昨日11月16日の中日新聞朝刊は、社説「9・11からパリ・テロへ」を掲げた。
パリ・テロを論じても他の全国紙とはかなり違った内容になっていると読んだので、ここに抜粋を書いてみる。以下が、この記事の書き出しと、末尾の締めの言葉である。
【 9・11テロのあった日、アラブ・イスラム世界の一大中心都市エジプトのカイロはどうだったか。電話で中産階級の知人に聞くとこうでした。
<街路は喜びにわいている。アメリカに一撃をくれてやったということだ。アメリカはイスラエルを助けパレスチナ人を苦しめている。鬱憤(うっぷん)が晴れたということさ>
アメリカの悲嘆と怒り、欧米社会のテロ非難とは裏腹にアラブ・イスラム世界の網の目のような無数の街路は暗い歓喜に満たされていたようなのです。
欧米で憎まれるテロは、世界を異にすれば聖戦という美名で呼ばれることは、それが間違っていようがいまいが、動かせぬ事実でもあるのです。
アメリカはテロに対しいくつもの行動をとりました。
一つはアフガン、イラクの戦争です。ビンラディンを追うアフガン戦争は空爆であっけなく勝利したかのような印象を与えたが、今も終わらず無人機空爆は無辜(むこ)の住民の巻き添え死を招いている。
イラク戦争は、サダム・フセインさえいなければ民主化により、自由と経済の活性がテロを締め出すという、いわば無邪気な発想で始まったものの、その泥沼化は目を覆うばかり。最悪の予想すらこえてイスラム国(IS)誕生につながってしまった。
テロとの戦いで武力行使の必要性は否定はしませんが、机上の戦争作戦が無視したもの、あるいは過剰に軽視したものの一つは住民感情、街路の世論だったかもしれません。
(中略 そして、以下は社説末尾)
それはきれい事にほかならないともいわれそうですが、米欧また日本の社会がどれほどイスラム世界を理解しているのかというとどうでしょう。二つの戦争による膨大な死者と、パリのテロの無辜の犠牲者とをならべて考えることもまた必要ではないでしょうか。おおげさにいえば、世界史の中で今私たちは試されているのです。】
アメリカの累積債務は既に65兆ドルにのぼるという報告が出ている。米国会計監査院の元院長・デイブ・ウォーカーが試算した数字として公表されたものだ。この数字こそ、近年のアメリカが示した数々の異常な世界政策の源なのだろうと推察できるが、最新のものでは、こんな数字もある。ニューヨークダウは13日254ドル、14日は203ドル、12日の56ドル下落を併せれば3日間で563ドル余りの急落を演じたと(阿修羅掲示板から、NEVADAブログの数字)。これでは、9年越しの利上げなどできるわけもない。
上の社説内容は、これら世界政策のさんざんな結末の一つとも、僕には読めたもの。それだけに、文末のこの締めの言葉は、本当にその通りだと共感した。
『世界史の中で今私たちは試されているのです』
今回のテロ自身にも絡んだ欧州難民問題などを観るにつけても、超大国アメリカの没落やそれへの傷付いた自尊心の発露行動やにつれて世界が地獄と化するのではないか、そう感じるのはアラブ人だけではないはずだ。
パリ・テロを論じても他の全国紙とはかなり違った内容になっていると読んだので、ここに抜粋を書いてみる。以下が、この記事の書き出しと、末尾の締めの言葉である。
【 9・11テロのあった日、アラブ・イスラム世界の一大中心都市エジプトのカイロはどうだったか。電話で中産階級の知人に聞くとこうでした。
<街路は喜びにわいている。アメリカに一撃をくれてやったということだ。アメリカはイスラエルを助けパレスチナ人を苦しめている。鬱憤(うっぷん)が晴れたということさ>
アメリカの悲嘆と怒り、欧米社会のテロ非難とは裏腹にアラブ・イスラム世界の網の目のような無数の街路は暗い歓喜に満たされていたようなのです。
欧米で憎まれるテロは、世界を異にすれば聖戦という美名で呼ばれることは、それが間違っていようがいまいが、動かせぬ事実でもあるのです。
アメリカはテロに対しいくつもの行動をとりました。
一つはアフガン、イラクの戦争です。ビンラディンを追うアフガン戦争は空爆であっけなく勝利したかのような印象を与えたが、今も終わらず無人機空爆は無辜(むこ)の住民の巻き添え死を招いている。
