本日の落石さんの投稿「進化の方向」はいろいろなことを考えさせてくれる文章だと思います。そこで、この文章に関わると思われることで、反復説というのがありますので、それに触れてみたいと思います。
「個体発生は系統発生を繰り返す」
これの正しい解釈と、誤った解釈とがあります。誤りはこういうの。単細胞生物から人間までの系統発生の全てを順序を違えてでも、人間1人の発生、成長のあちこちに見抜こうとする奴です。これは、「機械的反復説」と言われます。
正しい解釈はこういうのです。ちょっと難しいですが。
「個体発生は、系統発生の全ての段階を経るということはなくっていろんな段階を飛ばしてしまうということはあるが、人間個体に起こることは、系統発生通りに起こり、その順番に狂いはない」
この後半は説明がいります。人間の赤ん坊は母の体内でもう、哺乳類の段階になっています。ですから生まれた後で「は虫類の這い這いをしなければならない」などということはもうないわけです。ですが、保育の偉い先生が昔、その大人気の本でもっともらしく「は虫類這い這い」などという言葉を大々的に使ったことがありました。僕はこれを聞いた時、笑っちゃいましたね。「『は虫類這い這い』なんていかにも系統発生学的でもっともらしいから、『は虫類の段階の這い這い』としか読めないよな。だから機械的反復説だね。これは」というわけです。
さてこうして、他の生物から人間の精神、心、社会などを類推するのは、ほとんど全て誤りと言っても良いのだと思います。だからこそ、社会ダーウィニズムも誤りなんですね。人間(の肉体はともかく、その精神や社会のこと)は何よりも、他の生物とは非常に違う特別な存在です。
さて、新自由主義と「平等、博愛」と。これは生物学から類推してもいけないし、塩野七生がよくやるようにギリシャ、ローマ時代などから類推してさえもいけないと僕は考えていますね。「現代社会の」、「自由」対「平等」のはずですから。類推とは、同じような言葉の魔術に人間が引っかかりやすい罠だと思いますね。
現代の「自由対平等」は例えばこういうものじゃないでしょうか。
【 当面、大きく分けて二つの指導的な資本主義の間に闘争がある。それは少なくともアングロ・サクソン諸国に見られる新自由主義的な形態と、生産におけるコーポラティズムの組織と弱者への福祉の網の目に安定の基礎を置こうとしている国家資本主義的重商主義という二つの形態である。新自由主義的な形態はアングロ・サクソン諸国において最も発達しているが、国家資本主義の形態は大陸ヨーロッパにおいてみられ、その修正された形態が日本に見られる。
実際、米国の有力な理論家の中には、この文脈で、「共同体主義的」日本モデルやドイツの「社会的市場」モデルの方が長期的な観点を備えており短期的な観点しか持たず投機的で利潤極大指向性が強い自由主義的な英米モデルよりも、経済的にも社会的にも優れていると主張する者もいる。】
上記は1996年に日本版が出された本からの抜粋ですが、今の日本はもうこの当時の面影すらなくって、随分アングロ・サクソン的になってきたのではないでしょうか。そしてまた、「自由主義的な英米モデル」がいかに「短期的な観点しか持たず投機的で利潤極大指向性が強」かったかは、サブプライム爆発によって既に見事に証明されています。
今読んでいる「地球政治の再構築」、スティーブン・ギル著、朝日選書からの抜粋でした。イタリアの思想家グラムシの理論を、現代世界政治経済分析に適用した数少ない本です。いずれこのブログでも触れるつもりです。
「個体発生は系統発生を繰り返す」
これの正しい解釈と、誤った解釈とがあります。誤りはこういうの。単細胞生物から人間までの系統発生の全てを順序を違えてでも、人間1人の発生、成長のあちこちに見抜こうとする奴です。これは、「機械的反復説」と言われます。
正しい解釈はこういうのです。ちょっと難しいですが。
「個体発生は、系統発生の全ての段階を経るということはなくっていろんな段階を飛ばしてしまうということはあるが、人間個体に起こることは、系統発生通りに起こり、その順番に狂いはない」
