九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

新聞の片隅に載ったニュースから(127)  大西五郎

2014年01月04日 10時25分02秒 | Weblog
政府、米などに職員派遣 秘密保護法で実情調査 (14.1.1 日経新聞)

 政府は今年秋にも予定する特定秘密保護法の施行をにらみ、海外の情報保全制度の実情や監視体制を調査するため、1月後半にも内閣官房の職員を米国などに派遣する。米国では行政機関が秘密指定の権限を乱用して恣意的に指定しないよう独立性の高い機関が監視する仕組みがあり、日本にも導入できるかどうかを検討する。
 派遣するのは内閣官房の特定秘密保護法施行準備室の職員。米国には秘密保全の運用状況を省庁間で相互チェックする「省庁間上訴委員会」などの監視機関があり、今春までにこうした機関から実情を聞き取る。同法を担当する森雅子少子化相の訪米も検討する。
 政府は法施行にあわせて内閣官房に関係省庁の次官級からなる「保全監視委員会」を設置する予定で、制度設計の参考にする。このほか、秘密文書の保管・廃棄といった公文書館などでの実務内容や秘密指定の基準を調べる見通しだ。
 国会内でも特定秘密の運用状況を監視する機関の設置を検討しており、与党は今月半ば、日本維新の会やみんなの党などと米英独の3カ国を視察する。各国での議会による監視体制などを調査する。

□□――――――――――――――――――――――――――――――――――――――□□

本末転倒といいますか、順序が逆だと思います。
各国の実情などを視察して法の実施の参考にするなら、法案を作り上げる(国会に提出する)前に行うべき作業です。
政府と自民党はなにが何でも特定秘密保護法案を成立させると、衆議院と参議院で、委員会、本会議とも強行採決を繰り返しました。自民党の石破幹事長は「時間をかけて審議し、議論を尽くした」と言いましたが、審議時間は衆議院で46時間、参議院で22時間しかありませんでした。
安倍首相は臨時国会閉会の翌9日に首相官邸で記者会見を行い、特定秘密保護法の審議について「私自身がもっと丁寧に時間をとって説明すべきだったと反省している。今後とも国民の懸念を払拭すべく丁寧に説明していきたい」と語りました。「恣意的に秘密が指定される」「報道の自由や国民の知る権利が奪われる」など広く国民の間に秘密保護法反対の意見が日々強まっていることに慌てて弁明したものでしょう。
会見では「秘密の指定、解除、保全のルールもできた。格段と透明性も責任も明確になった」と述べました。安倍首相は国会審議の終盤になってから突如保全監視委員会を設けるなどと言い出しましたが、保全監視委員会の性格や権限も法律では明確にされていません。諸外国の実情調査に職員を派遣するということは政府が十分な準備も憲法に規定された基本的人権との関係も考慮しないまま、なにが何でもアメリカとの軍事協力強化のために法律の制定を急いだことを裏付けています。また、に米英独の実情調査に政府と一緒行くという維新の会やみんなの党はどういう確信があって法案の修正協議に応じたり、法案に賛成したのでしょう。真価が問われます。
                                      大西 五郎
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小説 「死に因んで」(その3)   文科系

2014年01月03日 09時07分03秒 | 文芸作品
〈同窓会は仕事社会ではなく、楽しむ場所。老年期の男としてみれば話題が多くて面白いはずの人間が、なおかつ正直、潔癖を現しただけと言えるその行為が、社会的礼儀だけを振りかざしてこのまま拒まれるはずはない〉
 今振り返ってみれば「改めて、出てくれと言ってきたら」と彼女が語ったのには、そんな見通しが含まれていたのだ。こんな発想は、俺が思うには今の日本の男からはなかなか出てこない種類のものだろう。相手の格とか、自分への”扱い”とか、公の”顔”など下らないことばかりに慣れてきたからだ。それでその時の俺も、出てくれなどと言ってくるわけがないと思い込んでいたのである。そんな剣幕であの場を飛び出し、皆を蹴っ飛ばしてきた、その剣幕、威力は自分が一番よく知っていることだし。その点まーまーの女は、公的な場所にいてさえ自分の文化、好みのようなものを必ず同伴させている、と俺は観てきたのだった。
 さて、笠原から折り返しのように、こんな表現が入った手紙が来た。
『大個性の貴兄がいての楽しい会です。貴兄が怒ったのも、貴兄の”素”であって、何も謝る必要はありません。飲んで語るのも、文章朗読で自己を表現するのも同じ事。まして、貴兄のように同人誌をやっているとすれば』 
 この手紙にしばらく応えないでいたら、間もなく吉田からも小島からも電話があった。吉田はこんなことを言う。「あの話はいけないとかー、この話もいかんよとかはいかんよなー。それと同じで、朗読をやれと言った以上はぁー、聞いていないとーやっぱりまずいよねー」
 小島の口調は明らかに笠原と連絡を取っている事をうかがわせた。そして何度も、おずおずとのように慎重な言葉選びで「出てくるよなー?」と聞き返してきた。さて、小島とのこの電話の時には、俺はもうこんな心づもりになっていたのである。その時には、全く口に出さなかったのだけれども。
〈謝る必要がなくなったから、もう出られる。卑屈になる必要は全くなくなっただけではなく、ちょっと勿体ぶるぐらいにして出てやろう。あの随筆も次回にさっそく、最後まで読んでやるぞ〉
 すべてが望む通りに運んで、何か不思議な思いだった。この時、次のこの会と友人たちに対して武者震いの汗をかいている自分を発見して、驚いた。

こうして、次の会が始まった。いつもの部屋で、いつものように肴を一渡り注文する役目を果たす間も、何か腰の辺りの座りが悪く、何かをしゃべる気にもならない。顔はきっと、シリアスで作ったようなもんだったろう。皆も俺の顔を見辛いような感じだし、こりゃ早く決着付けなくっちゃ………。アルコールの二杯目に入る前の辺りで、「じゃこの前のをもう一度読むからな、聞いててくれよ」。いつもよりさらに抑揚少なく、棒読み同様に読み進んでいた。今度は、最後までみんな静かに聞いてくれた。読み終わって、小島が言う。
「これからは、プリントしてきてくれないかなー」
 俺が「分かったそうする」と応える。すると堀が太い声で、微笑みながら言った。
「ごちゃごちゃせんでも、こーいうときは『ご免』の一言持って出てくればえーんだ」
 これには、俺としては是非一言返しておかねばならない。
「また飛び出したらまずいだろ。俺は大事なことしか書かんけど、ここで読むのは特に大事なものばかりでね」
 こうして、その次以降も自作随筆をあれこれと読んで行った。翌年の初夏のころにはこんなのを読んだ。

── よたよたランナーの回春
 メーターはおおむね時速三〇キロ、心拍数一四〇。が、脚も胸もまったく疲れを感じない。他の自転車などを抜くたびにベルを鳴らして速度を上げる。名古屋市北西端にある大きな緑地公園に乗り込んで、森の中の二・五キロ周回コースを回っているところだ。たしか六度目の今日は最後の五周目に入ったのだが、抜かれたことなど一度もない。ただそれはご自慢のロードレーサーの性能によるところ。なんせ乗り手の僕は七十才。三年前に二回の心臓カテーテル手術をやって、去年の晩夏に本格的な「現状復帰」を始めたばかりの身なのである。日記を抜粋してみよう。
『突然のことだが、「ランナー断念」ということになった。二月初旬までは少しずつ運動量を伸ばし、時には一キロほど走ったりして、きわめて順調に来ていた。が、十六日水曜日夕刻、いつもの階段登りをやり始めて十往復ぐらいで、不整脈が突発。それもきちんと脈を取ってみると、最悪の慢性心房細動である。ここまで順調にやれて来て、十一日にも階段百十往復を何の異常もなくやったばかりだったから、全く寝耳に水の出来事。
 翌日、何の改善もないから掛り付け医に行く。「(カテーテル手術をした)大病院の救急病棟に予約を取ったから、即刻行ってください」とのこと。そこではちょっと診察してこんな宣告。「全身麻酔で、AEDをやります」。このAEDで、完全正常に戻った。もの凄く嬉しかった。なのに二五日金曜日、掛り付け医に行き、合意の上で決められたことがこれだったのである。
・年齢並みの心拍数に落とす。最高百二十まで。
・心房細動が起こったら、以前の血液溶融剤を常用の上、AEDか再手術か。
 さて、最高心拍数がこれなら、もう走れない。速度にもよるが百五十は行っていたからである。僕も七十歳。ランナーとして年貢の納め時なのである。』
そんな境地でも未練ったらしい足掻きは続けた。ゆっくりの階段往復、ロードレーサー、散歩、その途中でちょっと走ってみる。すべて、心拍計と相談しながらのことだ。そして、心拍数を少しずつ上げてみる。初めはおっかなびっくりで、異常なしを確認してはさらに上げていく。気づいてみたらこんな生活が一年半。一四〇ほどなら何ともないと分かってきた。すべてかかりつけ医に報告しての行動だ。そして、去年の九月からはとうとう、昔通りにスポーツジムにも通い出し、今では三十分を平均時速急九キロで走れるようになった。心拍の平常数も六十と下がり、血流と酸素吸収力が関係するすべては順調。ギターのハードな練習。ワインにもまた強くなった。ブログやパソコンで五時間ほども目を酷使しても疲れを感じないし、体脂肪率は十%ちょっと他、いろいろ文字通り回春なのである。先日は、十五年前に大奮発したレーサーの専用靴を履きつぶしてしまった。その靴とサイクル・パンツを買い直したのだが、こんな幸せな買い物はちょっと覚えがない。今度の靴は履き潰せないだろうが、さていつまで履けるだろうか。─── 