イラク戦争は、サダム・フセインさえいなければ民主化により、自由と経済の活性がテロを締め出すという、いわば無邪気な発想で始まったものの、その泥沼化は目を覆うばかり。最悪の予想すらこえてイスラム国(IS)誕生につながってしまった。
テロとの戦いで武力行使の必要性は否定はしませんが、机上の戦争作戦が無視したもの、あるいは過剰に軽視したものの一つは住民感情、街路の世論だったかもしれません。
(中略 そして、以下は社説末尾)
それはきれい事にほかならないともいわれそうですが、米欧また日本の社会がどれほどイスラム世界を理解しているのかというとどうでしょう。二つの戦争による膨大な死者と、パリのテロの無辜の犠牲者とをならべて考えることもまた必要ではないでしょうか。おおげさにいえば、世界史の中で今私たちは試されているのです。】
アメリカの累積債務は既に65兆ドルにのぼるという報告が出ている。米国会計監査院の元院長・デイブ・ウォーカーが試算した数字として公表されたものだ。この数字こそ、近年のアメリカが示した数々の異常な世界政策の源なのだろうと推察できるが、最新のものでは、こんな数字もある。ニューヨークダウは13日254ドル、14日は203ドル、12日の56ドル下落を併せれば3日間で563ドル余りの急落を演じたと(阿修羅掲示板から、NEVADAブログの数字)。これでは、9年越しの利上げなどできるわけもない。
上の社説内容は、これら世界政策のさんざんな結末の一つとも、僕には読めたもの。それだけに、文末のこの締めの言葉は、本当にその通りだと共感した。
『世界史の中で今私たちは試されているのです』
今回のテロ自身にも絡んだ欧州難民問題などを観るにつけても、超大国アメリカの没落やそれへの傷付いた自尊心の発露行動やにつれて世界が地獄と化するのではないか、そう感じるのはアラブ人だけではないはずだ。
西洋暦とイスラム暦の戦いかも?
どちらかが勝つという結末でhないかも・・・
しかし、ちょっと待った!プレイ・バック!プレイ・バックである。
ひとが百人単位で死ぬのは、中東では日常茶飯事ではないのか。パリの数日前には、レバノンでテロルがあり100人単位の死者が出た。シリアやイラクでも、毎日死者数が累積しつつある。こちらの方は、ほとんど「有志連合」の空爆によるものだ。
そして、その有志連合の一員として9月からシリアへ空爆を始めたのはこのフランスだ。その空爆では100人単位の命が失われなかったとでもいうのか。
欧米諸国の人間の命と中東やアフリカ諸国の人間の命とには、今回の事態が示すように絶対的な非対称がある。絶対的な不平等がある。
もし、人間の命が平等だとするなら、私たちはトリコロールを持ち出すと同時に、レバノンの旗を、イラクの旗を、シリアの旗を、そしてパレスティナの旗をも持ち出すべきではないのか。
ご都合主義で欺瞞に満ちたヒューマニズムには反吐が出る。
それだけではない。先にみた命の絶対的な非対称性のなかから、テロルが生まれていることを直視しなければならない。テロルは、自分たちの命が虫けらのようにしか扱われないことへの絶望的なアゲインストなのだ。
テロが悪いと百万遍叫んでも、百万遍の空爆をしてもテロはなくならない。なぜなら、テロリストは有限な数の存在ではなく、欧米やそれに準ずる連中が、力を誇示して武力でいためつければいためつけるほど、テロル以外に方法がないことを悟る部分がますます増殖されるからだ。
命は大切だ。よろしい、それは認めよう。だったら、いまあるような彼我の命の価値の絶対的非対称を解決しなければならない。それはまた、テロルをなくす道でもある。
今回のパリのテロルとそれをめぐる先進諸国の取り扱い方のなかに、はからずもテロルを必然化する構造が垣間見られる。
私はトリコロールの半旗は掲げない!
掲げるならば、アフガン、イラク、レバノン、シリア、パレスティナの半旗ともどもだ。
テロがあったのは、パリなのに、無理無理何時もの「反米」へ持っていく手法が、ある意味凄いな。
そもそも、対シリアで、アメリカとフランス(EUと言っていいかな)とでは、まるで対応が違うのだけど。
酷いな。
どうやって解決?
