九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

ニシノジャパン(38)やはり醜いポーランド戦  文科系

2018年08月12日 03時18分33秒 | スポーツ
ポーランド戦の「敗北による勝ち抜け狙い」に、やはり一言。

この問題についてその後、多くの専門家らの意見を読んでみたが、「当然」とばかりに賛成している人がほとんどで、それが気になって仕方なかった。言うならば、日本人らしい「専門馬鹿ばかり」と思えたものだ。つまり、思考、判断の領域が狭い。どのようにそうなのか? 一言で言えば「勝ち抜け至上主義」に偏っていて、スポーツにおける最も大切な物を見ることができていない。その最も大切なモノこそ、スポーツを人類文化(活動)たらしめている要素なのだと思う。

 さて、端的に問うてみたい。スポーツは勝ち抜けが全てなのか? 違うと思う。少なくとも勝ち抜けと同じほど大切なものがあるのだが、ポーランド戦ではそれが全く無視されてしまったと、そこを僕は強調したい。(チーム・スポーツ・ゲームの)勝利目指して人として最大限のプレーを行い、個人・組織の極限の力をだすという本質的側面が無視されてしまった。日本人が苦手な文化活動としてのスポーツということをこそ、ここで僕は強調したいのである。このゲームも勝つことによって勝ち抜けをも目指すべきだったのだと、その結果たとえゲームに負けて勝ち抜けに失敗することがあったとしても、そうすべきだったのだと、僕は強調したい。
 現に、あのゲームの観客が、途中で続々と帰って行く様がテレビで映し出されていた。「勝ち抜けのために、このゲームは敗退選択」ということによって、スポーツ自身を放棄し、これを観たい人を無視したのである。勝ち抜けにだけ拘る人々はテレビを観ていた世界の人人でも圧倒的に少なかったはずであって、そういう人々こそが、勝ち抜けではなく、スポーツを求めている人々なのだろう。他方、賛成した人々はやはり、スポーツを文化としてみないで勝ち抜けだけを見る人だったのではないか。特に多くの批判が西欧先進国から上がっていたのも、スポーツを人類の文化と見る観点からだったはずだ。


 ここでさらに一言追加をしたい。勝ち抜けだけに拘り過ぎる風習は、長い目で観ればそのスポーツ自身をダメにしていくのではないか。
「合法なものであっても、反則は見苦しい」
「ネイマールのダイブは見苦しい」
「一生反則をしなかったリネカーは、とても立派だ」
 米大陸流プロスポーツ主義が勝敗こそ全てという風習を作って、スポーツを汚してきたのではないか? 日本人は近代ポーツ発生時のアマチュアリズムをもう一度思い出すべきではないだろうか。レスリング、アメリカンフットボール、アマチュアボクシング、チアリーディング、相撲、柔道、バドミントン、などなど大変な構造的不祥事と思われるものが多発しているだけに、こういう論議が今改めてこの国で大切になっているのではないか。
『勝敗だけに拘りすぎると、スポーツはどんどん醜いモノになっていく』
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする