今の「説明抜き」五輪強行開催は、もう政権暴力と言える。この暴力は、これまで積み上げた数々の国政私物化の結末と思えてならないのである。
桜は、「国政功労者を祝い励ます会」を「保守党議員選挙功労者を祝い励ます会」に替えてしまった、まさに国政私物化行事。それが国民にバレたから、即中止に追いやられた。日銀総裁人事、内閣法制局長官人事、モリカケ、検事総長、日本学術会議人選も、長期政権首相への忖度なども含めて進められてきた国政暴力であって、従来政治慣行から言えば国政私物化の連続である。元法相の河井は「黒川検事総長」で救われると考えていたからこそ、あんな大胆な選挙違反が出来たのではなかったか。こう言う国政私物化の無理の数々が、日本国政に大手を振って徘徊して来た昨今なのであった。
ところで、無理が通れば、道理が引っ込む。現権力維持だけの政治、政治だけではなく各界からの反対者の排除というこれだけの無理が通り始めたら、日本の政治は一体どこへ行ってしまうのだろう。これらの延長が今、五輪強行開催で演じられている無理なのだと言いたい。
「これだけ無理押しで五輪開催の、その訳は?」と問われているのに、一般的な「五輪の夢」しか語らない総理大臣である。本心なのか、ここでもとぼけているのか、訝らざるをえない答弁である。この五輪一般の夢に、「国民の命第一」というおのれらのその「やり方」を懸けてみようと答弁しているわけだが、彼に自分の命を懸けさせる権限を与えた覚えのある国民など皆無のはずである。ましてやこの五輪は世界に新株、これによる死者をばらまくかも知れず、これに管は一体どう責任を負えるというのだろう。説明になっていない事を繰り返しつつ開催強行に向かってひた走るのは、まさに暴力である。
ちなみに、こういう政治が繰り返されてくると、国民の中にも政権を擁護する言説が流布されていく。竹中平蔵などはその典型だが、彼らは無理が通れば道理が引っ込む世の中を切り開いているのである。
「人の命を懸けて良い政治執行」など、あるわけがない。それも多数の命というだけでなく、日本政権が責任を負えぬ他国の無数の命まで懸けているわけだ。そういう政治執行に対して「命を守るのは当たり前。万全を期していく」などと語って答えになっているとすること自身も、暴力なのである。これに対してこそ責任ある医者達が、「今、万全などありえない」と口々に述べているのであるから。