安倍首相の著書「美しい国へ」のなかで、「イギリスでは戦後、国が教育内容をチェックするという仕組みがなく、現場の自主性にまかされていた。そのため、数も満足に数えられない子どもが続出したのである。これを立て直すべく、まず国定のカリキュラムをつくり、全国共通テストを実施した。そして教育省から独立した女王直属の学校査察機関をつくり、五千人以上の査察官を全国に派遣して、国定カリキュラムどおりに教育がおこなわれているかどうかを徹底的にチェックした」(P204)、と述べている。この短い文章のなかにいくつもの誤ちがあるが、今はそれを問わない。ここでは、安倍首相の全国共通テストに対する熱い思いを読み取ってほしいのだ。
安倍首相らの考えでは、日本の児童の学力水準は低下してきている、それは「ゆとり教育のせいだ。という認識があるものと思われる。「ゆとり教育の弊害で落ちてしまった学力」と「美しい国へ」でも述べている。OECDの世界の学力水準調査では、かって日本は一位であったのに、今やフィンランドにその地位を奪われ、やっと一桁の地位にとどまっているにすぎない、という思いがあるようだ。
本当に日本の学力水準は低下しているのだろうか。その検証はきちんとおこなわれたのであろうか。OECDの学力水準調査の性質が3回ぐらい前(と思っているが)から変化してきている。知識の量を問う形から読解力や応用力を重視する内容への転換である。日本の児童の成績が低下するのは当然である。したがって、この調査を学力低下の論拠に挙げることはできないはずである。私自身は、この調査とはかかわりなく、感覚的に日本の学力水準は低下してきているのではないかと思ってはいるが。そして、それは日本における格差社会の進行と直接かかわっているのではないかと思っているのだが。
「学力とは何か」という考察を深めることのない「学力水準テスト」に何の意味があるのか。テストの内容はどのようなものであったのか。各新聞、テレビのニュースを見ていても、この点についての論及がないのは、私にとっては不思議でならない。
安倍首相は、「バウチャー制度」の導入を以前から主張している。つまり、自由競争の原理を教育の場に導入しようとしているのだ。犬山市教育委員会は「競争原理を教育現場に持ち込むことは市の教育理念と相いれない」として、全国の公立学校で唯一、全国学力テストへの不参加を決めた。各校の学力水準が、「バウチャー制度」での学校選択の一つの指標になるのは自明の理である。「バウチャー制度」と全国学力テストは構造的に連結しているのだ。
学力水準世界トップの地位を連続獲得しているフィンランドで、このような全国学力テストがおこなわれてはいない。必要がないのだ。教育に対する政府の統制を排除し、教育現場にほとんどの権限をまかせているからである。
教育三法の改正内容の諸点は、すべて安倍首相の著書「美しい国へ」に述べられている。見事なほど一致しているのである。そして、その内容は見事なほど、教育水準一位のフィンランドの教育改革とまったく正反対の方向を目指している。詳しくは、私のこのブログへの2月19日の投稿「フィンランドの教育改革」を見てほしい。
安倍首相らの考えでは、日本の児童の学力水準は低下してきている、それは「ゆとり教育のせいだ。という認識があるものと思われる。「ゆとり教育の弊害で落ちてしまった学力」と「美しい国へ」でも述べている。OECDの世界の学力水準調査では、かって日本は一位であったのに、今やフィンランドにその地位を奪われ、やっと一桁の地位にとどまっているにすぎない、という思いがあるようだ。
本当に日本の学力水準は低下しているのだろうか。その検証はきちんとおこなわれたのであろうか。OECDの学力水準調査の性質が3回ぐらい前(と思っているが)から変化してきている。知識の量を問う形から読解力や応用力を重視する内容への転換である。日本の児童の成績が低下するのは当然である。したがって、この調査を学力低下の論拠に挙げることはできないはずである。私自身は、この調査とはかかわりなく、感覚的に日本の学力水準は低下してきているのではないかと思ってはいるが。そして、それは日本における格差社会の進行と直接かかわっているのではないかと思っているのだが。
