昭和11年(1936年)翌2月27日の紙面
「帝都に青年将校の襲撃事件」
(紙面最上段通しに、この横書きの大見出し。この活字のサイズが何号かは知らないが、とてつもなく大きい。その下に、2段組で以下の縦見出しが紙面を飾る。紙面全体に大活字だけが踊る構成である。見出しだらけの紙面である。文章はほんのわずかである)
「斉藤内府、渡辺教育総監」「岡田首相ら即死」(岡田首相即死は誤報。後日判明したが、事実は、良く似た甥が射殺されていた)
「第一師団管下に」
「戦時警備下令さる」
「後藤内務大臣」
「総理大臣臨時代理に」
「第4師管下は平穏」
「大阪は何ら異常なし」
「軍隊一部を出動」
「治安維持に任ず」
「香椎東京警備司令官の告諭」
「第一艦隊回航」
「東京湾警備」
*当時、陸軍内部では皇道派と統制派の対立・反目が深まっていた。統制派の領袖陸軍省軍務局長永田鉄山少将を皇道派の相沢中佐が惨殺するという事件も起こっていた。この事件は、皇道派の影響を受けていた青年将校が、昭和維新をスローガンに、政党政治の腐敗、農村不況を打破するため、天皇親政の確立、彼等の云う革新政治の実行を狙って、起こした事件である。彼等の決起趣意書には「吾は維新回天の捨て石ならん」とあったが、決起後の政治的プログラムをまったく持たないクーデターであった。
*統制派は軍備の近代化、航空機・戦車の配備を重視するとともに、合法的に政府に圧力を加えて、軍部の発言力を高めていこうとしていた。参謀本部と陸軍省の幕僚将校、つまり陸軍官僚の主力が統制派であった。それに対し、皇道派は、日本の不況、特に農村の悲惨な状況、その一方での政党政治の腐敗に対し、日本をダメにしたのは財閥・政党・官僚、それと結託している陸軍内部の統制派であると考えていた。同時に反ソ・反共の思想的傾向も強く持っていた。国家改造運動を進め、天皇親政の政権樹立を唱えていた。彼等はそれを昭和維新と称していた。
*重臣を殺害しこれを正当化する反乱将校に激怒した天皇は、陸軍首脳が取ろうした灰色決着を許さず、武力鎮圧を強固に命じた。陸軍首脳は「皇軍相撃を避ける」という基本方針のもと、原隊へ戻す説得をしようとしていたが。
『朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ 於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ』、『朕自ラ近衛師団ヲ率ヰ此レガ鎮定に当タラン』、という天皇の発言に、軍首脳は翌27日戒厳令を出し、反乱軍に対し次のような投降呼びかけビラが飛行機から撒かれた。
「下士官兵ニ告グ
一 今カラデモオソクナイカラ原隊ヘ帰レ
一 抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
一 オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ」
*これほどの大事件であったのに、当時の新聞では、それが今後の政治に対し与える影響の予測とか歴史的意義についての解説は絶無である。おそらくは「発禁」を恐れてのことではあろうが、残念である。
3月22日に朝日新聞は1ページ余を使って、「二・二六事件の大観」という特集記事を載せるが、これとて、各高官の襲撃場面とか、家人の証言などを載せているだけである。当時の記者諸君の率直な感想を知りたかったのだが。それとも当時の新聞は、事実をそのまま伝えるのみでよしとする編集方針であったのであろうか。そういえば、社説とか解説記事は当時の新聞には見当たらない。
*陸軍首脳は、この事件を軍部の政治的発言力の強化に利用していく。次の内閣首班に近衛文麿が指名されたが、その組閣人事に陸軍は抵抗し、陸軍大臣を出さないという強硬手段で、近衛内閣を組閣前に潰し、より軍部よりの広田弘毅内閣が成立することになった。2.26事件は、陸軍首脳によって、軍部独裁政権樹立の1里塚として利用されていくのであった。この一連の歴史が、その後の日本に与えた影響は計り知れないものがある。
