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オウム死刑を巡る国家論

2018年09月26日 12時24分20秒 | 国内政治・経済・社会問題
 7月23日の当ブログに拙稿の「掌編小説 オウム死刑に見えた国家暴走」を載せたが、昨日僕の同人誌例会でこの作品が合評された。作品概要を書き、次いでそこで出された疑問、内容批判とそれへの僕の応答とをここに改めて書いてみたい。死刑制度とこれを実行する国家というものの理解に関わる大変難しい重大問題だと考えているからだ。

 まず、僕の作品内容はこういうものだった。
「オウム関連の7人死刑(第一回目)が7月初めに敢行されたが、これは明治の大逆事件(11人)、太平洋戦争A級戦犯絞首刑(7人)と我が国でも前例が希有な、例外中の例外と言える大量死刑である。戦前とは違う国民が主人公の民主主義国家になって半世紀以上の今、どうしてこんな事が起こせたのか。日本人は死刑制度に鈍感すぎると思う。ちなみに、EUは既に死刑廃止が加盟国条件になっているほか、経済協力開発機構(OECD)加盟の先進36か国で死刑が残っているのは日米だけとあって、先進国では本当に珍しい大事件なのである。こういう国々からは日本は従来から死刑大国と言われてきた」

 対する同人誌例会での批判は二つあったし、ありうると思う。
① 殺人様態が酷すぎたから、あの死刑は被害者感情、与えた社会不安の重大さから肯定する。
② 加えて、ヨーロッパにはキリスト教がある。死刑廃止は、そういう特定思想の顕れに過ぎない。イスラム国家や社会主義国は日本以上に死刑を肯定している。

 改めて僕の考えを述べてみたい。
 イスラムや社会主義国には、全体主義国家の臭いがある。同じように、死刑制度そのものに、僕はこの臭いを感じざるをえない。こういう残虐な大事件の被害者感情、それを敷衍した社会不安の「解消」を国家に委ねて良しとするとき、そういう国家の肥大化、強権化をこそ僕は恐れる。主権者国民の命に鈍感な国家ができあがっていく。ちなみに、この死刑執行前日の夜には、政府の一角を占める人々のこんな姿があった。ここの冒頭に記した「掌編小説 オウム死刑に見えた国家暴走」の末尾から取った文章である。

『 「死刑執行の前日五日夜のことだが、自民党若手議員四十人ばかりが集まった二七回目という恒例の宴会に片山陽子法相も出席。会合の締め間際らしい全員写真も別記事に載っていて、その最前列真ん中に座った安倍首相の左手隣に上川氏が正座して、にこやかに右手親指をたてている光景があった」って。これって、明日の死刑執行を前にして、その決済書類に判を押したばかりの法相の態度かと問われているわけだ。この政府から見ると、めったになかったようなこれだけの大量処刑に異例という感じがまるでなかったことになる」 

 さて、急いで家に帰った俺、酔いも残っていたが、ネット記事を猛然と漁り始めた。まず、自民党議員・片山さつきさんのこれ。
「今日は27回目の #赤坂自民亭 @議員宿舎会議室、若手議員との交流の場ですが、#安倍総理 初のご参加で大変な盛り上がり!内閣からは#上川法務大臣 #小野寺防衛大臣 #吉野復興大臣 党側は #岸田政調会長 #竹下総務会長 #塩谷選対委員長、我々中間管理職は、若手と総理とのお写真撮ったり忙しく楽しい! 22:58 - 2018年7月5日」 
 次いで、ジャーナリスト斉藤貴男氏のこんな文章。
「死刑をリアルタイムで見せ物にすることで、国家権力の強大さと毅然とした態度を国民に見せつけた。意図的な公開処刑であり、死刑が政治に利用された」
 ここに言う「リアルタイムで見せ物に」とは、こういう異例なやり方の数々を指している。先ず死刑の予告がマスコミを通して国民に流れた。しかも、これが既に前日に流されていた。加えて、再審請求中だとか、国会会期中だとかには執行無しという諸慣行にも全て反していた。つまり、従来慣行を文字通り無視する形をさらに開き直らせるようにして、死刑という国家の力を国民に見せつけるという挙に出たわけである。というように、近代国家理論の慣例、諸原則を全て無視する形で改めて主権者の遙か上にそびえ立って見せた今の安倍流日本国家って、一体全体何物なのか? 』

 厳粛な人の命を勝手な利己的論理の下に奪った憎むべき人間にも、国家にとってはやはり同じように厳粛な命がある。それを奪う前日に、奪った国家のこの姿! 「憎むべき」国民はこんなにも安易に殺しても良しとする人々に見えて仕方なかった。国家の主人公の命とは、国家にとっても最も厳粛であるべきものだろうに。

 ちなみに、死刑制度に関わって僕たちはこんなことも考えてみたい。被害者が加害者を殺したい、あるいは殺すということと、国家が加害者を殺して良いとする制度とは別の問題であると。僕は、そういう被害者感情による制裁を国家に全面的に委託出来るとするほどには、現代の国家というものを信用していない。スターリンの国家、ヒトラーの国家、そして毛沢東の国家もつい昨日の事であって、主人公の命に対する途方もない鈍感さを示した。




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随筆紹介  剽 窃    文科系

2018年09月26日 12時16分44秒 | 文芸作品
  剽 窃    I・Zさんの作品です

 明日発表の芥川賞の候補作品の一つが剽窃(ひょうせつ)問題で揺れている。北条裕子の「美しい顔」が、群像新人賞をとり、さらに芥川賞の候補作に躍り出た。ところが剽窃だとネットで騒がれると、群像を出版した講談社は、出典の掲載を忘れたに過ぎず、剽窃には当たらず、この小説の素晴らしさの根底を揺るがさないとし、異常とも言える無料公開を開始した。白熱した事態となった。
 剽窃とは、他人の文章、語句、説を盗用することである。盗用された作品「遺体」を私は購入した。ネットに公開された美しい顔の最初の部分を読み始めたが、十日後に突然、予告なく講談社は中断してしまい、剽窃の詳細を自分では調べられない。仕方なく、毎日新聞他に頼った。
 ①遺体の『その横に名前、性別、身長、体重、所持品、手術痕などわかっている限りの情報が書かれているのだ』を、美しい顔では「その横に名前、身長、体重、所持品、手術跡といったことがある。今現在わかっている限りの情報だという」
 
 ②遺体の『床に敷かれたブルーシートには、二十体以上の遺体が蓑虫のように毛布にくるまれ一列に並んでいた。』『うっすらと潮と下水のまじった悪臭が漂う』を美しい顔では「すべてが大きなミノ虫みたいになってごろごろしているのだけれど、すべてがピタッと静止して一列にきれいに並んでいる。うっすらと潮と下水のまじった悪臭が流れてくる。」
 
 ③遺体の『今日までに見つかっている遺体はこれがすべてです。ご家族と思われる特徴のある方がいれば何体でもいいので番号を控えて教えてください。』を美しい顔では「今日までに見つかっている遺体はこれがすべてです。お母さんと思われる特徴の番号があればみんなここに。あとで実際に目で確認いただきますから」
 
 ④遺体の『毛布の端や、納体袋のチャックからねじれたいくつかの手足が突き出している』を、美しい顔では「毛布の隅や納体袋のチャックから、ねじれたいくつかの手足が突き出していた」   

 ⑤遺体の『死亡者リストに記載されている特徴にはかなり違いがあった。すでに名前や住所まで明かになっているものもあれば、波の勢いにもまれて傷んでいるために「年齢二十歳~四十歳」「性別不明」「衣服なし」としか情報が載っていないものもある』を、美しい顔では「壁の遺体リストに記載されている特徴にはかなりの違いがあった。すでに身元が特定され、住所や勤め先の会社名まで記してある番号もあれば〈性別不明〉〈所持品・衣服なし〉としか情報が載っていないものもある。〈年齢三十歳~六十歳〉とものすごい幅のあるものもある」

 ⑥3・11慟哭の記録の『なぜ警察も自衛隊も助けに来てくれないのか。日本はどうなってしまったんだろうとおもいました。』を、美しい顔では「なぜ警察も自衛隊も助けに来てくれない。日本はどうなってしまったんだ」
 この①②③④⑤⑥からすれば、明かな剽窃である。小説とは、作者が自由な方法とスタイルで、人間や社会を描く様式。フィクションは散文で作成された虚構の物語として定義される。(wikipediaより)
 だとすれば、小説家は自分の文章、語句、言葉で語るべきである。他人の書物を参考にしても、十分に消化し、自分の言葉とすべきであり、北条は軽薄にも脱線し、剽窃におよんでいる。そのことを本人も、講談社も素直に認めればいい話し。それができない。
 さて、ここまでくると芥川賞の選考委員は、単に彼女の作品を落選させただけでは事がすまない。候補にした総括、そもそも小説とは何か、彼女の犯した行為は何が問題か、再発防止はどうするのか、を個別論と普遍的な全体論とを語る絶好のチャンスであり、またそうすべきだと私は思う。今の騒ぎを解決する指針を投げかけるべき。これをせず、単に芥川賞を選ぶだけの選考委員であれば、まさに失格ではないだろうか。お手並み拝見としよう。明日の夕方には判明する。
 
 選考委員は小川洋子、奥泉光、川上弘美、島田雅彦、高樹のぶ子、堀江敏幸、宮本輝、山田詠美、吉田修一の九人。論客の村上龍が今回から抜けて、果たして、日本を代表するコメントを出せる力量があるか、はなはだ不安である。私の仮説では、「選考委員はこういった文芸問題には対処する力量が乏しく、剽窃の批判声明は出ない。彼らに替わり、週刊紙が大いに活躍するのでは」。小説家ではない週刊紙の記者、ルポライターが、経験豊かな知見をベースに、批判記事を積極的に掲載するだろう。
 日大アメフト部問題での大学トップのごとく、実際は力量のない、過去に運よく賞を得た選考委員の皆さんではないか。もっと根は深く、日本のいわゆる一流作家は、時代の先陣を切れないどころか、自分たちに関係する問題さえ解決できないのではないか、まさにことなかれの小心者。ますますインテリ、学者のスケールが小さくなってきている事例にならなければいいが。

 一日が過ぎ、芥川賞の発表の日を迎えた。美しい顔は勿論落選した。島田選考委員は「法的には盗用に当たらないとの意見で一致したが、自分なりのフィクションに昇華する努力が足りなかったのでないかとの意見もでた」と会見した。待てよ。法的にも、文学的にも問題があるのではないか。単なる努力不足というよりは、文学的には犯罪であり、文学を志す人は、このようなことがないようにと警鐘を鳴らすべき。これでは、盗作を上手くやれ、そうすれば芥川賞も取れるんだと、上手な剽窃を推奨しているようなもの。肌寒い。出版会社の講談社らに迎合し、忖度する選考委員の力量の不足こそ問題ではあるまいか。正義は次々に消えていく。週刊紙の反撃を期待する。
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