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「普天間(ふてんま)基地閉鎖・返還(撤去)問題」の考察②

2009年11月12日 10時00分01秒 | Weblog
◆普天間基地問題の核心

 先の説明でわかると思うが、宜野湾市民は、行政も住民もこぞって「普天間地即時閉鎖・返還」を要求してきた。それは1972年の「復帰」前からずっと続いてきた市民の悲願である。ここではっきりさせなければならないことは、宜野湾市民が要求しているのは危険な基地の「即時閉鎖・返還」であって、「移転」ではないということだ。米海兵隊の基地をどこかに持って行けということではないのだ。筆者が1996年に沖縄を訪れたときには、普天間基地の土地をほんの一部だが返還させて建てられた佐喜眞(さきま)美術館に、普天間高校の生徒たちが作った模型が展示されていた。もし基地が返還されたらどういう街にするか、みんなで相談して、基地跡に創りたい未来の街を模型にしたのだ。
 先に触れた95年9月の少女レイプ事件は沖縄の人びとを憤激させ、島ぐるみの怒りが激しく燃え上がった。そこで当時の橋本首相はモンデール駐日米大使と会談し、「普天間返還」の合意が成立した。事件の翌年、96年4月のことである。その合意では、5年から7年以内に、沖縄にすでにある米軍基地内にヘリポートを移設し、普天間基地の一部機能を、極東最大の米空軍基地・嘉手納(かでな)に統合することになっていた。つまり合意は既存の基地の外に新基地を作る話ではなかったのである。

 ところが同年12月に日米安全保障協議委員会でなされたSACO(沖縄に関する特別行動委員会)の最終合意は「海上施設」案を「最善の選択」とした。既存米軍基地内ヘリポート移設案などは姿を消し、普天間基地の「代替施設」を「沖縄本島の東海岸に建設する」と決めたのである。その決定は、当時の池田外務大臣、久間防衛庁長官、ペリー米国防長官、モンデール大使がおこなったが、沖縄県民には一言の相談もなかった。完全に頭越しの日米政府間合意によって、名護市キャプ・シュワブ沖=辺野古沿岸域に海上ヘリポートが押しつけられることになったのである(辺野古集落は沖縄島北部名護市の東海岸沿岸域にあり、米海兵隊キャンプ・シュワブに隣接している)。
 嘉手納統合案が消えたのは、米空軍と米海兵隊はもともと米軍内で張り合っていて仲が悪く、米空軍が固定翼機(戦闘機)と回転翼機(武装ヘリ)が同じ滑走路を共同使用することはできないとして統合案を拒否したからである。しかし新基地建設に時間がかかることは誰の目にも明らかだったから、SACO最終合意を知った宜野湾市民、沖縄県民はひどく落胆した。また基地の県内たらいまわしか……。

◆沖縄の反撃からグアム移転協定まで

 しかし沖縄の人びとはいつまでも落胆していなかった。落胆は憤激に変わり、憤激は反撃のエネルギーに転じた。
 SACO最終合意で決められた「海上施設」は3つの工法が選択されることになっていた。(a)杭式桟橋方式(浮体工法):海底に固定した多数の鋼管により上部構造物を支持する方式 (b)箱(ポンツーン)方式:鋼製の箱形ユニットからなる上部構造物を防波堤内の静かな海域に設置する方式 (c)半潜水(セミサブ)方式:潜没状態にある下部構造物の浮力により上部構造物を波の影響を受けない高さに支持する方式、がそれである。
 いずれも辺野古沿岸の礁湖(沖縄の言葉でイノーという)を占拠する工法で、自然環境を大規模に破壊することは目に見えていた。その美しい海は、太古の昔から沿岸域の住民の生存と暮らしを支えてきた「命の海」でもあった。とりわけ沖縄戦中・戦後の食糧難を海の恵みによって生き延びた人々は「海は命の恩人」と語る。

