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「私の戦争体験記」 空襲の記憶①       77歳 爺老

2006年10月26日 18時55分39秒 | Weblog
 中学三年生になつて、熱田区の工場へ勤労動員され、空襲に会って帰宅する途中死傷した人達の血で埋立地の水溜りが真っ赤になっていたことは前回お話しました。
 今回は私の家族が運の悪い事に二度も空襲に会った事をお話しします。

 名古屋の空襲が激しくなり、大曽根の三菱エンジン工場などが爆撃され、その後三日間北区西区などが空襲を受けました。
 その空襲で、爆撃が終わったB29が帰路、残りの爆弾を捨てていったのが運悪く私の家に命中し家は全壊してしまいました。しかし 私の特技で掘った防空壕のお蔭で、家族は幸い無事でした。 防空壕の出入り口の蓋は土で埋まり空気抜きの土管は地上スレスレできれいに切断されていました。
 その後数日間、父母は放心状態で何も手につかない様子でした。
 その後どこの人かも知れない人も加わり、爆弾の作った穴に吸い込まれた家財を(爆発の時の気圧の変化で何もかも吸い込んでしまう)掘り出しました。私も掘り出すのを手伝ったのですが、思い出の物が次々と土の中から現れるので、丁寧に土を払ったりして仕事が進みませんでした。出て来た物には、コードの繋がったラジオ(国民一号)・脚の折れたお釈迦様の誕生佛・赤土まみれの分厚い辞書。 そして掘り出した良い物はかなり手伝った人が持って行きました。
 また、その年の正月に遊んだカルタ類、天高く飛び散った百人一首が東側の林の中から沢山見つかりました。
 家が全壊したので、私は母の里であった東区の主税町に身をよせていました。私はそこから工場に通っていました。しかし、工場はエンジンが作れなくなっていたので、製品が出荷出来ず、掃除ばかりしていたので、罹災した私はしばらく工場を休むことが出来ました。
 そんな訳で、爆撃でやられた現場へ何日も通って残った家財を掘り出しました。しかしそれも馬車に乗せ中区にある家に運んだのですが、その夜の空襲でまた車ごと焼けてしまいました。
       
    
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知的世界に遊ぶ 長江古代文明の発見   飛天

2006年10月26日 13時08分48秒 | Weblog
 古代文明が発生したのは、ナイル河流域のエジプト、チグリス・ユーフラテス河流域のオリエント、インダス河流域のインド、黄河流域の中国で、四大文明発生地なのだと世界史の授業で学んだ。
 しかし、長江流域では何故古代文明が発生しなかったのかと、かねがね疑問に思っていた私は、中日新聞で良渚遺跡(りょうしょ、何年何月何日の記事かは忘れた。その内容については後述)の記事を読んで、やはり長江流域に古代文明があったのだと嬉しくなった。

 それゆえ、三星堆展が1998年に名古屋を通りこして、東京・京都で開催された時、いち早く京都博物館に駆けつけのだ。この展示は衝撃的であった。今までの中国古代文明についての知識をくつがえす異様な青銅器の数々に圧倒されたのである。後に成都郊外の遺跡そばに作られた三星堆博物館(ひとつの遺跡出土の博物館でこれほど立派なものは世界にも例がない)を訪れたときにも、その展示物の豊富さと異様さにますます圧倒された。
 高さ4mの巨大な神樹、幅138m、高さ65cmの「縦目仮面」などの豊富な青銅製品などなど、同時期の黄河文明・殷文化には見られない巨大な青銅器群なのである。しかもその異様さは驚くばかりであった。発掘調査によると、南北2000m×東西2100mの城壁と環濠に囲まれた、とてつもない巨大都市国家が約3600年前、殷と同じ時代に存在していたのだ。
 長江流域に古代文明があるはずがないという思い込みから脱却して、調査・発掘を続けた中国考古学者たちは続々と遺跡を発見していった。文部省補助金と京セラの援助金による、日中共同による四川省宝潡(ほうとん)遺跡と湖南省城頭山遺跡の発掘も大きな成果を挙げた。

 沢山発見された遺跡のなかでも、前記良渚遺跡は重要である。中国最古の王朝殷の時代よりも千数百年以前の浙江省で発見された、まだ金属の使用を知らない新石器晩期の文化である。この遺跡からは、大量の玉器が発掘された。その作成技術はきわめて高く精緻をきわめている。
 この良渚文化が黄河文明に与えた影響は大きいようである。その最大のものが玉器尊重の思想であろう。そのなかでも、玉璧は殷・周でもきわめて尊重され、秦の始皇帝が和氏の玉璧を10数城と交換してでも手にいれようとした歴史事実がある。玉鉞(えつ)は殷・周では青銅器で作られるようになり、王権・軍事統率権の象徴として、戦場に臨む国王が手に掲げるようになった。さらには殷の青銅器に描かれている文様「トウテツ」文は良渚の玉器に描かれた恐怖の目玉を持つ精緻な文様が受け継がれているのだ。
 さらに、鼎(三本足のかなえ)・壺・豆(ズ、高杯のこと)の土器の3点セットが殷以降の中国土器の伝統になる。鼎は殷時代には大型青銅器でも作られ、王権の象徴とされるようになる。高度な絹織物、漆器は黄河文明を越えて中国の特産物として受け継がれていくことになる。

 遺跡ごとに触れていくと紙面はいくらあっても足らないので、現在判明している重要な内容を箇条書き風に列挙していこう。
 
1.それまでの定説では雲南地方で数千年前に開始されたとされてきた稲作が、1万4千年前に稲作が長江流域で開始されていたのだ。黄河流域に先立つことはあきらかであり、約1万2千年前のイスラエルジェリコ遺跡が世界最古の農耕とされてきたが、それを約2千年以上もさかのぼっているのである。

2.日本への稲作の伝来は朝鮮経由説と中国南部経由説の2説あったが、いずれも否定され、長江流域から直接日本に伝来したと断定できる。しかも、縄文晩期の日本の各地で発見された籾は、長江流域の河姆渡遺跡で大量に発見された籾と同一種熱帯ジャポニカ種で、DNA分析でも同一種であった。

3.土器の使用もメソポミヤ地方より4千年以上も古く、1万4千年前に長江流域では使用している。縄文土器の使用が1万年少し前に始まっているが、それよりはるかに古い。最近のニュースによると1万8千年前の土器が見つかったと報じているが、これはまだ確定とは言えない。

4.文明誕生一元説(農耕はメソポタミヤに始まり最古の年文明を生み出し、その文明がエジプト、インダスへ波及し、さらに黄河流域にも及んだとする)は完全に否定された。文明誕生多元説が正しい。

5.彭(ホウ)頭(トウ)山遺跡に示されるように、黄河流域の環濠集落(西安郊外の半坡遺跡の成立は6千年前)の成立より約2千年前にすでに長江流域では環濠集落が成立していた。

6.都市文明の成立も黄河流域よりはるかに早い。中国の最古の王朝である夏王朝(二里頭遺跡? 現在、中国ではプロジェクト・チームを編成して夏王朝の実在を論証しようとしている)、この二里頭遺跡が最古の都市文明と言えようが、それよりも約1千年前に良渚文化が長江流域で成立している。

7.夏文化は良渚文化の影響のもとに成立したと推定される。定説とは言えないが。その論拠はすでに一部述べてある。

 このように、中国文明史のみならず、世界文明史の書き換えを迫る大発見がこの長江文明の発見なのである。ところが、日本における考古学会やマスコミ取り扱いはきわめて冷淡である。したがって、このよう画期的な大発見が中国でおこなわれ、今も続々と新しい遺跡の発掘・調査が進行していることに、日本国民は気づいていない。
 それには様々な要因があるが、その一つは、日本の考古学界がF氏による旧石器の偽造問題からの完全にはまだ立ち直っていない、ということも影響していると私は思っている。二つ目に、日中共同発掘を進めた日本の学者が考古学者でなかったことが影響していると私は思っている。京都大学出身のもともと哲学者であった梅原猛氏が日本代表となり、直接発掘・調査にあたった安田喜憲氏はもともと地中海文明史の専門家である。考古学の専門学者ではなかった。専門学者のセクト主義、ねたみなどが、その背景にあるような気がしている。私の勝手な想像だが。勿論考古学者が全部そうだというのではない。橿原考古学研究所所長の樋口隆康氏は一貫してこの長江文明について理解を示しているし、私の尊敬している複数の考古学者もおそらく樋口氏と同じ見解であろうと思う。
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