長谷川素逝は、昭和12年に召集、砲兵隊の小隊長として
中国戦線で戦ってきました。
しかし昭和13年8月、結核発病。
10月帰国。広島の陸軍病院入院。(広島は軍都だったんですね。)
11月には、京都の陸軍病院へ。
「駅頭」という前書き。
霙にならぶ国防婦人会員ら
傷兵ら還る霙にもの言わず
還り著きし霙の街の灯はにぎやか
ねんねこの女傷兵のなかをさがす
14年、戦場での句を集めた句集「砲車」刊行。
代表作とされるのが、この句。
おほ君のみ楯と月によこたはる
素逝は、甲南高校の教授となりますが、
以後、闘病生活を送り、自然諷詠の句に戻っていきます。
代表作は敗戦後の昭和21年1月、伊勢で詠んだ句。
円光を著(き)て鴛鴦の目をつむり
この年の秋に亡くなります。39歳。
敗戦後は「砲車」の代表作とされる
おほ君のみ楯と月によこたはる
を、
おほ君のみ楯と月にあほらしや
と、変えて詠ったといいます。
「砲車」という句集の評価は?
「反戦句集」とする考えもあり、評価は分かれているそうです。
大東亜戦争を賛美した句もありますから、
反戦句集とは言えないと思います。
ただ、単なる戦争を賛美した句集に終っていないことも事実です。
その理由の一つは、師の高浜虚子が唱えた「客観写生」という
手法にあるのでは、ないでしょうか?
心情を排して、戦争という対象から一歩距離を置く。
目前の事実を客観的に写し取る。ルポルタージュの手法です。
駅頭の句も、討伐行の句もそうした客観的な目が生み出した句です。
かをりやんの中よりわれをねらいしたま
かをりやんの中よりひかれ来し漢
てむかしゆゑ炎天に撲ちたふされ
汗と泥にまみれ敵意の目を伏せず
これが「砲車」が今でも新鮮さを失わない秘密ではないしょうか?
津市・阿漕浦の句碑。
遠花火海のかなたにふと消えぬ 素逝
(「長谷川素逝 円光の生涯」(うさみとしお著)を参考にしました。)
中国戦線で戦ってきました。
しかし昭和13年8月、結核発病。
10月帰国。広島の陸軍病院入院。(広島は軍都だったんですね。)
11月には、京都の陸軍病院へ。
「駅頭」という前書き。
霙にならぶ国防婦人会員ら
傷兵ら還る霙にもの言わず
還り著きし霙の街の灯はにぎやか
ねんねこの女傷兵のなかをさがす
14年、戦場での句を集めた句集「砲車」刊行。
代表作とされるのが、この句。
おほ君のみ楯と月によこたはる
素逝は、甲南高校の教授となりますが、
以後、闘病生活を送り、自然諷詠の句に戻っていきます。
代表作は敗戦後の昭和21年1月、伊勢で詠んだ句。
円光を著(き)て鴛鴦の目をつむり
この年の秋に亡くなります。39歳。
敗戦後は「砲車」の代表作とされる
おほ君のみ楯と月によこたはる
を、
おほ君のみ楯と月にあほらしや
と、変えて詠ったといいます。
「砲車」という句集の評価は?
「反戦句集」とする考えもあり、評価は分かれているそうです。
大東亜戦争を賛美した句もありますから、
反戦句集とは言えないと思います。
ただ、単なる戦争を賛美した句集に終っていないことも事実です。
その理由の一つは、師の高浜虚子が唱えた「客観写生」という
手法にあるのでは、ないでしょうか?
心情を排して、戦争という対象から一歩距離を置く。
目前の事実を客観的に写し取る。ルポルタージュの手法です。
駅頭の句も、討伐行の句もそうした客観的な目が生み出した句です。
かをりやんの中よりわれをねらいしたま
かをりやんの中よりひかれ来し漢
てむかしゆゑ炎天に撲ちたふされ
汗と泥にまみれ敵意の目を伏せず
これが「砲車」が今でも新鮮さを失わない秘密ではないしょうか?
津市・阿漕浦の句碑。
遠花火海のかなたにふと消えぬ 素逝
(「長谷川素逝 円光の生涯」(うさみとしお著)を参考にしました。)