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小説 「母が僕らに遺したもの」①  文科系

2018年08月13日 11時22分35秒 | 文芸作品
 母が死んだ。僕ら夫婦の退職を待っていたかのように死んだ。左脳内出血の突発以来五年三か月と四日。右半身麻痺、感覚性全失語症という後遺症と闘い、麻痺はほとんど消えて、一時はほぼ自立というところまで持ち直したこともあったのに。歩行訓練や起立訓練など周囲が課すことにもちゃんとついてきて、母らしく頑張ってきたのに。僕らも同じ年月を、共働きを続けながら一緒に努めてきたというのに。僕らが定年を過ぎて同時に退職して十二日目で、居なくなった。
 こんな母の声が聞こえてくるようだ。
「お前も随分、家事に慣れてきたねぇ。体が自然に動くようになったもの。それを生かして、けんかを少なくして、自由になった時間を二人で楽しく暮らしていきなさい」
 九十二歳と七ヶ月ちょうど。人は大往生と言い、僕らもいちおう覚悟はしていたものの、死などというものはやはりどこまでいっても「突然」という他には表現のしようがないものだ。いわゆる痴呆ではなかったし、つい二日前までは僕と簡単な会話も交わしていたのである。病院生活などで家にいない期間が長かったからまだどこかに居るような気がして、朝の寝床で「さあ母さんとこ行かなきゃ」などと一瞬構えている僕が居る。生きている方からは、死んだ者への様々な「構え」がいつまでたっても抜けないようだ。

 二人分の年金があり、借金がないこともあって、働く気はもともとないから、いくつかの活動を準備してリタイヤー生活を手ぐすねひいて待ち構えていた。さらに、通夜、葬式、支払い、答礼、相続手続きの相談、母の持ち物の整理開始などなど、こんな一切が済んで、さて、一日平均して四時間ほどになっていた通院までが消えていた。ちなみに、母の所へ行くのは実子である僕の方が良いという決まりが五年間実行されてきたが、この仕事が突然なくなったというわけだ。こういう新生活になってから、以前より増えていったのがギターを弾く時間だった。
 退職の半年ほど前から、ぼろぼろになったカルカッシ教則本を引っ張りだして、昔から時々思い出したようにやってきた下手な一人習いのおさらいを始めていた。そして、この退職前のいわば準備段階で既に左手が故障した。指先はもちろん、関節や掌まで痛んで、マッサージをしたり、氷で冷やしたりしながらだましだまし弾いてきた。特に悪いのは左手薬指で、朝起きるとスムーズに動かず、延ばす時のある時点でバネが働いたような感じに跳ねる。母のことが済んで、まず早速医者に行った。薬指内側の付け根に注射を打たれ、その翌日からは、多少の違和感以外は全て何ということはなし、憂いなく弾き続けた。もっとも、それまでに身につけてしまった音の悪さや雑音の多さは自分でもどう直して良いか分からないという悩みはあったけれど。
 母に会いに行く時間が全てギタ-に消えていったという程度ではない。一日平均すると約五~六時間にもなろうか、それを二回ほどに分けて弾く。一日三回のときなど、八時間を越える日もあった。仕事がギター練習に転じたみたいなこんな生活がもう半年近く続いている。連れ合いからは「ちょっとおかしいんじゃない?」と言われ始め、あげくの果ては「どっか感情が狂ってるんだよ」と不思議がられても、「別に悪いことしとるわけじゃない。今日の家事はすんだよ」と答えては、そのまま続けるという調子だ。「日頃掃除し残した家の恥部のような部分も順番にぴかぴかにしたし、食事作りやその片付けなども二人並んでやってるんだから、その上でこれほどに魂が入った芸術活動、むしろ魅力と言ってほしいね」という、そんな積極的反論も言行ともに備えてあった。こうして、僕なりに、本当に僕なりにということなのだが、過去一番の腕前になったとは言える。しかし、そこでさて、考え込んだことがある。
〈それにしても、今までに覚えもないこの熱中。一体なんなんだろう?〉
 僕は確かに、この素朴で、憂わしい音色に引かれてギターを始めた。このたびはさらに、この音色を生かした和音や分散和音をよく聞きながら励んで、この多彩な六弦の協力のようなものにまた新たな良さを見つけられたような気もする。「なるほど、フラメンコダンサーがこの楽器を侍らせるわけだ!」とか、「ベートーベンが小さなオーケストラと呼んだ楽器だそうだが、わかるなー」とか、改めてつぶやいたりもした。しかしこれらだけなら、「感情の狂い」と診断されるまでには至らなかったと思うのだ。
 こういった自問自答の中から、ふっと浮かび上がってきた映像があった。母が八十歳近くまで三味線の発表会に出ていたときの、背中を丸めて小さく座ったその姿である。〈あれほど練習して、回りの人に四苦八苦でなんとかついていく。「生きなきゃー」って感じだなー〉と当時は見えたものだ。加えてもう一つの感慨、〈それにしても八十だ。いくつになっても「鑑賞」じゃ済まなくて、自分で「表現」して前進を確認していきたい人なんだなー〉。こんなふうに見えた昔の母と対照したとき、初めて今の自分が分かるような気がした。「時間さえかければ、まだまだなんとか」と、母を破壊し尽くしてきた老いの兆しを自分に見つけだしては、それを懸命に払い除けようとしているといった感じだろうか。それにしても、両手十本の指の速く、細かい動きから老いを払い除けて、「まだまだなんとか」を実証するのは、なかなかの骨だ。だから時間がどんどん飛んでゆく。それも七月に入ったころ全てテンポが遅すぎると気付いて、メトロノームのせめて八十ぐらいにはと改造作業が続いている、その真っただ中。さらに際限もなく時間が飛んで行き、挫折かさらなる前進か、こういった現在というようにも見える。
 これら全てが、母がいなくなったのと定年退職との前後のことなのだ。「感情の狂い」という連れ合いの診断はあながち的外れではないのかも知れない。そんな彼女が最近はこう宣告する。「ギターなんて細かい動き、そんなことすぐ進まなくなるよ。悲嘆に暮れてる貴方が見えるようだ」。それを聞いた僕、今度は一曲終えるごとにそれをテープに残し始めた。その時初めて意識したことだが、〈そう言えば、母自身の三味線稽古テープも十本くらいはあったかなー〉。

 リタイヤーに備えたもう一つの「表現活動」は、所属同人誌の文章創作だった。こちらは当初、僕にとっては全く未経験の白紙分野、この十年かけて準備してきたものである。これにちなんでも当然、母との想い出は多い。真っ先に浮かんだのはこんな場面だ。
 広島の江田島から原爆を見た後、僕ら家族は父だけを彼の職場に残して、母の故郷へ疎開した。僕の四歳の時、故郷とは渥美半島の田原である。三軒家と呼ばれたど田舎の森の中の家、裸電球の下、七歳と五歳(もうちょっと後だったかも知れないが、その後数年で名古屋に来たから、いずれにせよそんなころからのことだ)の少年が二人、ちょこんと座って母の読み聞かせにぽろぽろ涙をこぼしている。読まれた本は「小公子」、「小公女」とか「家なき子」とか、僕の文字、読書に関わる原風景で、年下が僕である。
 その後小学生の間、なぜか読書から遠ざかって年齢より三歳くらいは幼いような文章しか書けなかった僕を、この原風景に押し戻してくれたのが、また母だった。中学生の頃、日記を書く習慣を励ましてくれた。この習慣は、とぎれとぎれではあっても、基本的には今現在まで続いている。漫画でない読書の習慣が現れたのは他人よりも遥かに遅くて中学生後半だが、子どもの本は母が最も出費を惜しまない買い物の筆頭だった。
 僕自身のいままでの文章生活がこんなだったから、母の関与がどれか一つでも欠けていれば、やがて五十を越えて同人誌活動に加わるなどということは、まずなかったろう。これらも、この数年に母とのことを振り返ってみて、初めて気付いたことだ。親とは損なものである。ちなみに悪い親ならば、得しちゃったということも多いのだろうか。
 なお、僕の作品をこの世で最も熱をこめて読んでいたのが、発病前までのこの母だった。これは断言できる。僕の作品のみならず、僕の同人誌の全作品をなめるように読んでいたと思う。彼女がことさらそう報告したわけではなく、日常会話の話の端々にそのナメテイル様子がうかがわれて、驚くことがあった。気に入った同人の、性別、年齢、時には名前まで出てくることがあったのだ。

 リタイヤー生活に備えたもう一つの活動は、スポーツである。これも母と似て、「鑑賞」だけでなく「表現」であって、ここ五年ほどは年齢相応にランニングとスポーツサイクリングという有酸素運動の形で、現在の日常生活の中に残っている。ランニングはジムに週二回ほど通う。なんとか十キロ走って、最大五百メートルほど泳いで一回分、僕が泳ぐのは走り続けるためだ。自転車は一人でまたは仲間たちと、月に一、二日、三十キロから百キロほどロードレーサーをころがす。こういう僕のスポーツ活動にも母が関わってくるが、今度は「敵」、反面教師としての関わりである。
 四人兄弟のなかで、兄も弟も僕の記憶に間違いなければ、高校の時いったん入ったクラブを間もなく止めさせられている。確かそれぞれボート部と卓球部のはずだ。こんなに時間を取るのでは学業に障りがあるからということらしい。妹は卓球部をずっと許されたが、女だからということだろうと僕は解釈した。これも何か両親らしい。両親と言ってもこの場合、主導したのは父だ。母は消極的に父に賛成した。庇ってくれたこともあったから、そう感じた。確かめたわけではないが、まず間違いないだろう。
 さて僕の場合、山場では夜毎にけんかである。父の手が出たことも一度ではないといった、激しいけんかだった。そんな時の母は、僕と父との周辺を心配そうにただうろうろしていた。結局僕は、バレーボールを三年間守り通して、大学でも一年でレギュラーになった。その年、愛知の大学バレーボールリーグ一部中位に属するけっして弱くはないチームで。こうして当時の僕にとってバレーボールは、家からの『自立』であったと同時に、大きな誇りにもなった。ただそんな僕もスポ-ツを、今理解するような意味において捉えることはできていなかった。奇妙な表現だけれど、僕の頭の中では、僕の感情や行動におけるほどにはバレーボールを大切なものと意識してはいなかったのである。すごく好きだったし、行動上の熱中度も周囲の他の誰にも負けないという自信があったのだけれど、意識の上では当時それを、僕にとって数少ない「面白いこと」の一つと観ていただけだった。今だったらこんなスポーツ観を付け加えることができる。


(あと2回続きます)



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