「歴史は当時の人々の熱い想いからしか解釈しえない。単なる史実の羅列ではない」
この短い文言はこのブログのなかでも2・3回引用されているので、皆さんの記憶にも残っていることと思う。小堀圭一郎氏がある論文の中で使用した語句だそうであるが、その論文を私は目にしたことはない。しかし、しばしば彼らの論文に使われているので、この語句は私の印象にも強く残っている。
さすがに文学評論家の小堀氏の造語だけに、きわめて文学的で一見正しい名文のように見える。しかし、そんなものではないのだ。はっはり言えば、極めて悪意に満ちた文章である。意図的に歴史学を矮小化して攻撃しているのだ。
どういう文脈のなかで使われたのか知らないが、「歴史」は「単なる史実の羅列ではない」という語句は、ここでは歴史学全般を指して批判していると受け止めよう。歴史学が「単なる事実の羅列」ではないことを筆者は、よく承知しているはずだ。そんな歴史学はありえないことも承知しているはずだ。そのうえでのこの表現である。史料を丹念に分析して客観的に史実を明らかにしていく歴史学の立場を彼は否定したいのだ。それは彼の「歴史解釈権」の立場を否定しているからである。この点をきちんと説明していく長くなるので省略する。
ただ、私が歴史学に興味を持つようになったきっかけについて触れておきたい。古典的名著とされる石母田正の「中世的世界の形成」を読んだときの感動を私は忘れることができない。東大寺正倉院所蔵の荘園関連文書を克明に分析して、伊賀の黒田の荘のなかで、在地の土豪が武士に成長していく過程を明らかにした名著である。次の時代の担い手である武士の形成過程をリアルに描いた名著である。戦中・戦後の苦しい生活のなかで、コツコツとこれだけの研究を続けていたという彼の学究的姿勢が感動をさらに大きくしたのだとは思うが。
「当時の人々の熱い思い」と関連しては、具体的に事例を取り上げたほうが分かりやす
い。一つの歴史的事例を挙げて考えよう。9.11の同時テロの後、アメリカ人の間に、テロ行為に対する怒りが燃え上がり、テロ撲滅を叫ぶブッシュの支持率は高騰した。イラク戦争を支持するアメリカ国民の世論は圧倒的だった。下院では一人の女性議員を除いてこの戦争を支持した。
このアメリカ国民の「熱い想い」からイラク戦争をどのように「解釈」するのか、と問い掛けたら「歴史解釈権」の立場に立つ彼らは、何と答えるであろうか。見ものである。「イラク戦争を支持する国民の『熱い想い』が圧倒的だったのだから、イラク戦争は正義の戦いである」とでも返ってくるのだろうか。
こうした立場からは、開戦についてのアメリカ政府の挙げた理由が、偽造された資料に基づくものであった、また誤った分析に基づくものであったという歴史事実は無視されるであろう。さらには「熱き想い」そのものがどのようにして形成されたのかという客観的分析も必要なくなるであろう。「歴史解釈論」というのはそんな程度のものなのである。さらに言えば、その立場からの「解釈」は、史実を無視した「歴史の偽造」にしかならないのだ。
パターンNO.1 「批判対象を意図的に矮小化して攻撃する」「矮小化のレトリック」
次回以降の投稿でも、このように彼らの論理組み立ての特徴を類型化して整理していきたい。