 この長い文章をみんながどれだけ静かに聞いてくれたことか。いや靜かにと言うよりもっと好意的なのだ。合いの手が入った。笠原から始まった「ふーん」「それで?」まではいーだろう。それがやがてみんなに移って行って「がんばっとるなー」から、「十%!………筋肉ばっかだ!」などともなると、わざとらしいとも感じられて笑えた。でも、凄く嬉しかった。読み終わったとき、吉田がまっ先に、俺の反対側の机の端から長い身体を乗り出すようにして、彼としては珍しい大声を出す。
「これはーっ、非常にーっ、よく分かる! あなたの同人誌小説はー、息子さんの商売のことを書いたやつだったかなー、さっぱり分からんのもあったけどー」
 この声自身もその内容も俺には全く意外だった。けれど、すぐに反論の声が上がったのがまたさらに意外だった。俺の向かいにいた小島が吉田の方に顔を向けて、
「あの息子さんの仕事の小説なら、僕はあれは面白かったよ。意外にと言っちゃなんだけど。山場らしい所もなく何でもない筋なんだけど、気づいたら一気に読めてた」
 これは、この作品に対しては願ってもめったに出てこないぴったりの評なのである。事実俺は、あれをそのように書いたのだ。このやりとりを一人反芻して悦に入っていたら、伊藤がこんな申し出をしてきた。恐い顔を崩し、柔らかいバスをさらに柔らかくして、
「心臓の手術したんだよなー。それでこれだけがんばっとるんだよなー。ちょっとこの場で腕相撲してもらってもえーかな?」
 俺の倍ぐらいに見える腕だったが、俺は即座に応じた。若いときからこういう腕をも相手にして何度も勝ってきたという体験と自信があったし、ランニングのためのジムで上半身を今も一応鍛えてはいる。が、結果は、かなり粘ったが負けた。
「今どきの中小企業の現役社長さんは、やはり苦労が違うんだなー。肉体労働も目一杯やっとるとみえて、強い強い!」
 心からそう叫ぶことができた。嬉しい悲鳴のようにも聞こえたろう。何せ俺は、他人の特技を褒めるのが好きなのである。褒めると言うよりも、良いものは良いというわけで、自然に声が出てしまう。伊藤は伊藤で、俺を励ましてくれた積もりなのだろう。
 すると、遠くの壁際に座っていた吉田が、俺に向かってまたしても、大き目の声を出す。
「あのさー、整体師と一緒にやってきた結果だけどー、見てくれるー」
 そう言って立ち上がると、壁際に背を向けて立つ。そして、腰を沈め加減にする。彼のその体勢の意味が俺にはすぐに分かったので、吉田の後頭部だけに眼をやっていた。腰と胃裏の背辺りとがぴたりと壁に付いた上に、後頭部も膨らんだ髪の毛の先が壁にほとんど着いているように見えた。この光景、いや姿勢に感心したこと! 俺の口からこんな声が出たものだ。
「男やもめが、よくそこまで頑張ったなー。あんたの寿命が半年前より五年は延びたぞ。そんな姿勢が続く間は、ここにもずっと歩いて出てこれるしー……。堀よー、みんなで”吉田を長生きさせる会”でも作ろうかー?」 
 普通にひょろーっと立ち直した吉田が、にそーっと笑って堀の顔を見た。小島と山中さんが同時に拍手を始めたら、それがすぐに全員に広がっていった。

(終わり)
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流石シュンスケ!天皇杯   文科系

2014年01月02日 14時07分36秒 | スポーツ
 横浜の良いところばかりが目立ったゲームだった。リーグ戦などでもずっと横浜(の守備力)が勝っているのだが、この対戦の特徴をシュンスケが何気なくこう語っていた。
『広島相手に上からプレスに行くのは、ウチだけでしょ』
 なるほどと思った。広島がゴール前ブロックを作り、DFラインも含めて高く位置取りした横浜の攻めでゲームが始まったのである。横浜がこれで良くカウンターを食わないものだと観察してみたら、ボールを取られたときの最初の守備・プレス者(複数)が非常に厳しく行くのだ。これが最後まで変わらない。これで広島の攻撃が乱されるので、攻撃時においては横浜のパスのほうがはるかによく繋がるのである。
 もっともこの横浜、後半は見事にリトリート陣型を取って見せた。広島の出だしのように、ゴール前ブロック陣型なのである。つまり、二つの守備陣形を見事に使い分けて、無失点。