「学力とは何か」という考察を深めることのない「学力水準テスト」に何の意味があるのか。テストの内容はどのようなものであったのか。各新聞、テレビのニュースを見ていても、この点についての論及がないのは、私にとっては不思議でならない。
安倍首相は、「バウチャー制度」の導入を以前から主張している。つまり、自由競争の原理を教育の場に導入しようとしているのだ。犬山市教育委員会は「競争原理を教育現場に持ち込むことは市の教育理念と相いれない」として、全国の公立学校で唯一、全国学力テストへの不参加を決めた。各校の学力水準が、「バウチャー制度」での学校選択の一つの指標になるのは自明の理である。「バウチャー制度」と全国学力テストは構造的に連結しているのだ。
学力水準世界トップの地位を連続獲得しているフィンランドで、このような全国学力テストがおこなわれてはいない。必要がないのだ。教育に対する政府の統制を排除し、教育現場にほとんどの権限をまかせているからである。
教育三法の改正内容の諸点は、すべて安倍首相の著書「美しい国へ」に述べられている。見事なほど一致しているのである。そして、その内容は見事なほど、教育水準一位のフィンランドの教育改革とまったく正反対の方向を目指している。詳しくは、私のこのブログへの2月19日の投稿「フィンランドの教育改革」を見てほしい。
僅か29歳で文部大臣に就任したオリベッカ・ヘイノネン氏は、深刻な経済危機のなかで、思い切ったフィンランドの教育改革を実施した。その一定の成功が、学習到達度世界一のフィンランドの教育という形で結実したのだ。
世界経済フォーラムが毎年調査している世界競争力調査では、2001年から2004年、連続世界一位をフィンランドが占めている。05年は2位だが、06年に再び1位を回復した。この世界経済フォーラムは、公的機関ではないが、世界的に最も信頼されている調査だそうだ。
これを支えたのが、教育のレベルだとオリベッカ氏は言う。IT産業を飛躍的に発展させ、雇用を拡大することができたのは、この教育改革の成功によるものだと彼は言う。
NHK・BSでフィンランドの教育改革についての特集番組が、先日放送された。東京大学教育学部教授佐藤学氏の質問に対する当時の文部大臣オリベッカ・ヘイノネン氏の回答をメインに、それに関連する養育現場の映像を交えて構成されていた。
日本の教育に対して、私がこうあって欲しいと思う内容が、フィンランドではそのまま実現していることに驚嘆すると同時に、さすがフィンランドという感想を抱いたのだ。そのフィンランドの教育改革の内容を整理して、ここで紹介したいと思う。
ソ連邦の崩壊によって、フィンランドとの友好条約は無効と化し、フィンランドにとって有利なソ連との貿易は失われた。そのためにフィンランドは失業者が20%を超えるという深刻な経済危機に襲われた。そのさなかに、僅か29歳という若さで文部大臣に就任したオリベッカ氏は、思い切った教育改革に乗り出した。その教育改革は成功したと評価できよう。OECD(国連経済開発)の学習度到達調査(3年おきに実施される)で、ここ2回連続世界1位になっているのだ。
*教育機会の平等。
これが最も大切な原則であり、教育改革すべての前提であると彼は言う。ヘルシンキであろうが、北部の辺境地帯であろうが、同質の教育をおこなうことが必要である。その基盤があって始めて、世界の頂点に立てる高い水準の人材を育成することが可能になると彼は言っていたのだ。
*教育では、中央が管理しコントロールする必要はない。
教育には自由が欠かせない。コントロールすれば、現場の自発的意欲を削ぐことに繋がる。重要なのは、現場の意欲・モチベーションなのだ。教育現場を知り抜いている現場にまかせるべきである。として、文部省が統括していた諸権限(教材選択、指導内容、指導方法、授業時間など細かに統括していた)を、教育現場へ任せることにした。今では文部省の役割は、施設などの教育条件の整備と、おおまかな到達度目標の設定のみになっている。各学校に多くの事柄がまかされ、自主的に討議して決められていく。教材・教科書(検定は行われていない)の選定や教科の時間配当・カリキュラムの構成は教育現場にまかされている。そのかわりに、各学校の自己評価が法律で義務付けられている。しかも、それは親や市民に公開されている。日本のように、管理のための報告とは質的に異なるのだ。親と市民の支持のもとに教育がおこなわれるのだ。
教育の本質にかかわる最も重要な原則がこれであると私は思っている。この原則に反する日本の文部省が、日本の教育をどれほど歪めてきたことか。
*モットーとして「一人のおちこぼれも作らない」
学級の生徒数は教育現場と地方自治体の話し合いで決めることができる。小学校では1学級20人が普通である。教育現場の要望によって、それよりはるかに少数のクラスを設置することも多い。もし、正規の授業についていけない場合には授業後に補習をおこなう。これは担任の仕事ではなく、専門の補習担当教員が配置されている。
子供は一人一人異なっている。学習意欲のありかたも異なっているし、理解のスピードも異なっている。その子供に柔軟に対応していく必要があるのだ。
*考える力・学ぶ力、読解力を重視する。
現代の社会は未来の予測ができない社会なのだ。変化の激しい社会なのだ。それに対応していく能力を育てるには、考える力が重要なのだ。在学中も卒業してからも学ぶという意欲を持つことか必要なのだ。
*情報読解力を重視する。
この改革のなかで、すべての学校にパソコンを十分に配置したそうだ。だが、情報処理という科目をフィンランドは置いていない。すべての教科で活用できるよう、ネットワークを作って支援しているそうである。情報読解力と彼は表現していたが、おそらく情報をより分ける力、その情報を読み取り理解する力、情報を利用する力を重視しているのだろう。
*教師のおかれている状況
クラブ活動は教員の任務ではなく、別の専門家が担当する。補習については前記のとおりである。こうして、教員の教材研究の時間を保証しているのである。さらに教員の研修・学習の機会と時間を十分に保証している。日本と異なり、教員の抱える雑務は日本に較べて極端に少ないことは想像できる。教育委員会・文部省への各種報告書の作成はないし、給食費等の集金業務は一切ないのだ。
*教育費はすべて国が負担する。
義務教育から大学にいたるまで授業料は公費負担である。それどころか、義務教育の教材費、筆記具費、給食費も公費負担である。大学の場合、親元から離れて通学する場合には、生活費の一部も国が負担している。
*これほど手厚い教育を日本の1.6倍の教育費でまかなっている。
国民所得に対する教育費公費負担の割合は、日本の1.6倍にすぎない。この程度で、どのようにしてこれほどの教育が実施できるのか、私には理解てきない、こうした統計では、教育費の中にどういう費目が含まれているのかが、国によって異なっているので、単純な比較はできないが。
教育費ではなく別費目におそらく計上されているであろう教育関連行政官(国・地方自治体の)の人件費は、フィンランドの場合は日本に較べて極端に少ないことは容易に想像できる。それを加味すると、1.6倍どころか、それをもっと下回っているであろう。
膨大な放送の内容を整理するのは、きわめて難しかった。不十分な整理に終わったことは、私自身が十分に自覚している。でも、ある程度、フィンランドが目指している教育とはどのようなものかは、掴んでいただけるのではないかと思う。経済危機のなかで、これほど教育に力を入れるフィンランドという国のありかた、さらに、この教育改革を受け入れるだけの土壌がフィンランド国民にはあることに、私は深い感慨を覚える。
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コメント
フィンランドに出来て・・・ (落石)
2007-02-19 09:40:21
なぜ日本に出来ない?
お役人が教育を専断しているのをなんとかしないと。
小泉さんの郵政改革の例もある。
教育改革を選挙の唯一の争点にして、
選挙をやってみたら・・・
元の木阿弥かな?