 辺野古の住民は1997年1月、「ヘリポート阻止協議会 通称・命を守る会」を結成し、命と暮らしを守るための行動を開始した。そして同年12月の名護市の住民投票では海上基地建設反対が圧倒的多数を占めた。名護市民は日米両政府に「海上ヘリポート建設 NO!」を突きつけたのである。防衛庁(当時、現在は防衛省)は、反対する市民を切り崩すため、名護市に多数の自衛隊員を送り込んで露骨な懐柔工作を展開したが、市民の意思は揺るがなかった。
 だが日米両政府は住民投票の結果をまったく無視した。日本政府には沖縄を踏みつけにして軍事的安全保障を図る国策を変更する気はみじんもなかった。日本政府は比嘉鉄也名護市長(当時)に圧力をかけ、それに屈した彼は市民の意思を踏みじって基地受け入れを表明した。このあからさまな沖縄差別に対し、「命を守る会」や、辺野古に隣接する大浦湾沿岸の住民団体「ヘリ基地いらない二見以北十区会」をはじめ名護市の市民団体や労働組合などで構成する「ヘリ基地反対協議会」は、新基地建設を止めるための活動を展開した。

 那覇防衛施設局(当時、現・沖縄防衛局)が基地建設のための調査に強行着手
しようとした2004年4月以降、辺野古のおじぃ・おばぁたちやヘリ基地反対
協をはじめ「平和市民連絡会」など沖縄各地から駆けつけた人びとは辺野古漁港
近くでの座り込み、海上阻止行動などの非暴力直接行動を長期にわたって持続し、
2005年9月、ついに作業は中止された。これは新基地建設に反対する市民た
ちの鮮やかな完全勝利だった。
 基地建設案は海上ヘリポート案からリーフ埋め立て案、さらに沿岸案へと変わっていくが、日米両政府がどこまでも辺野古にこだわったのは、米軍がベトナム戦争中の1960年代からすでに辺野古沖をねらっていたからだった。2005年10月、日米安全保障協議委員会が「日米同盟──未来のための変革と再編」(以下「日米同盟」)という文書を公表した。それは1996年4月の「日米安全保障共同宣言」を踏まえて「アジア・太平洋地域において不透明性や不確実性を生み出す課題が引き続き存在している」とし「地域における軍事力の近代化に注意を払う必要がある」ことを強調した。そして文書「日米同盟」が公表された際の共同発表で「在日米軍の再編」が打ち出されたのである。

 ただし「在日米軍の再編」という言葉は誤解を招きやすいので注意したい。それは自衛隊の再編を伴いつつ、米軍の指揮下に自衛隊を組み込むことである。米軍のみ再編するのではない。目的は日米両軍の一体化で、それは両軍基地の共同使用に顕著である。その「在日米軍の再編」を急ぐため、日米両政府は2006年5月、「再編実施のための日米のロードマップ」(以下「ロードマップ」)を策定した。その内容は要するに、普天間代替施設を2014年までに完成すれば、海兵隊約8000名とその家族約9000名をグアムに移転する、グアム移転費用を日本政府が負担し代替施設を期限通り完成しないなら、普天間基地をはじめ嘉手納基地以南の基地も返還しないという脅迫的なものである。それは「統一的なパッケージ」と呼ばれ、徹頭徹尾、米国政府にとって有利な合意だった。
 その「統一的なパッケージ」の実施をだめ押ししたのが、今年(2009年)2月に突如日米間で調印された「グアム移転協定」だった。協定というと軽く聞こえるが、それは条約と同等の国家間公約であり、最近、米国政府はそのことを振りかざして日本政府に「協定」の履行を迫っている。
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1 コメント

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とにかく返してください (道草)
2009-11-12 17:28:46
誰のものでもない。私のもの。私が返してほしいと言っているのに、どうして返してくれないの。あれこれ理屈はわかりません。返してほしい!!!
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