 リーグ戦における失点の少なさで広島が1位、横浜が2位。なるほど、横浜は広島相手には守り勝つのだと、そんなふうに納得したゲームだった。もっとも、広島は29日に120分戦っているから、疲労が取れていないはずで、気の毒ではあった。

 それにしてもシュンスケのドリブルは上手い。広島が2~3人でマークするのだが、出だしで3~4度転ばされた以外は、見事な切り返しなどで応酬してキープに努め、成功していた。これだけキープできる選手が、際どい場所で敵ゴール前などの味方の動向をうかがっていれば、敵陣も乱れるというもの。ボールが捕れると思っても捕れなければ、広島の守備陣は上に行ったものか守ったものか、守りは誰をどこでマークするのか、大変難しいことだろう。このシュンスケから学んでなのだろうが、小林にしても中町、斉藤にしても、横浜は勝負所で皆ドリブルが上手い。最初の得点は、右からの小林の強引なドリブルによるものだった。3~4人と競り合いゴール前でルーズボールを作って、それに斉藤が走り込んで、シュート! 見事な得点だった。
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小説 「死に因んで」(その2)   文科系

2014年01月02日 11時54分07秒 | 文芸作品
 宴たけなわの頃、前から予告しておいたのだが、ある随筆を読み始めた。もちろんその場でも皆の了承を取って。俺が現役時代から二十年ほど属している同人誌に、ちょうど一年ほど前にのせた作品である。一年前に書いた作品を、予告・了承を取り付けていた初めての朗読でやったのだから、中途半端な気持ちでなかったのは確かだ。ちなみに、全文を書いてみれば、こんな作品である。

── 死にちなんで
 心臓カテーテル手術をやった。麻酔薬が入った点滴でうつらうつらし始めてちょっとたったころ、執刀医先生の初めての声。
「これからが本番です。眠っていただきます」。
 ところがなかなか眠りに入れない。眠っても、間もなく目を覚ます。痛い。するとまた、意識が薄らいでいくのだが、また覚醒。そんなことが三度ほど繰り返されたので、「痛いです」と声をかけた。執刀医の先生、かなり驚いたように何か声を出していた。
 さてそんなときずっと、いやに冴えている頭脳である思いにふけっていた。大事故の可能性もある手術と、聞いていたからでもあろう。手術自身はちっとも怖くはなかったのだけれど、こんなことを考えていた。
「このまま死んでいっても良いな。死は、夢を見ない永遠の眠り、か」
 知らぬ間に生まれていたある心境、大げさに言えば僕の人生の一つの結実かも知れない。
 小学校の中ごろ友人を亡くして、考え込んでいた。「彼には永遠に会えない。どこにいるのだ」。ひるがえって「僕もそうなる」。それ以来自分が死ぬということを強く意識した。ほどなくこれが「永遠の無」という感じに僕の中で育っていって、何とも得体が知れぬ恐怖が始まった。この感じが寝床で蘇って、何度がばっと跳ね起きたことか。そんな時はいつも、冷や汗がびっしょり。そしてこの「症状」が、思春期あたりから以降、僕の人生を方向付けていった。「人生はただ一度。あとは無」、これが生き方の羅針盤になった。大学の専攻選びから、貧乏な民間福祉団体に就職したことも、かなり前からしっかり準備した老後の設計まで含めて、この羅針盤で生きる方向を決めてきたと思う。四人兄弟妹の中で、僕だけが違った進路を取ったから、親との諍いが、僕の青春そのものにもなっていった。世事・俗事、習慣、虚飾が嫌いで、何かそんな寄り道をしなかったというのも同じこと。自分に意味が感じられることと、自分が揺さぶられることだけに手を出して来たような。
 ハムレットの名高い名台詞「生きるか、死ぬか。それが問題だ」でも、その後半をよく覚えている。「死が眠りにすぎぬとしても、この苦しみが夢で現れるとしたら、それも地獄だし?」というような内容だったかと思う。この伝で言えば、僕のこの「症状」ははてさて、最近はこんなふうに落ちついてきた。
「夢もない永遠の眠り。それに入ってしまえば、恐いも何もありゃしない」
 どうして変わってきたのだろうと、このごろよく考える。ハムレットとは全く逆で、人生を楽しめてきたからだろう。特に老後を、設計した想定を遙かに超えるほどに楽しめてきたのが、意外に大きいようだ。ギター、ランニング、同人誌活動、そしてブログ。これらの客観的な出来はともかく、全部相当なエネルギーを費やすことができた。中でも、ギター演奏、「音楽」はちょっと別格だ。自身で音楽することには、いや多分自分の美の快に属するものを探り、創っていく領域には、どういうか何か魔力がある、と。
 この二月から、ほぼある一曲だけにもう十ヶ月も取り組んできた。南米のギター弾き兼ギター作曲家バリオスという人の「大聖堂」。楽譜六ページに過ぎぬ曲なのだが、ほぼこの曲だけを日に二~三時間練習して先生の所に十ヶ月通ってきたことになる。長い一人習いの後の六十二からの手習だから通常ならとっくに「まー今の腕ではここまででしょう。上がり」なのだ。習って二ヶ月で暗譜もし終わっていたことだし。が、僕の希望で続けてきた。と言っても、希望するだけでこんなエネルギーが出るわけがない。やればやるほど楽しみが増えてくるから、僕が続けたかったのである。こんな熱中ぶりが、自分でも訝しい。
「何かに熱中したい」、「人が死ぬまで熱中できるものって、どんなもの?」若いころの最大の望みだった。これが、気心の知れた友だちたちとの挨拶言葉のようにもなっていたものだ。今、そんな風に生きられているのではないか。日々そう感じ直している。───

