九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

「胃癌」と宣告されないために へそ曲がり

2006年10月13日 22時50分23秒 | Weblog
 手術のための検査が終わり、2日ほど休みになったため、自宅へ戻ることが許可されました。
 宣告を受けると、こんな検査がありますよということををお知らせしながら、みなさんには、こんな体験をされないようにと願っています。

1 正式な病名:進行癌
 すべてについて隠さず知らせてほしいと告げていたことから、入院初日に上記のように通告を受けました。

2 事前検査について
 下記のようにおよそ2週間続けられました。目的は2つです。1つは、他の臓器に転移していないかを調べること、もう1つは、手術に耐え得るだけの体力があるかどうかを調べることです。 

3 入院後の経過
・ 10月02日・・・・入院。正式な病名と今後の検査日程を知らされる。
・ 10月03日・・・・入院時採血・心電図・レントゲンなど。
・ 10月04日・・・・胸部・全腹部CT:単純と造影。
・ 10月05日・・・・心臓エコー・負荷心電図。
・ 10月06日・・・・注腸造影。
・ 10月07日~10月09日・・・・祝日などのため検査なし。一時帰宅。
・ 10月10日・・・・胃十二指腸造影。
・ 10月11日・・・・肝臓MRI・腹部超音波検査。
・ 10月12日・・・・クレアチニンクリアランス(尿に関する検査)・肺機能検査。
・ 10月13日・・・・前日夕刻より帰宅許可あり。14日正午までに戻る予定。
・ 10月14日・・・・午後、検査結果の判定と手術の方針などについて、医師より報告される予定。
・ 10月15日・・・・手術へ向けての事前準備。
・ 10月16日・・・・AM10:30より全身麻酔による手術開始。
・ それ以後・・・・・・約1カ月の入院予定。当初より2週間ほど延びる。
  
 ※ その他、検温・血糖値検査などなど、毎日あり。

 ざっとこんな具合です。殆どの検査は短時間で終了するし、あまり負担を感じなかったのですが、11日の検査だけは参りました。
 息を20秒も止めることが何回も繰り返されるし、約2時間半の間、殆ど身動き出来ないという状況でした。そのせいかまたはその夜に寝違いをしたためか、腰痛になってしまいました。

 とにかく「胃癌」という宣告を受けると、これだけのことをしなければならないようです。

 こんな目に遭わないためにも、「胃カメラ」の検診を頻繁にされることをお薦めします。年に1回では「進行癌」の発見は困難と言われました。せめて半年に1回は必要とのことです。また現在では「大腸癌」の発生がとても多くなっているとも言われました。

 これから「癌」との戦闘が始まります。必ず勝って、このブログへ帰ってくるつもりでいます。みなさんのご健康を祈ります。では、再見!!  
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保守系論客の歴史欺瞞・偽造を切る その3       千里眼

2006年10月13日 04時39分58秒 | Weblog
 「この日本批判(満州国についての)の根底にあるのは、かつて満洲と呼ばれた土地は、当時(満州国建国時)もそれ以前も中国の一部であった、という考えであるが、これは歴史的に言って正しくない。これについて反論するときは、次のように言うのがよい」として、「現在、中華人民共和国の国土である満洲は、太古から中国であった、としなければ現政権の支配の正統性に疑問を表明することになる。だから、ローマ法王庁をはじめ、十五の国家が承認し、事実上承認した国を含めると二十三もの国家と関係があった満洲国を、中国では『偽満洲国』と呼ぶのである。これは中国側の事情にすぎない」 
「中国人人口がいかに増えても、満洲人やモンゴル人の土地に漢人農民が流入したのであって、中国政府が統治していた中国、という観念はあてはまらない」

 以上のように、満州の地が一度も「中国の一部」、つまり領土であったことはないとして、満州国建国の正当性を主張するのである。古代中国王朝以来、満州の地がどうなっていたのか次に示す。
 ・春秋・戦国時代の北方漢人国家の「燕」は現在の中国東北部遼寧省の主要部分を領土にしていた。
 ・秦は遼東半島を含む中国東北部遼寧省全域を支配下に置いていた。
 ・漢はさらに領土を拡大し、朝鮮北部にまで支配を伸ばして楽浪郡を置いた。北九州の日本の小国家が楽浪郡に使を出していたことが漢書地理誌に見える。
 ・三国時代の魏はさらに朝鮮南部に帯方郡を置いていた。日本の卑弥呼の時代である。
 ・元は満州全域を支配下においた。清も同様である。
 ・明は満州からさらに、黒竜江を越えて現在ロシア領の沿海州まで支配下に入れていた。
 元・清は蒙古人・満州族が作った王朝なので、中国の支配に満州が服していたとは言えないのだと著者は言いたいのだろう。それを除いても中国人の王朝の統治下に満州の地域がおかれていたことは、上記のとおりである。これが歴史の真実なのである。
 元・清が中国史のなかで歴代王朝の一つとして扱われていることは、中国史の常識である。征服王朝である元も清も、政治を担当する官僚は最高級のほんの一部を除き、その大半は漢民族が登用されていたことも周知の事実である。しかも蒙古民族の約半分と満州系民族のほとんどすべては、現在中国国民となっているのである。

 「中国人人口がいかに増えても、満洲人やモンゴル人の土地に漢人農民が流入したのであって、中国政府が統治していた中国、という観念はあてはまらない」と、満州国成立前の清王朝末期の満州について述べている。後に軍閥地方政権に成長する張作霖が頭角を現してくる清王朝末期には瀋陽に東三省総督が置かれ満州地域の統治にあたっていた。この「東三省」という名称に注目して欲しい。つまり、清王朝は中国の東の3つの省として、満州の地域を意識していたのである。保守系の論者はこうした事実もわざと見落としているのである。宮脇氏自身がこの「東三省」という語句を使っているのに、それに注意を向けていないのも驚きだ。袁世凱政権時の満州についても触れたいが、長くなるので省略する。

 パターンNO.5.事実否定・無視のレトリック 無知または意図的に歴史事実を否定する。

 インターネットで調べると、竹内義郎氏の作成した「帝国電網省」の中の満州関連のコラムと、この論文のほぼ内容は同じなのである。さらには、「満州は中国の一部であったと問われたら」という「問い」に答えるという論述の仕方も同じである。竹内論文のほうが文体にまとまりがあるので、宮崎氏が模倣したのではないかと疑った。が、両方とも同じ「種本」を使ったのではないかと私は結論を下した。

 これ以外にも随所におかしな部分があるが、長くなるのでその分析は次回にまわす。                               
                                                 <続く>
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”発達論をちょっと”その4、最終回 文科系

2006年10月13日 01時08分27秒 | Weblog
さて、「その2」の③、抽象的言語を使った内言的思考になって初めて、ちょっと複雑な目的、望みを「成し遂げる」ということができるようになります。何かの望みを諦めるというのではなく「成し遂げる」ってこんなことでしょうか。自分の望みだけではどうしようもなくて、自分の外に法則というものがあり、それをつかみ、それに沿って物事を進め、改善していくということです。そして、こういう経験を積み重ねてきた子は、次のような感覚が深いものです。「周りの誰かがやれている普通のことなら、きちんとやればうまくいく。うまくいかないのはキチンとやれていないからだ。きちんとやるって、ぱっとひらめくような単純な事じゃない。根気よく観察して、色々試してみて、やっとわかる。法則的なことは一度分かれば後は簡単」。小学生では、(それまでの豊かな感覚運動的知能を踏まえた上で)この「きちんとやって、上手くいった経験」の量と言葉によるその方向付けやまとめが、基礎学力の高い子を作るのだと思います。教育ということでこれを語るならば、周囲がほんのちょっと援助して、本人が大事にしていることでこういう経験を積ませる事が大事だと言うことができるでしょう。以下、僕の一つの「特別授業」の体験を報告してみましょう。