それほどに、このブログと、自分への信用というものを僕は大切にしてきた積もりです。
ただ、半旗さんにはこう申し上げておきましょう。このブログへようこそ。ブログの名称のせいか、ネトウヨまがいさんは多いが、お味方は案外少ないのです。
これからもよろしくご支援下さい。
ついでに、70さんコメントに一言。この言葉を全く誤読、誤解に基づいていますね。
『だったら、いまあるような彼我の命の価値の絶対的非対称を解決しなければならない』
この文言は、間違いなくエントリー社説のこの言葉を受けているものです。
『二つの戦争による膨大な死者と、パリのテロの無辜の犠牲者とをならべて考えることもまた必要ではないでしょうか』
ここで想起されるという意味で出てくるのは、イラク戦争の死者数と、イスラム国出現によってもたらされた死者数などなどでしょう。
ちょっと想像の翼をひろげてみたい。私たち自身が中東に住まいするとしたら、この事態はどのように映るだろうか。かたや、「大切な命」として大々的に悼まれ、直ちに復讐のためのさらなる攻撃の起点となる命たち、かたや、そこで命が失われたことすら知らされず、虫けらのごとに野ざらしにされる命。
それ自体をどう思うべきだろうか。その不均衡を思うこと、解決はその延長上にあると。
その対極にある考え方が空爆の強化だ。ピンポイントでテロリストのみを撃つ空爆なんてありはしない。またしても無辜の民が死にさらされる。
では、そこに住むものはどうするか。自分の生まれた土地を捨てて(それ自体大変なことだ!)難民として地球上をさまようのか、それとも、こうした不条理を命がけで清算するために爆弾を腹に巻いて突っ込むか。
もちろんそのどちらにも利などはありはしない。
いずれも地獄だ。
ブッシュがテロとの戦争という戦線なき戦いに前のめりで突っ込んでいったのは2001年、あれから15年が経過した。その間、何回の空爆が行われ、何万の地上部隊が送り込まれ、何十万単位の死者を生産したことか。
で、その成果はあったのか!その帰結が今日ではないのか。事態を素直に見るならば、それは悲惨の拡大再生産にしか過ぎなかった。そのひとつの結果がパリだ。
わかったようなことを言う人達のなかには、イスラム一神教の中にある原理主義的な政教不分離の頑なさにこそその要因があるという。確かにイスラム教の、とくにスンニ派の場合にはその教義からしてその傾向がある。
しかし、スンニ派は今に始まったことではない。イスラム発祥にまで遡る。それが今日、これだけの行動をするに至ったのはなぜか。それは、イスラム世界のある特定の人達が、欧米からの一方的な進出により自らの伝統的な文化や社会が破壊されつつあることへの抵抗の拠り所を、このスンニ派の原理のなかに見出したからに他ならない。
勘の良い方はお気づきのように、欧米の価値観によるグローバリズムは、世界市場の形成であるとともに、ヨーロッパ的価値観=キリスト教的価値観の世界単一原理としての主張でもあるのだ。だから、伝統的なイスラム社会を守ろうとする勢力は、原理主義的なスンニ派の、そのまた先鋭な立場に依拠する。
それ自体が、キリスト教的価値観に対するアゲインストの表明なのだ。
その意味では、双方ともにある特定の原理に依拠した戦いなのだ。そしてその暴力的側面での表現が、一方での近代兵器を用いた空爆、とりわけドローンによる攻撃であり、一方でのテロルなのだ。
それらを対岸の火事として、むしろ事態が拡大することを望むのなら、空爆を支持し、あるいはアゲインストとしてのテロルを支持するがいいだろう。
しかし、それらを悲惨の拡大再生産であると認識する者にとってはそれらはともに不毛である。
だからとりあえずは、一連の事態に見られる死者追悼の絶対的な不均衡から改めようではないかということだ。『だったら、いまあるような彼我の命の価値の絶対的非対称を解決しなければならない』は、そうした立場からの祈りのような気持ちの表明なのだと了解してほしい。
なお、誤解をされないためにいっておくが、この事態をこうすれば解決するという妙案などをポンとひねり出すことは誰しも不可能だろう。ただ、その解決への道は、まずは上記の立場に立って考えることではないだろうか。