 今思えば、随筆のタイトルのせいもあろうかして、こんな場所の皆がこれを良く聞いていたと思う。朗読の中ほどまでは全く静かだったからほっとしていたのだ。そのあたりから一人二人がお喋りを始め、それが急激に広がっていった。残り三割ほどになったとき、実際はそうでもないのだろうが、俺には誰も聴いていないとしか感じられなかった。この作品が自分にとって大事なものだという気持ちが強すぎて、そう見えたのだろう。とにかく、こんな行動に打って出てしまった。朗読を止め、適当にお札を出して机の上に叩きつけながら、「こんな会、もう出てこん!」とか、「だから日本の男は嫌いだー」とか、何か捨て台詞のようなことを叫びながらそこを飛び出して行った。来たときと同様に電飾などにぎやかな繁華街を引き返していた時もその間中、燃え上がり渦巻いていた怒りを鎮められないでいた。それどころか、逆に懸命に油を注いでいたように思う。唱えるように繰り返したこんな言葉を今でも覚えているから。
〈あんな会、もう、出てやるもんか! 俺には、出る意味が、全くない。あれほど念を入れて予告し、了承も取り付けてきたのに………〉   

さて、翌日からは、悶々とした日々が続いた。こんなに親しい、あるいは親しくなった連中とのこの場所に出ないならば、全員をしっかり見知った百三十人(中学から高校で入れ替わり分がダブっている)ほどの同期会自身にも出辛いことになる。普通に考えれば俺の態度が礼を失することも明らかだ。謝罪などは、反省点があるととらえたらいくらでもできる性分だが、およそその気になれないのである。そんな数日が続いた後に、笠原から手紙が届いた。この会の成り立ちをせつせつと振り返ったうえで、こう結んでいる。
「ジェントルマンであるのが、最低のルールです。………次回○月○日には皆さんの元気なお顔を期待しています」
 成り立ちを振り返ったのは「お前と二人でやって来たのだぞ」という意味と、「お前も世話役、ホストだろうが」との意味も込められているのだろう。対して、十日ほど悩み抜いた末にとうとう、こんな結論を記した手紙を出したのだった。
「こういう手紙、ご案内をいただいたことに、まず心を込めて感謝したいと思います。『昔からの友達』なればこそとね。あーいう非常識な去り方をした以上そちらからはほかっておかれても普通だと、僕も思いますから。………今後はそこに出ません。そして、同窓会も出ないと決めました。………まー僕もすごく短気になりました。人生が短くなるごとに、生き急いで、見ている世界が狭くなっているのでしょう」

