九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

朝鮮征服目指し40年、植民地35年(1)  文科系

2018年08月21日 12時54分48秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 以下は、2014年5月15、17、18、23日と連載したエントリーの最終回第4回目の再掲である。


 明治維新以来の日本は1945年の敗戦まで無数の戦争、準戦争、武力衝突を犯してきた。その結末が初めての厳しい太平洋戦争敗戦であり、この敗戦に至るまでの「長い戦争史」の出発が朝鮮なのであると、今回の旅行と勉強でつくづく理解できたものだ。調子に乗ってどんどん事を起こし、手痛い敗戦を喫して国体が替わり、新憲法が生まれたと。

1910年の朝鮮併合までとその後と、日本は常に彼の地で戦争をしてきた。そのいくつかの軌跡を年表として記してみよう。
(1867年 明治維新)
1874年 台湾出兵
1876年 朝鮮、江華島事件。 不法侵入による艦砲砲撃、上陸戦、要塞や民家の焼き討ちも含んだ小さな戦争である。

1884年 朝鮮、甲申政変 日清間主導権争い。日本派によるクーデターと日本の参戦・敗北。
1894年 東学農民戦争、日清戦争   
1904~5年 日露戦争

1910年 朝鮮併合
(併合と言うけど、植民地化へと武力で屈服をここまでエスカレートさせて来たということだ。何せ江華島事件から34年かけて徐々に主権を奪っていったのである。この間もこれ以降も、ずーっと絶えず大小の抵抗運動が起こっている)

1914年 第一次世界大戦参戦
1918年 シベリア出兵
1919年 朝鮮3・1独立運動とその鎮圧
 『3・1運動のなかでの朝鮮人の死者は、7,509人、負傷者15,849人、逮捕者は46,306人に及ぶとされる』(岩波新書「シリーズ日本近現代史」 その「③日清・日露戦争(原田敬一著)」P143ページ)
(1919年 関東軍設置)
(1923年 帝国国防方針改定 仮想敵第一が、ロシアからアメリカに換わる)
(1925年 日ソ国交樹立)
(1927~29年 世界大恐慌)
1927年 第一次山東出兵
1928年 第二次山東出兵
張作霖爆破事件
1931年 柳条湖事件 満州事変
1937年 盧溝橋事件 日中戦争
1941年 太平洋戦争
1945年 敗戦

 朝鮮相手の小さな「戦争」についても、ほんの一例を挙げてみよう。日清戦争後1895年の閔妃暗殺事件である。
【1895年10月8日、漢城で大事件が起きた。14日、『ニューヨーク・ヘラルド』「王妃殺害の全容」という記事は、「日本人は王妃の部屋に押し入り、王妃閔妃と内大臣、女性3人を殺害した」という第一報を10日漢城から発信したが、東京で差し止められていた、と報じ(中略)
 国際的非難を受けた日本政府は、三浦梧楼駐韓公使を召還し、関係者とともに裁判(広島地方裁判所)に付したが、世界史に類のない蛮行であるにもかかわらず、「証拠十分ならず」として48人全員無罪・免訴という最悪の結果となった】(岩波新書「シリーズ日本近現代史」 その「③日清・日露戦争(原田敬一著)」P193ページ)

 こんな日本近現代戦争史を見るとき、敗戦と新憲法はこういう流れの一時代の結末として時代を画する重要なものであったのだとつくづく噛み締めるのである。この反省が少な過ぎるように見受けられる今の政権は、自ら戦争を起こすことになるという可能性について、あまりにも無自覚だと思われてならない。折しも、株価という「虚飾」はともかく、まともな職業のなさ、失業者の多さ、賃金の少なさなどなどから100年に一度と言われた世界恐慌状態が続いていることも明らかであるし。現在の世界に弱肉強食社会をもたらしている新自由主義経済は、世界の至る所にいざこざ、にくしみあい、紛争をもたらしている。
  弱肉強食世界に日本が乗っていくのかこれを正そうとするのか、そんな今主としてアメリカを相手にした集団的自衛権行使への解釈改憲って上記75年の反省が足らなすぎると思えるのである。朝鮮に対しても1876年江華島事件以来これだけのことをしでかしながら、今は悪びれた様子さえないように見える。慰安婦問題一つをとってもこんな批判も十分に可能であろうに。