この後半は説明がいります。人間の赤ん坊は母の体内でもう、哺乳類の段階になっています。ですから生まれた後で「は虫類の這い這いをしなければならない」などということはもうないわけです。ですが、保育の偉い先生が昔、その大人気の本でもっともらしく「は虫類這い這い」などという言葉を大々的に使ったことがありました。僕はこれを聞いた時、笑っちゃいましたね。「『は虫類這い這い』なんていかにも系統発生学的でもっともらしいから、『は虫類の段階の這い這い』としか読めないよな。だから機械的反復説だね。これは」というわけです。
さてこうして、他の生物から人間の精神、心、社会などを類推するのは、ほとんど全て誤りと言っても良いのだと思います。だからこそ、社会ダーウィニズムも誤りなんですね。人間(の肉体はともかく、その精神や社会のこと)は何よりも、他の生物とは非常に違う特別な存在です。
さて、新自由主義と「平等、博愛」と。これは生物学から類推してもいけないし、塩野七生がよくやるようにギリシャ、ローマ時代などから類推してさえもいけないと僕は考えていますね。「現代社会の」、「自由」対「平等」のはずですから。類推とは、同じような言葉の魔術に人間が引っかかりやすい罠だと思いますね。
現代の「自由対平等」は例えばこういうものじゃないでしょうか。
【 当面、大きく分けて二つの指導的な資本主義の間に闘争がある。それは少なくともアングロ・サクソン諸国に見られる新自由主義的な形態と、生産におけるコーポラティズムの組織と弱者への福祉の網の目に安定の基礎を置こうとしている国家資本主義的重商主義という二つの形態である。新自由主義的な形態はアングロ・サクソン諸国において最も発達しているが、国家資本主義の形態は大陸ヨーロッパにおいてみられ、その修正された形態が日本に見られる。
実際、米国の有力な理論家の中には、この文脈で、「共同体主義的」日本モデルやドイツの「社会的市場」モデルの方が長期的な観点を備えており短期的な観点しか持たず投機的で利潤極大指向性が強い自由主義的な英米モデルよりも、経済的にも社会的にも優れていると主張する者もいる。】
上記は1996年に日本版が出された本からの抜粋ですが、今の日本はもうこの当時の面影すらなくって、随分アングロ・サクソン的になってきたのではないでしょうか。そしてまた、「自由主義的な英米モデル」がいかに「短期的な観点しか持たず投機的で利潤極大指向性が強」かったかは、サブプライム爆発によって既に見事に証明されています。
今読んでいる「地球政治の再構築」、スティーブン・ギル著、朝日選書からの抜粋でした。イタリアの思想家グラムシの理論を、現代世界政治経済分析に適用した数少ない本です。いずれこのブログでも触れるつもりです。
役に立つと確信しています。
実証的ないしは歴史的な話をしているようでも実は、ある哲学的信念を、それにあった形の「証拠」だけを引っ張り出しつつ語っているといったことのほうが、人間はるかに多いもんだと思います。右も左もね。
だって、実証の話なんて無数にあって、自分への反論になるような実証話なんか、学者でもない限り学ぼうとしないのが普通ですから。
日本人は右も左も、こんなのばっかりじゃないでしょうか。かくして討論というものが核心に触れず、互いに靴の上から痒みを取ろうとしているような会話ばかり。
それらしいディベートの習慣がないからだと考えていますが、これこそが衆愚政治の元にもなっているし、人文科学的学問の不在の原因になっている。
「国語は学問か?」と、大人でもそんな人が多いんじゃないでしょうか。
『民間防衛 新装版』(スイス)
『中国経済がダメになる理由』ちょっと極端な本だけどアマゾン寸評でも読んでみて
僕がいつ理想なんて言った? 現実と言うだけならそれはプラグマティズムでしょう。そういう人が「理想」などという時は「現実とは別のもの、つまり夢」という程度の意味しかないはずだ。プラグマティズムは他方では信念的目標みたいなものを必ず隠し持っているはずだと、僕は思っていますが。
僕はただ真理と言いたいね。
この言葉は思いあがりです。
なぜ、理念(夢)が生まれたのか?
そこに人間性があるからです。
矛盾を矛盾として抱え込めないのは
一見、強そうにみえても
本当は弱い精神です。
かっての帝国陸軍の「やまと魂」ね。
なにをあの敗戦から学んだのですか?
歴史から勉強しなきゃ。
謙虚さがないとダメだけれど。