 こうして、俺の中で事が一段落したその夜に、この終始をそのままに連れ合いに持ちかけてみた。問題になっている事柄の内容をもう一歩整理してみたかったからだし、同期生たちと会えなくなるという後悔、未練も残っていたのである。
「この前、同期の定例飲み会に絶縁状叩きつけるようにして席を蹴ってきたって、話したよなー。何回か読んでもらった『死にちなんで』という随筆の朗読絡みだとも。あれからこんなことがあってね………」
 怒りの内容、笠原の手紙、そして俺の返事、順を追ってすべてを話し終わった。と言っても、この頃の俺はすらすらとは話を進められない。言葉を探して言いよどんだり、言い忘れていた話にぶち当たって前に戻ったりで、そんな時は相手の腰や腕がむずむずしているのが手に取るように分かる。さてそのむずむずが溜まりに溜まって、どんな返事が返って来るだろう。思いもしないほどきっぱりとした、明快なものだった。これには、逆に俺が驚いたほどだ。
「あなたのアイデンティティー絡みなのだから、譲りたくなかったらそれでよし。というか、あなたにはむしろ、この外って置く方を勧める!」
 俺は一瞬、彼女の目を見直した。こういう時、場面における連れ合いの迷いのなさには、時に驚くことがある。が、すぐに俺への忠告含みと受け取ることができた。感情が強くて近ごろ特にトラブルを起こしがちな上に、世間への見方がどこか普通ではないかして譲りすぎてしまうことも多く、誤解とか損とかを招いてきた俺を知り抜いているからの忠告なのである。もっとも彼女の方は、家族とごく少ない古くからの友人以外は疎遠になっても一向に構わないという、俺とは正反対の所がある。まー「袖すり合うも多生の縁」という諺などは、金輪際思いつかないような種類の人だ。案の定、こんな達観した説明が追加されてきた。
「この随筆が貴方にとってどれだけ大切なものか、他の人たちに分かるの? あなたって、テレビもサッカー以外は観ないし、同人誌でもこれと関わりの少ないことはほとんど書いてないはず。この随筆のギター場面でも単なる音楽好きとだけ取られることもあるよねー。確かこの作品の合評会でも『問題提起の重さの割に、ギター場面が軽い』とかの声も出たとか。貴方のギター生活を毎日観てる私には、とてもそうは思えないけどね。とにかく、これであっさり謝ったら、単なる礼儀知らずか、酔っ払いと思われるだけじゃない」
 なるほどと思った。流石出会ってこの五十数年、ありとあらゆるケンカをし尽くしてきている仲だけのことはある。世間との付き合い方も対照的だからこそ、こんな的確な判断、表現が出てきたのだろう。そしてさらに、こんな老婆心までが続いたものだ。
「ただね、もし向こうが改めて出てくれと言ってきたら、どうするの?」
 これには即座にこう答えたのは言うまでもない。
「だったら、改めて出席して、あの随筆を読み直すよ」
 そう口に出しながら、こんな思いを巡らせていた。こういう人間がいると主張し尽くすのも、良いことだろう。特に、日本の男たちには。だが、「出てくれ」ともう一度言ってくるだろうか? 対する彼女の方はと言えば、この時はこんな見通しを持っていたようだ。俺には思いつきもしなかったことだが。

(次回終了)
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新聞の片隅に載ったニュースから(番外編ⅩⅢ)   大西五郎

2014年01月01日 19時02分04秒 | Weblog
集団的自衛権の行使と憲法改正を主張する読売・産経社説

 2014年元日の新聞各紙が安倍政権2年目の課題を論じていました。各紙の社説では、朝日、毎日、中日が安倍首相の「力の政治」を危惧し、読売、産経が「軍事力」を主張していました。

[朝日新聞]「政治と市民 にぎやかな民主主義に」

 昨年暮れ成立した特定秘密保護法は行政府による情報の独占を可能にする。行
政府は統治の主導権を握ろうとする。多くの国民が「選挙でそんなことを頼んだ
覚えはない」という政策が進む。もとより行政府を監視するのは立法府の仕事だ
が、それに加えて行政を重層的に監視して「それはおかしい」と伝える住民投票
や審議会などの諮問機関が必要だ。パブリックコメントの充実も提案する。

[毎日新聞]「民主主義という木 枝葉を豊かに茂らそう」

 慌しい師走だった。特定秘密保護法、初の国家安保戦略、そして靖国参拝。政
権与党と安倍首相の、力の政治がそこにあった。政権に、権力の源泉の「数」を
与えたのは、私たち国民だ。その代表者である政治家が、多数で法案を通す。選
挙と議会の多数決があって、民主主義は成り立つ。しかし民主主義とは、納得と
合意を求める手続きだ。山積する国民的課題を前にするとき、政治がなすべきこ
とは、多様な民意を集約し、幅広い合意を作る努力をすることだろう。

[中日新聞]「年のはじめに考える 人間中心の国づくりへ」

 アベノミクスへの自負と陶酔からでしょう、安倍首相は多くの国民の懸念を振
り払って特定秘密保護法を強行成立させた後は、初の国家安全保障戦略と新防衛
大綱、中期防衛力整備計画の閣議決定と続きました。先の戦争への反省から専守
防衛に徹する平和国家が国是で国際貢献も非軍事でしたが、積極的平和主義は国
際的紛争への積極的介入を意図し、軍事力行使が含意されています。中国の大国
化に「強い国」での対抗ではなく、人間を大切にする国に未来と希望があります。

[読売新聞]「日本浮上へ総力を結集せよ 『経済』と『中国』に万全の備えを」

 アジア太平洋地域では、中国が力による現状変更を試み、周辺国との摩擦を強
めている。このままでは日本が武力衝突の当事者になりかねない。日米同盟の強
化によって、中国を牽制することも重要だ。平時から有事へ、危機の拡大に応じ
た継ぎ目のない日米共同対処ができるよう、自衛隊の米軍支援の拡充、尖閣など
離島防衛での米軍の関与を拡大することも必要だ。集団的自衛権行使を可能にす
る憲法解釈の変更に踏み切ることも避けて通れない。

[産経新聞]「年のはじめに 国守り抜く決意と能力を」(論説李院長 樫山幸夫)

 戦後日本が歩んできた軽武装、経済重視の道は繁栄をもたらしたが、今は状況
が異なる。国を守るにも、「正義を支える」にも、「力」が必要だ。集団的自衛
権の行使容認、憲法改正の実現も不可欠だ。安倍首相の靖国神社参拝への激烈な
批判も異常というほかはない。「心ある国」の指導者として、国に命を捧げた人
々の霊にぬかずくのは当然だろう。情緒的な議論に流され、防衛に必要な手段を
躊躇してヨーロッパでの宥和主義がナチスの台頭を許した教訓に学ぶべきである。


                                    大西 五郎
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小説 「死に因んで」(その1)   文科系

2014年01月01日 12時08分12秒 | 文芸作品
 400字詰め原稿用紙30枚ほどの作品です。3回連載でと思っています。ご笑覧下さい


  死に因んで

 例によってかなり早めに会場に着いてしまった。この都心まで三キロほどをわが家から歩いて来た。この大都会の繁華街に、賑わいと電飾などが日々増してきたような晩秋の日暮れのことだ。大きなビルの地下にある宴会場に通じた外階段まで来ると、階段途中の手すりを寄り添うようにゆっくりと下っていく二つの影が見える。見るからにひょろーっとして脚がおぼつかない吉田と、彼の脇で歩を進めているのは、ずんぐりがっちりの堀に違いない。俺はしばらく、二人を上から見つめていた。
 数年前にお連れ合いさんを亡くした吉田は、骨折などもあって歩行困難になっている。早く来合わせた堀と、吉田のリハビリも兼ねてこんな場面になったということだろう。七十歳の今日まで独身という堀が、吉田の左腕を肩で支えながら、彼らしいからっとした笑い顔でなにか応えている。吉田も上機嫌でお得意のながーいおしゃべりを繰り出しているらしい。その音声が、すっかり冷たくなった風の間から聞こえて来る。なかなか良い光景………そう微笑みつつ、二人の段まで下りていく。
「お二人とも、早く来たんだなー」
 ふり返った吉田がいつものように舌が縺れるように語り出す。
「いやぁーね、僕が堀君にちょっとー早く来てもらったんだよー。話し合いたいことがあってさー」
 あーっ、あのことかと心当たりが浮かんだ。堀がこの会で何か気分が悪いことがあったらしいとは聞いていたが、それを吉田が取りなしているのだ。吉田もこんな不自由な身体で毎回よく出て来て、よく気を回すもんだ。思わず浮かんだ苦が笑いを意識しながら、言った。
「堀よー、吉田もお前もいー奴だなー。吉田もちっとは歩けるようになったんだなー」
 人の美点や努力を口に出すのが好きなのである。もちろん批判も平気でするのだが、自分の汚点をも隠さず、自分にも他人にもわざわざ念を押すような人間だとも思っている。所属同人誌で、連れ合いをひどく殴ったという随筆さえ書いたことがある。もっともそんな自己嫌悪とか偽悪に近いものの方は素直に読んでくれない時代らしく、この作品をこう取った人がいたのには驚いた。「妻を殴ったという事を自慢げに吹聴している」と。まー普通に、亭主関白自慢とでも取ったのだろう。多分俺は、亭主関白とは正反対の人間だ。

「吉田も、前とはだいぶ違う。腰から背中までがちょっと伸びたな。聞くとなんか良い整体師に付いたらしいぞ」
 堀って昔たしか、柔道の黒帯だったはず。その堀の野太いような声に導かれるような感じで、吉田の姿勢に目をやった。確かに腰の方は伸びている。あとは首の下辺りかなーと思いつつ俺は聞いてみた。
「吉田ー、腰が伸びたら、あとはどうするんだ?」
 吉田ではなく、これも堀が引き取って応えた。
「頭と首の下と尻のそれぞれ背中側を壁にでも付けて、一直線にできるようになればよい。ここまでがんばったんだから、最後までがんばるよなー」
 立ち止まったそんなやりとりいくらかの後に、こう告げながら、俺は先を急ぐ。
「いつものようにみんなの注文しとくから、先に行くな」
 俺はこの会の言い出しっぺの一人であって、みんなの肴の注文係なのである。地下一階のいつもの店へ、その大きな店の畳一畳ほどの入り口以外は個室のように周りから隔離された特別室様の空間へと、入る。

