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「歴史探偵」の「統帥権」理解に反論する  文科系

2021年09月17日 13時16分34秒 | Weblog

 連れ合いが買ってきた半藤一利「あの戦争と日本人」をパラパラとめくっていたら、「第4章 統帥権と日本人」に見過ごせぬ箇所があった。司馬遼太郎の「統帥権」解釈に反論しつつ、誤った解釈を広げているとしか思えなかった。司馬の「(統帥権を)魔法の杖とふり回す軍部」解釈が正しく、半藤が誤っていると実証してみたい。

 そもそも、統帥権を低く観て、軍部独走の方を強調する半藤は、それゆえにこそこんな無理な問題意識を発している。
『統帥権それ自体が悪いのか、それとも統帥権が独立しているということが悪いのか。・・・もし統帥権そのものが悪いというんだったら、天皇が軍隊を指揮することが悪いんですから、これは明治憲法の全否定になります。・・・また、統帥権を独立させたということが悪いのならば、これは運営のしかたがまずいということになる。拡大解釈が悪い。つまり、統帥権そのものには罪がなくて、それを使う番人ども、つまり陸軍の官僚どもが悪い』(P102~3)

 さて、このブログでは太平洋戦争が決定された最終局面の史実を、岩波新書日本近現代史シリーズ10巻のうち、その6「アジア・太平洋戦争」(この巻の著者は、吉田裕・一橋大学大学院社会学研究科教授)によって、こう描き出してきた。

【 本書に上げられたその実例は、(1941年)9月6日御前会議に向けて、その前日に関係者とその原案を話し合った会話の内容である。まず、6日の御前会議ではどんなことが決まったのか。
『その天皇は、いつ開戦を決意したのか。すでに述べたように、日本が実質的な開戦決定をしたのは、11月5日の御前会議である。しかし、入江昭『太平洋戦争の起源』のように、9月6日説も存在する。この9月6日の御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」では、「帝国は自存自衛を全うする為、対米(英欄)戦争を辞せざる決意の下に、概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す」ること(第1項)、「右に並行して米、英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努」めること(第2項)、そして(中略)、が決められていた』
 さて、この会議の前日に、こういうやりとりがあったと語られていく。

『よく知られているように、昭和天皇は、御前会議の前日、杉山元参謀総長と水野修身軍令部総長を招致して、対米英戦の勝算について厳しく問い質している。
 また、9月6日の御前会議では、明治天皇の御製(和歌)、「四方の海みな同胞と思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ」を朗読して、過早な開戦決意を戒めている。
 ただし、天皇は断固として開戦に反対していたわけではない。海軍の資料によれば、9月5日の両総長による内奏の際、「若し徒に時日を遷延して足腰立たざるに及びて戦を強ひらるるも最早如何ともなすこと能はざるなり」という永野軍令部総長の説明のすぐ後に、次のようなやりとりがあった(伊藤隆ほか編『高木惣吉 日記と情報(下)』)。
 御上[天皇] よし解つた(御気色和げり)。
 近衛総理 明日の議題を変更致しますか。如何取計ませうか。
 御上 変更に及ばず。
 永野自身の敗戦直後の回想にも、細部は多少異なるものの、「[永野の説明により]御気色和らぎたり。ここに於いて、永野は「原案の一項と二項との順序を変更いたし申すべきや、否や」を奏聞せしが、御上は「それでは原案の順序でよし」とおおせられたり」とある(新名丈夫編『海軍戦争検討会議議事録』)。ここでいう「原案」とは、翌日の御前会議でそのまま決定された「帝国国策遂行要領」の原案のことだが、その第一項は戦争準備の完整を、第二項は外交交渉による問題の解決を規定していた。永野の回想に従えば、その順番を入れ替えて、外交交渉優先の姿勢を明確にするという提案を天皇自身が退けていることになる』
 こうして前記9月6日の「帝国国策遂行要領」は、決定された。つまり、対米交渉よりも戦争準備完整が優先されるようになったのである。続いて10月18日には、それまで対米交渉決裂を避けようと努力してきた近衛内閣が退陣して東条内閣が成立し、11月5日御前会議での開戦決定ということになっていく。この5日御前会議の決定事項とその意味などは、前回までに論じてきた通りである。】

(以上、この8月19日エントリー「太平洋戦争 四」から)

 

 このように解明された史実を前にした時、半藤の統帥権への上記のような問題意識はほとんど意味を持ちえない。天皇がここではっきりと「戦争準備の完整」を決意したからこそ、近衛内閣が東条内閣に入れ替わって戦争へまっしぐらになっていった。開戦は統帥権を持った天皇が決断する。これを言い換えれば「天皇にさえ決断させれば、開戦が決まる」。明治憲法自身がそういうものだったのである。この憲法の第一条・天皇統治と、統帥権とは、そのように合致している。ちなみに、大日本帝国憲法では、立法権、行政権、外交権などでさえ天皇大権なのであって、国務大臣の輔弼(補佐)に基づいて行使されることになっていた。だからこそ、国民は国民ではなく臣民なのだ。

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