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掌編小説を   文科系

2007年07月04日 00時11分46秒 | スポーツ
 俺の幸せ
   
俺の年齢はちょうど六十。あるジムでこのごろは毎日のように走っているランナーの端くれだ。振り返ればこの三年、ランニングの意味がこの我が身に全て現れた年月だったな。
 
三年前にこのジムに通い始めたのは、今振り返ればほんのささやかな動機だった。百七十センチで七十七キロという体重が少しでも何とかならないかということだった。歳も歳だし、仕事にも余裕ができて、今を逃したら幸せな老後はないだろうなと、様々せっぱ詰まった予感にもさいなまれていた。そんなことから、とにかくここに来て、ランニングマシンでちょっと走ってみた。五分も続かない! チアノーゼ寸前のように呼吸は荒く、顔面は蒼白だったろうし、愕然とした。走るのは諦めておざなりに歩くだけ、暗澹たる気分のままに大部分の時間をあれこれのトレーニング機器と戯れるのに費やしていた。そんな日が十日も続いたある日のことだ。一人の爺さんが近づいてきて、いきなりぼそっと話しかける。年の頃は七十五。小太りで、柔らかい風貌の人だという初印象しかない。
 「この前は走っとったでしょー。また走りゃーて。ウェートやっても太るばっかだにー」 なんだこの爺さん、オレにしゃべっとるのか。それに、オレを観察しとっただと?なんのために?ともあれ、年上でもあるし、丁重に答えた。
 「いやー、走るのは懲りました。死にそうになる」
 「いきなりやりゃー誰でもそうだわさ。科学的な手順ちゅーもんがある」
 〈科学的? 科学的な手順?〉思わずその容姿をじろじろと探っていたかどうか、とにかくジムの片隅に誘われるままに、二人の会話が始まったのだ。大要はこんなふうだ。
 体重も、筋力や心肺機能の弱さも、そして何よりも「筋肉に『毛細血管』が少にゃーで、『乳酸がはけてかん』のだから、走れんで当ったり前だがねー」。しかし、とにかく少しでも走り続けていればだんだん時間は延びる。つまり「毛細血管は確実に延びてく」。ジムでは最低二〇分は歩いて、それから三分でも五分でも走ること。その我慢が出来ない人は走るのを諦めるしかないが、「あんたはこつこつやるのだけはトリエだと応えやーた」。「一年で絶対走れるようになるてー。わしもつきあったるて」と、こんな話だった。
 雲をつかむような話だが、後で他の人々にさりげなく確かめてみた。この老人のランニング歴は四十年を超え、ここの最長老現役ランナーであって、今でもホノルル・フル・マラソンに出ているという。そして、「世話好きなんだわ」、みなの異口同音の応えだった。

さて、俺の「こつこつ」が始まった。本当に文字通りの「こつこつ」である。二日おきに通っても初めはなかなか五分をこえられない。そんな日が半年も続いたらいいかげんがっくりもする。が、俺にはその間も結構手応えがあったのだ。彼の指摘するままに走り方を直していたからだ。「もっと小股で、遅く走る」。「とにかく少しでもギョウサン息を吐く」。体の前傾を減らし、顎や肩も引いてなるべく体を立てる。そうして、「ヘソを突き出すように」しながら進む。家でも片脚つま先立ち、スクワットなどの脚筋トレーニングに心がける。などなどである。そして、これらの一つ一つの改善で、体の疲れが微妙に減ってくるのも感じた。それでも肝心の走行時間自身はなかなか増えないのだ。爺さんに質問するといつもこんな答えが返ってきた。「学者に聞いた話だが、物事の変化にゃー『量的変化』と『質的変化』ちゅーのがあるそうだ。いつか必ず質に変わるわ」。俺が「こつこつ」が好きだというのは、結局そういうことかも知れない。「続けていれば何かが急に変わる」。こんないくつかの幸せな過去体験が結局、この時の俺を支えてくれたのだ。
 一年に近づいたころ、何もかもが楽になり始めて、間もなく二十分をクリアーした。すると、さらに全ての変化が急になっていった。体重が減り始めたから楽に走れるようになり、走る時間が延びるとさらに体重が減るという、爺さん言うところの「良循環」なのである。確かに体の中全てが良循環しあって「質的変化」を起こしあっていたのだろう。そして気がつくと、一年半を超えた頃には一時間も走れるようになっていたのである。こうして二年がたったころ、俺の体重は六十六キロになっていた。
 六十のオレも捨てたもんじゃないな。何か幸せの予感までする。ぶかぶかのズボンを見ると、こんな気持ちになるので、今でもジムでこれ見よがしにはいている。
  
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