 この会は、俺ら中高一貫男女半々校同期生八人の飲み会である。〇九年の秋から年五回ほどの割合で持ってきたことになり、もう二年が過ぎた。笠原という中学時代からの俺の仲良しと二人で呼びかけて始まったものだ。一学年に二クラスしかなく、上下の学年も含めて皆が友達みたいな学校だったが、この八人が集まることになった理由はほんの偶然のせいとしか言いようがない。あまり付き合ったことが無い人もいたからである。吉田とか伊藤とかが、俺とはそういう間柄だった。なのに、もう十回目をこえて、俺が確認電話を忘れても全員が参加して来る。誰もぼけていないことは確かだし、それぞれ何かを楽しみにして来ることも確かなのだ。昔のこと今のことなどごちゃごちゃに語り合い、カラオケなどの二次会に流れていく。
〈吉田って、こんなにお喋りだったかな。それにしても、当時の男女関係によくこれだけ通じているもんだ! 昔の彼はよく知らないが、そんな情報集めに励んでたんだろうな。面白い話が多いけど、こんなに長く話す人、見たことない〉
〈伊藤って、カラオケ、歌がこんなに上手かったか? 確か、芸術部門の授業選択は音楽じゃなかった気がするけど。水原弘の「黒い花びら」かー。よく似合って、こんな良いバスも日本人にはちょっと少ないはずだ。音程や声量もちゃんとしとるし。カラオケ教室に入れ込んだ時期があるのか、それとも最近の笠原のシャンソン教室じゃないけど、歌謡教室かなんかに通ったことでもあるのかな〉
 この伊藤がまた歌というイメージからはちょっと遠いのだ。今でも自営業の現役社長さんで、そのごつい体にぴったりの強面は、〈トラブルなどが起こったら、側に立っていただくだけでも助かる〉という見かけである。この人がまたけっこう繊細な所があると最近気づいて、興味がそそられた。昔は全く気づかなかったのだが、ひとりひとりの水割りを作る役を自然に引き受けていて、それぞれその都度濃淡の好みなどを聞き、かいがいしくやっている。その姿がまた、楽しげそのものと見えるのである。俺が無神経な応答でもしようものなら、ちょっとあとにさり気ない探りらしきものが入ってくるし。これなら小島と親友関係が今日まで長く続いてきた理由も分かる。小島とはかなり付き合いもあったけれど、小島が伊藤と在学中からずーっと付き合ってきたとは全く知らなかったのである。小島は昔も今も変わっていない。若い女性たちとテニスに明け暮れているらしいが、若いと言っても中年女性たちだから「青い山脈」舞台の三十年後というところ。彼はさしずめ、あの舞台の先生の三十年あと………よりもかなり上だな。

 肴の注文係の任務をいつものように俺が終えたころには、唯一の女性、山中さんも本川もと八人がそろって、宴が始まる。これもいつものように、こんな調子だ。昔の話は男女のことがほとんど。それも一学年百人ちょっとで、その上下学年までごちゃごちゃにしての昔話だ。よって、それぞれの話の種をそれぞれ誰かがカラスのようにひっくり返していくから、つついてもつついても次から次へと限りがない。〈今現在のそんな話はないのかい!〉、たびたび雑ぜっ返したくなる自分を抑えるのに一苦労だった。そういう今の話の方は先ず、病気のこと。今現在の生活活動などは二の次というか、なかなか見えない気がしたものだ。これが俺にはずーっとイヤだったのだが、ここから始まるひと騒動への、大きな背景の一つになっていったのだろう。

 この日そのあと、盛り上がりのさなかに会場を一人飛び出して来た俺の心中は、どう表現したらよいのだろう。その時と今とでは感じがずい分違うし、あれから二年経った今でさえことの全貌がきちんとつかめているかどうか定かではない気がしている。一方で〈単にその時々の感情に左右されただけだよ〉という声が聞こえる。他方ではこう。〈やはりあの事件は、俺のこれまでのレゾンデートル、つまり存在理由だ。譲れるはずがない〉。と、これは今になって言えることであって、その時の俺の意識が後者一辺倒だったのは言うまでもないこと。言わば確信犯なのだが、その確信に感情の器すべてが占領された状態と言えて、他の感情は一切排除されていたようである。大変困ったものだが、大仰なことでもない。「あの時はその気だった」など誰でもあることだから、今も明日も十年後もその気かどうか、それが自分のためにも肝心なことだろう。こういった問題を抱えることは誰にでもあることだ。
 ともあれその夜、こんなことが起こった。

(続く)
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