「上記のように長い間朝鮮を疲弊させてきた末の1929年世界大恐慌後などは、日本農村などでも『娘売ります』もあった時代。朝鮮の米は群山などから日本に送って、朝鮮人は粟などを食べていた時代でもある。日本が朝鮮にそうさせたわけだ。万一ネトウヨ諸君が言うように強制がなかったとしてさえ、事実としては強制と同じ事をしてきたのではないのか」
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説 「死に因んで」(その1)   文科系

2018年08月21日 06時34分45秒 | 文芸作品
 400字詰め原稿用紙30枚ほどの作品です。3回連載でと思っています。ご笑覧下さい



 例によってかなり早めに会場に着いてしまった。この都心まで三キロほどをわが家から歩いて来た。この大都会の繁華街に、賑わいと電飾などが日々増してきたような晩秋の日暮れのことだ。大きなビルの地下にある宴会場に通じた外階段まで来ると、階段途中の手すりを寄り添うようにゆっくりと下っていく二つの影が見える。見るからにひょろーっとして脚がおぼつかない吉田と、彼の脇で歩を進めているのは、ずんぐりがっちりの堀に違いない。俺はしばらく、二人を上から見つめていた。
 数年前にお連れ合いさんを亡くした吉田は、骨折などもあって歩行困難になっている。早く来合わせた堀と、吉田のリハビリも兼ねてこんな場面になったということだろう。七十歳の今日まで独身という堀が、吉田の左腕を肩で支えながら、彼らしいからっとした笑い顔でなにか応えている。吉田も上機嫌でお得意のながーいおしゃべりを繰り出しているらしい。その音声が、すっかり冷たくなった風の間から聞こえて来る。なかなか良い光景………そう微笑みつつ、二人の段まで下りていく。
「お二人とも、早く来たんだなー」
 ふり返った吉田がいつものように舌が縺れるように語り出す。
「いやぁーね、僕が堀君にちょっとー早く来てもらったんだよー。話し合いたいことがあってさー」
 あーっ、あのことかと心当たりが浮かんだ。堀がこの会で何か気分が悪いことがあったらしいとは聞いていたが、それを吉田が取りなしているのだ。吉田もこんな不自由な身体で毎回よく出て来て、よく気を回すもんだ。思わず浮かんだ苦が笑いを意識しながら、言った。
「堀よー、吉田もお前もいー奴だなー。吉田もちっとは歩けるようになったんだなー」
 人の美点や努力を口に出すのが好きなのである。もちろん批判も平気でするのだが、自分の汚点をも隠さず、自分にも他人にもわざわざ念を押すような人間だとも思っている。所属同人誌で、連れ合いをひどく殴ったという随筆さえ書いたことがある。もっともそんな自己嫌悪とか偽悪に近いものの方は素直に読んでくれない時代らしく、この作品をこう取った人がいたのには驚いた。「妻を殴ったという事を自慢げに吹聴している」と。まー普通に、亭主関白自慢とでも取ったのだろう。多分俺は、亭主関白とは正反対の人間だ。

「吉田も、前とはだいぶ違う。腰から背中までがちょっと伸びたな。聞くとなんか良い整体師に付いたらしいぞ」
 堀って昔たしか、柔道の黒帯だったはず。その堀の野太いような声に導かれるような感じで、吉田の姿勢に目をやった。確かに腰の方は伸びている。あとは首の下辺りかなーと思いつつ俺は聞いてみた。
「吉田ー、腰が伸びたら、あとはどうするんだ?」
 吉田ではなく、これも堀が引き取って応えた。
「頭と首の下と尻のそれぞれ背中側を壁にでも付けて、一直線にできるようになればよい。ここまでがんばったんだから、最後までがんばるよなー」
 立ち止まったそんなやりとりいくらかの後に、こう告げながら、俺は先を急ぐ。
「いつものようにみんなの注文しとくから、先に行くな」
 俺はこの会の言い出しっぺの一人であって、みんなの肴の注文係なのである。地下一階のいつもの店へ、その大きな店の畳一畳ほどの入り口以外は個室のように周りから隔離された特別室様の空間へと、入る。

