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13人死刑という、その国家を考える   文科系

2018年08月10日 15時07分40秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 まず最初にこのことを言っておきたい。13人死刑と「お手軽に」死刑を実施している日本は、先進国世界で全く珍しい国である。死刑制度を否定する国のその理由がどういうもので、日本はなぜ肯定しているのか。そして、肯定すると大変な弊害が生じて来ると僕は考えるが、併せてそのことをこそ論じてみたい。以下の資料は、最近の中日新聞記事二つから取った。


 まず、この2017年現在、OECD、経済協力開発機構加盟の先進36国で、死刑を実施しているのは日米だけである。また、死刑制度存続56か国に対して、全面禁止105か国、10年以上の執行停止29か国だ。実施国にはイスラム教国や社会主義国などが多い。という事実を前にした時、当然ながら日米は特殊な国だとなる。「国家がその主人公である主権者の命を抹殺することができる」という意味において。

 先ず、廃止した国のその理由の主なところはこういうことだろう。『死刑は残酷かつ非人道的で、侮辱的な刑罰。誤審の可能性もある』(ローマ法王フランシスコ)、『重大な罪を犯しても人間の尊厳は奪えない』。これらは、世界に影響力を持つキリスト教カトリックが新たに表明した考え方だ。
 法学者では例えば、宇野重規東大教授はこう語る。
『私人はもちろん国家もまた死刑に対する正統な権力を持たないという考え方の広がりは、民主主義発展の指標でもあった』
『はたして国家は死刑を行う正統な権限を持っているか、・・・・民主主義国家において権力が個人を殺す正統な権限を持つとは考えていない。被害者の権利をより重視すべきだとの声があり、それ自体は正しいと判断するが、そのことは国家の死刑への権利を正当化するとは考えない。報復という私刑的発想はまして評価できない』
 
人間の命、尊厳はかけがえ無く大切なもので、いやしくも民主主義国家という国が、その主権者の命を奪う権限など無いということだろう。こうして死刑制度には当然、主権者と国家の関係をどう理解するかという重大な問題がまた、含まれている。たとえば、国家が主権者よりも大きい何かだというような。この何かが、イスラム教であったり、社会主義理念であったり、被害者感情、報復を代執行できる存在であったりするのではないか。


 さて、国が13人も殺したのは、明治末の大逆事件以来だそうだ。そんなことを、民主主義国家になって70年という日本国が初めて敢行した。ところが、そういう異例な死刑執行という感覚、認識が今の日本政府に一片も見られなかったのは、どうしたことだろうか。7月6日の7人執行の前夜には、執行命令に判を押したばかりの上川法相は安倍首相と同席の自民党若手宴会で盛り上がっていたのである。人間、命の尊厳などどこ吹く風というあまりにも軽すぎる態度ではないか。この軽さを見ると、こういう国家は「主権者の上に立ち、これを支配していく存在」にどんどんなりつつあると、僕は恐れる。主権者よりも強い国家とは、全体主義国ということではないか。国家の死刑廃止は、民主主義の進展と共に広がってきたという世界史的事実を思い出すのである。


 このエントリー内容に関連して、7月15日と23日の拙稿もお読み願えれば嬉しいです。
コメント (6)
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