ある子どもが小学校4年の初めての5段階評価で1、1、2、2、2、2、3という成績を取ってきました。その子がその2学期にオール3になりました。夏休みに僕がある特別なことをしたのですが、以下はその体験の報告です。
夏休み前後6~7回、1日2時間ほど水泳に付き合いました。なぜ水泳かというと、その時これのグレイド試験が学校で行われており、「速く泳げるようになること」が彼の「現在の最も大きな望み」だったからです。水泳自身の結果では、初め50秒かかった25メートルが僕との「授業」の最後には27秒に縮まったというだけのことです。問題はこの狙いとやり方にありました。
全く特訓ではありません。彼が泳いでいる時間より、僕と彼とが「話し合っている」時間のが長かったくらいですから。僕が質問して彼が答える。質問は控えめ、その都度最後の答えはなるべく彼自身で出すようにというのが注意点です。そして、その答えた通りに「また泳いでみやー」というわけでした。彼が初め遅過ぎたぐらいだから、これですぐに僕が取ってやるタイムがどんどん上がっていきます。こういう話し合い、「そういうようにやってみやー」が、浮き方、全身姿勢、脚、手へと進んでいくたびに、タイムが上がっていきました。後半は、僕の質問も随分少なくて済みました。彼の方からいろいろ言い出すからです。初め彼が遅すぎたから良かったのですけど、泳ぐ度にタイムを上げるように考える僕の方は、なかなか大変だったんですよ。いろんな本も読みました。なお、僕は脱力して、普通に長距離を泳げはしますが、水泳専門ではありません。
こうして2学期の彼の授業態度が全く変わったということ、ここが狙いであって、大事なことなんです。「(法則に沿った)コツがあり、それをキチンと聴いていて、それを踏まえればなんとかなっていくもんだ」と授業にも臨み始めたということでした。
この「特別授業」には小学生教育のいろんな着眼点が含まれています。子どもが好きで執着していることを授業科目・対象に選んでいます。基礎的スポーツや水泳には他の科目にないこんな特徴があり、それらは小学校中学年以前の「法則理解」にとって極めて理にかなったものです。改善点が自分の身体に関わることで分かり易いし、進歩が点数という抽象的なものではなく、自分の身体で直に感じられ(泳ぐ感じ、水をかいている感じ、水が速く流れていくなーという感じなどなど)、タイムで確認できます。問題が自分の身体の動かし方、感じのことだから、そういう改善点を自分で言葉(内言)にし易いということもあります。教える方の注意としては、事実として少しずつでも成果が上がるようにすることと、その度に子どもの凄い熱意が生まれてくるということが大事で、その様子も手に取るように分かりあうことができるでしょう。この「特別授業」の場合は実は、水泳自身を教えているのではなく、物事にキチンと取り組むそのやり方というものを教えているんだということ、それを指導者はいつも忘れないようにしていたいとも思います。だから特訓や命令調も、教えすぎも駄目なんです。
なおこの児童は、幼い時の病気とか、3歳ぐらいまでは保育園に適応しにくく孤立しがちだったこととかが重なって感覚運動的知能で言えば普通の子、ないしはやや遅めで、幼な目の子であって、加えていわゆる「注意力散漫」で脱線し易い子でした。その注意力を授業では集中させたいと、そんな狙いが最初から第1にあったのです。勉強自身を少々教えるよりも(勉強はこの時までも周囲の大人が結構教えていました)、こういう事の方が彼には大事だろうと、いつかそういうことが必要だと、そう考えた末の「特別授業」だったのです。水泳、それも25メートルを速くするという目標を選んだのも、当時のこの子と発達の法則となど、以上全てを見通した上のことでした。

本当に一つのコツ、「成し遂げる態度」が大きな喜びとともに身に染みて分かった時には、こどもの変化って凄いものです。僕がこのことを改めて学べた体験でもありました。

                               (終わり)
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