九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

         かって関西連合と異口同音の集団があった      只今

2012年06月03日 19時00分36秒 | Weblog
        関西首長連合の「再稼働容認」は、多くの善意の人のこんな呟きを引き出しています。
        ‘責任ある立場にあると、やはり認めるしかないんだよな’

      ●そこで思い出したのは、
       チェルノブイリ事故発生直後のこと。
      原発の危険性を告発した広瀬隆著『危険な話』が大きな話題となり、
      これに対して電事連は『デタラメだらけの〈危険な話〉』と題するパンフレットを大量に散布。
                    
      ●しかし
      =しかしこの「ヒロセタカシ現象」にとどめを刺したのは、
       共産党系といわれる日本科学者会議だった= 中村政雄著『原子力と報道』(中公新書)  
            
      =原子力推進側の学者、役人が苦々しく思いながらも何も出来なかったことを、
       非体制側の学者グループがやってのけた=吉岡斉著『原子力の社会史』(朝日新聞出版)

    
      ●では科学者会議原子力問題研究会は、原発にどう対処したのか。
      =原子力そのものの開発、平和利用を、核兵器と同列に置き、全面的に禁止すべきである 
       というような〈反科学〉の立場をとるべきではない=『赤旗』1978年8/11付 
   
          ★こうして、故高木仁三郎、小出祐章、そして原子力資料情報室の皆さんは、  
           左右を問わず、日本原子力研究者の世界から村八分された。
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言葉だけ世界への自戒  文科系

2012年06月03日 12時04分11秒 | その他

 言葉だけの世界って、難しい。ましてや、見ず知らずの関係のままの人々が言葉だけで自分をもさらけ出しつつ話そうとするブログのような所は、特に難しいと思う。反論・再反論、批判・反批判と続いていけば、誰でも嫌でも自ずから自分をさらけ出していくことになるのである。自己評価のようなもの絡みの喜怒哀楽も伴わざるをえぬせいか、言葉がどんどん過激にエスカレートしていく場合も多いようだ。
 かと言って、喜怒哀楽が伴わない言葉だけの世界は、僕で言えば実がないような気もして、さっぱり面白くない。特に日本人の政治論などは、慇懃無礼な官僚世界と大差ないものに感じられてならないのである。抽象的活動家、30年近く使用してきた僕の造語だ。家庭内民主主義がない自称「民主主義者」のような者だと言ったらよいだろうか。言葉だけの世界では、民主主義者と「民主主義者」のこの区別も付きはしない。よって後者が前者に民主主義をお説教するなどということも日常茶飯に起こっているのではないだろうか。そんな事実を良く見知っていると、言葉だけの世界なんて幻滅することも多いのだ。

 面と向かいあったコミュニケーションでは、言葉自身の果たす効果的役割は5割以下に過ぎないそうだ。口調、全身表情、相手との歴史・間柄などが果たす役割が意外に大きいということだろう。コミュニケーションの武器を5割以上も持参し忘れた討論場! 外国人と話すようなモノだと思っておいた方が良いのかも知れない。が、なんせ常時エントリーを書いて来るほどの人ならば言葉遣いには一応自信もあるのだろうし、言葉だけ世界でも意は伝わると思いがちと、そういう自戒を自分にも、相手に対する場合にもしておいた方が良いのだろう。

 また、こんなすれちがい、過剰反応または過小反応などもあるはずだ。各人の話にはその世界観、そういう構造があって、そのどこかをその時々いはば無意識に「ポンという感じで出してくる」わけだが、聞く方はその話、命題が相手の構造のどのステージのものかなんて全く分からない。
 比較的大きくない批判をとても大きな話と捉えて反批判する場合もあろう。この場合は反批判された方とした方と、一方は軽く他方は重くという扱いの違いから、諍いすら起こりうるだろう。
 他方、その人にとってもの凄く大きい話をどうでもよい話と扱うのは問題は起こらないが、相手を励ますことにはけっしてならないはずだ。普通の世間であれば、何年も付き合ってきた相手になら多少はその気分にも配慮するであろうに、つれない世界ではある。ここが自分の晩年にそれなりのエネルギーを使おうとしている1ステージとしたら、このつれなさは大きな悲しみ、寂しさも伴ってくる。ここでもやはり面談であれば「これは、相手の相当な覚悟も伴ってきた重要な話だな」という感触も受けるのだが、言葉だけからはそんなモノは伝わりにくいのだし。
 まーお互い面識はないのだが長いつきあいなのだし、大切な晩年のそれなりのエネルギーをお互い費やし合っている場所なのだし、もう少し友人らしく対してもよいのではないかと、ちょっと反省している。
コメント (2)
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