぶ

 10月30日に80歳で亡くなったファッション評論家、大内順子さんのお別れの会が22日、東京・南青山のスパイラルホールで行われ、ファッション関係者を中心に1000人を超す人々が故人に花を手向けた。

 会場には、幼少期からの写真や出演したビデオ映像、夫で画家の故・宮内裕さんが手がけた肖像画などが展示され、シャンパングラスを片手に故人の人柄や功績をしのんだ。

後注3、

 

 横浜市教育文化センター

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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横浜市教育文化センター

 

情報

用途

ホール、ギャラリー

設計者

前川國男建築事務所

施工

フジタ

事業主体

横浜市教育委員会

構造形式

鉄骨鉄筋コンクリート造

延床面積

21,025 m² [1]

状態

解体待ち

階数

地上11階・地下2階

竣工

1974年

解体

(解体予定)

所在地

〒231-0031
神奈川県横浜市中区万代町1-1

座標

北緯352634.1秒東経1393811.4座標: 北緯352634.1秒東経1393811.4

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横浜市教育文化センター(よこはましきょういくぶんかセンター)は、横浜市中区万代町1-1にある地上11階・地下2階建ての複合施設である。JR根岸線関内駅前の大通り公園に面した一角に、1974昭和49年)に完成した。前川國男の設計により、打放しコンクリートとレンガタイルで仕上げられた、4つの建物が合わさったような外観を持つ。建設当時は大通り公園直下で市営地下鉄の建設工事が行われており、3工区に分けて作業が行われた[2]。 2階には収容人員524人[1]の横浜市教育文化ホール、地下1階から地上3階にかけては横浜市民ギャラリーが入り、横浜市教育委員会も事務所を置いていた。特に横浜市民ギャラリーは2010年の実績で利用率99%、年間46万人の来場者があったが、1996耐震診断で倒壊の危険性を指摘され、東日本大震災により建物の存続断念が決定された[3]。横浜市民ギャラリーは2012年度末で一旦閉館し、2014年10月10日に、横浜市西区宮崎町の市職員会館「いせやま会館」を改修して再オープンした。その他の部分についても2013年3月末をもって完全閉館し[4]今後解体される予定である[3]。跡地は関東学院大学により、20224月完成を目標にキャンパスや、市民も利用可能なホールやギャラリーからなる建物が建設される[5]

 

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