「帝都に青年将校の襲撃事件」
(紙面最上段通しに、この横書きの大見出し。この活字のサイズが何号かは知らないが、とてつもなく大きい。その下に、2段組で以下の縦見出しが紙面を飾る。紙面全体に大活字だけが踊る構成である。見出しだらけの紙面である。文章はほんのわずかである)
「斉藤内府、渡辺教育総監」「岡田首相ら即死」(岡田首相即死は誤報。後日判明したが、事実は、良く似た甥が射殺されていた)
「第一師団管下に」
「戦時警備下令さる」
「後藤内務大臣」
「総理大臣臨時代理に」
「第4師管下は平穏」
「大阪は何ら異常なし」
「軍隊一部を出動」
「治安維持に任ず」
「香椎東京警備司令官の告諭」
「第一艦隊回航」
「東京湾警備」
*当時、陸軍内部では皇道派と統制派の対立・反目が深まっていた。統制派の領袖陸軍省軍務局長永田鉄山少将を皇道派の相沢中佐が惨殺するという事件も起こっていた。この事件は、皇道派の影響を受けていた青年将校が、昭和維新をスローガンに、政党政治の腐敗、農村不況を打破するため、天皇親政の確立、彼等の云う革新政治の実行を狙って、起こした事件である。彼等の決起趣意書には「吾は維新回天の捨て石ならん」とあったが、決起後の政治的プログラムをまったく持たないクーデターであった。
*統制派は軍備の近代化、航空機・戦車の配備を重視するとともに、合法的に政府に圧力を加えて、軍部の発言力を高めていこうとしていた。参謀本部と陸軍省の幕僚将校、つまり陸軍官僚の主力が統制派であった。それに対し、皇道派は、日本の不況、特に農村の悲惨な状況、その一方での政党政治の腐敗に対し、日本をダメにしたのは財閥・政党・官僚、それと結託している陸軍内部の統制派であると考えていた。同時に反ソ・反共の思想的傾向も強く持っていた。国家改造運動を進め、天皇親政の政権樹立を唱えていた。彼等はそれを昭和維新と称していた。
*重臣を殺害しこれを正当化する反乱将校に激怒した天皇は、陸軍首脳が取ろうした灰色決着を許さず、武力鎮圧を強固に命じた。陸軍首脳は「皇軍相撃を避ける」という基本方針のもと、原隊へ戻す説得をしようとしていたが。
『朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ 於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ』、『朕自ラ近衛師団ヲ率ヰ此レガ鎮定に当タラン』、という天皇の発言に、軍首脳は翌27日戒厳令を出し、反乱軍に対し次のような投降呼びかけビラが飛行機から撒かれた。
「下士官兵ニ告グ
一 今カラデモオソクナイカラ原隊ヘ帰レ
一 抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
一 オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ」
*これほどの大事件であったのに、当時の新聞では、それが今後の政治に対し与える影響の予測とか歴史的意義についての解説は絶無である。おそらくは「発禁」を恐れてのことではあろうが、残念である。
3月22日に朝日新聞は1ページ余を使って、「二・二六事件の大観」という特集記事を載せるが、これとて、各高官の襲撃場面とか、家人の証言などを載せているだけである。当時の記者諸君の率直な感想を知りたかったのだが。それとも当時の新聞は、事実をそのまま伝えるのみでよしとする編集方針であったのであろうか。そういえば、社説とか解説記事は当時の新聞には見当たらない。
*陸軍首脳は、この事件を軍部の政治的発言力の強化に利用していく。次の内閣首班に近衛文麿が指名されたが、その組閣人事に陸軍は抵抗し、陸軍大臣を出さないという強硬手段で、近衛内閣を組閣前に潰し、より軍部よりの広田弘毅内閣が成立することになった。2.26事件は、陸軍首脳によって、軍部独裁政権樹立の1里塚として利用されていくのであった。この一連の歴史が、その後の日本に与えた影響は計り知れないものがある。