 この会は、俺ら中高一貫男女半々校同期生八人の飲み会である。〇九年の秋から年五回ほどの割合で持ってきたことになり、もう二年が過ぎた。笠原という中学時代からの俺の仲良しと二人で呼びかけて始まったものだ。一学年に二クラスしかなく、上下の学年も含めて皆が友達みたいな学校だったが、この八人が集まることになった理由はほんの偶然のせいとしか言いようがない。あまり付き合ったことが無い人もいたからである。吉田とか伊藤とかが、俺とはそういう間柄だった。なのに、もう十回目をこえて、俺が確認電話を忘れても全員が参加して来る。誰もぼけていないことは確かだし、それぞれ何かを楽しみにして来ることも確かなのだ。昔のこと今のことなどごちゃごちゃに語り合い、カラオケなどの二次会に流れていく。
〈吉田って、こんなにお喋りだったかな。それにしても、当時の男女関係によくこれだけ通じているもんだ! 昔の彼はよく知らないが、そんな情報集めに励んでたんだろうな。面白い話が多いけど、こんなに長く話す人、見たことない〉
〈伊藤って、カラオケ、歌がこんなに上手かったか? 確か、芸術部門の授業選択は音楽じゃなかった気がするけど。水原弘の「黒い花びら」かー。よく似合って、こんな良いバスも日本人にはちょっと少ないはずだ。音程や声量もちゃんとしとるし。カラオケ教室に入れ込んだ時期があるのか、それとも最近の笠原のシャンソン教室じゃないけど、歌謡教室かなんかに通ったことでもあるのかな〉
 この伊藤がまた歌というイメージからはちょっと遠いのだ。今でも自営業の現役社長さんで、そのごつい体にぴったりの強面は、〈トラブルなどが起こったら、側に立っていただくだけでも助かる〉という見かけである。この人がまたけっこう繊細な所があると最近気づいて、興味がそそられた。昔は全く気づかなかったのだが、ひとりひとりの水割りを作る役を自然に引き受けていて、それぞれその都度濃淡の好みなどを聞き、かいがいしくやっている。その姿がまた、楽しげそのものと見えるのである。俺が無神経な応答でもしようものなら、ちょっとあとにさり気ない探りらしきものが入ってくるし。これなら小島と親友関係が今日まで長く続いてきた理由も分かる。小島とはかなり付き合いもあったけれど、小島が伊藤と在学中からずーっと付き合ってきたとは全く知らなかったのである。小島は昔も今も変わっていない。若い女性たちとテニスに明け暮れているらしいが、若いと言っても中年女性たちだから「青い山脈」舞台の三十年後というところ。彼はさしずめ、あの舞台の先生の三十年あと………よりもかなり上だな。

 肴の注文係の任務をいつものように俺が終えたころには、唯一の女性、山中さんも本川もと八人がそろって、宴が始まる。これもいつものように、こんな調子だ。昔の話は男女のことがほとんど。それも一学年百人ちょっとで、その上下学年までごちゃごちゃにしての昔話だ。よって、それぞれの話の種をそれぞれ誰かがカラスのようにひっくり返していくから、つついてもつついても次から次へと限りがない。〈今現在のそんな話はないのかい!〉、たびたび雑ぜっ返したくなる自分を抑えるのに一苦労だった。そういう今の話の方は先ず、病気のこと。今現在の生活活動などは二の次というか、なかなか見えない気がしたものだ。これが俺にはずーっとイヤだったのだが、ここから始まるひと騒動への、大きな背景の一つになっていったのだろう。

 この日そのあと、盛り上がりのさなかに会場を一人飛び出して来た俺の心中は、どう表現したらよいのだろう。その時と今とでは感じがずい分違うし、あれから二年経った今でさえことの全貌がきちんとつかめているかどうか定かではない気がしている。一方で〈単にその時々の感情に左右されただけだよ〉という声が聞こえる。他方ではこう。〈やはりあの事件は、俺のこれまでのレゾンデートル、つまり存在理由だ。譲れるはずがない〉。と、これは今になって言えることであって、その時の俺の意識が後者一辺倒だったのは言うまでもないこと。言わば確信犯なのだが、その確信に感情の器すべてが占領された状態と言えて、他の感情は一切排除されていたようである。大変困ったものだが、大仰なことでもない。「あの時はその気だった」など誰でもあることだから、今も明日も十年後もその気かどうか、それが自分のためにも肝心なことだろう。こういった問題を抱えることは誰にでもあることだ。
 ともあれその夜、こんなことが起こった。

(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする