現代の膨大な難民は、アフガン戦争、イラク戦争、シリア内乱などによって生み出された。全て、アメリカ絡みである。アメリカは自国にとっては地球の裏側で、なぜこんな凄まじいことを成してきたのか? ある書評をもって報告に変えたい。
書評 「ルポ・難民追跡」(完結編) 文科系
2016年12月23日 08時34分01秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
既載の3回連載を1回にまとめてみました。気を入れた僕にとって大事な記事とて、できるだけ多くの方々に内容を知って欲しいと思いまして。よろしくお願いします。
「ルポ 難民追跡 バルカンルートを行く」(著者は、坂口裕彦・毎日新聞外信部。岩波新書)の内容をご紹介したい。
二〇一五年に西欧への難民大移動が特に激しかった時期、著者はウィーン特派員。記者として避けて通れない問題と考えた。ルポとはルポルタージュの略で、「現地報告」を決意したのである。それも、西欧への入口トルコ・ギリシャからドイツへという典型的ルートを通るだろう一家族に密着同行取材を認められて、その家族が属していた千人程の一団を追跡していくことになる。
いろいろ断られた揚げ句の取材相手は、イランから来た三人家族。アリ・バグリさんはアフガニスタンはバーミヤンの出身で三二歳、蒙古人の血を引く日本人に似た容貌のハザラ人。彼がイランに亡命したのが二〇一〇年、そこで同じアフガン出身のハザラ人、タヘリー・カゼミさん三〇歳と結婚した。一人娘のフェレシュテちゃんが四歳になったこの年に、ドイツへの移民を決意したのである。彼らに坂口さんが出会ったのは二〇一五年一一月二日。約一か月前イランを後にしてドイツに向かうべく移動し続けた末に、ギリシャ領レスボス島からアテネ・ピレウス港行きの難民船乗り込みを待って延々数百メートルも続いた隊列の中のことだ。なんとか英語が話せるアリさんが密着同行取材を快諾してくれたと、これがこのお話の始まりなのである。ちなみにレスボス島とは、トルコ領北西端の沖十キロにあるギリシャの島で、この島への渡航が密航業者で有名なすし詰め、決死のゴムボート。ここからアテネのピレウス港までは一日がかりのフェリー航海になった。
それからのこの家族の行程は、アテネには一一月一〇日まで居て、一一日がマケドニア、一二日がセルビアで、一三日にクロアチア、スロベニアを経て一四日には目的のドイツは南部メステュテッセンに着いている。マケドニア、クロアチア、スロベニアなどは特別列車を仕立てて、他は難民用バスで、千人単位以上を次の国に送り込んでいく。なんせ一五年に欧州に渉った中東難民は凄まじい数とあって、オーストリア、ドイツ、スェーデンなどの大量受け入れ国へと、どんどん送り込んでいくというやり方である。このルートは、二〇一五年春から二度変更された末に自然に出来あがったものと述べられている。セルビア・ハンガリー国境などをハンガリーが塞いでしまったことから以降二度大移動の流れが変わっていたということだ。
「世界総人口の一一三人に一人が強制移動」
これは、二〇一六年六月二〇日の国連難民高等弁務官事務所発表の見出しである。二〇一五年末で紛争や迫害で追われた人々が過去最多の六五三〇万人を、世界総人口七三億四九〇〇万人で割り出した数字だ。一五年度の新しい数字は一二四〇万人である。よって、一五年度末難民総数の五分の一近くが、一五年度に生まれたことになる。一五年度に生まれた難民の出身国内訳の五四%が、シリア、アフガン、ソマリアの三か国で占められているともあった。また、いわゆる地中海ルートなどを除いたこの本の舞台・バルカン半島北上ルートで多い順を見れば、シリア、アフガン、イラクの順になる。よって、難民が、戦争、内乱などから家族の命を守るために生まれるというのも明らかだろう。ただ、この本に書いてあったことだが、「豊かな人しか国外脱出難民にはなれない」のである。家など全財産を売って旅費が作れる家族とか、親族の「希望」が込められた金をかき集めて「先遣隊(後には「本国に残った親族などの呼び寄せ隊」に変わる)」として出かけてきたという人々が多いと言われていた。彼らは希望を求めて難民の旅に出たのである。掲載された写真にある顔はほぼ全員明るく微笑んでいて、僕が持っていた難民というイメージとはかなり隔たっている。
さて、これを受け入れる側には明確に二種類の国がある。その両巨頭がドイツとハンガリーなのだが、この本の四,五章の題名が「排除のハンガリー」と「贖罪のドイツ」となっている。貧しいハンガリーは一五年秋に四メートルのフェンスを設けてセルビア、クロアチアとの国境を閉ざしてしまった。クロアチア国境のそれは約三百キロにも及ぶもの。他方のドイツは、「ドイツ、ドイツ!」、「メルケル、メルケル!」との掛け声が難民達から出る局面もあるような凄まじさだ。なぜドイツか。その理由は、想像にお任せする。
断る国の理由は当然理解できる。が、関ヶ原の戦い直前に、岐阜や三重に逃げてきた人々が居るとしたら、人としてどう接するべきか。その答えもまた、自明だろう。いわゆる経済難民との区別も難しいし、とても難しい問題だ。そして、この難問に向けて今の日本政府が世界一遅れた先進国だということだけははっきりしている。上記「排除のハンガリー」でさえ、排除策実施前の一五年夏時点では、首都ブダベスト東駅が列車待ちをするシリア、アフガン難民の「難民キャンプ」と化していたという事実もあったのだ。
最後に、この本末尾における、アリさんら三人家族の置かれた状況を、報告しておこう。著者は、最後に別れた仮収容の土地、ドイツ南部メスシュテッテンで再会してから、約四か月ぶりにチュービンゲンの新しい仮住まいを訪れている。当時チュービンゲンに身を寄せた難民は約一二〇〇人で、その九割はシリア、イラク、アフガンの人々という。三人家族は街の中心部からタクシーで十分程の閑静な住宅街の古い二階建て住宅に住んでいた。一階には三部屋があって、シリア人など他の二家族と十畳一間ずつをルームシェアしている。この三家族皆が難民申請が認められる日を待ってドイツ語教室にバスで通いながらいろんな猛勉強をしているということだった。
「フェレシュテちゃんは、相変わらず快活だ。ギリシャのレスボス島で、ボランティアにもらった象のぬいぐるみは、ベッドに大切そうに置かれていた。二週間前から、バスで五分程の幼稚園に、午前八時から午後一時まで通っているという。こちらも無料だ」
なお、こういう難民ルートとか受け入れ状況などの事実はすべて、仲間の難民や出身国に残された親類などに瞬時に伝わっていくのである。現代の難民らは皆、スマートフォンを持参し、ワイファイなども使いこなすから、これが難民の爆発的増加に拍車を掛けているようだ。酷い国は捨てられるということ。これも貧し過ぎ、人を虐げすぎる世界へ民衆が投げかける究極の抗議なのだろう。