日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

為になるかも知れない本(その131)

2007-06-27 07:25:34 | Weblog
○昭和52年3月2日(水)曇。
 ルンバ一ルが3回目で入った。自信が少し付いた。県の予算が降りなくて、来年も研修医の給料は今と一緒とのこと。それなら、今度は必ず上がるからなんて前もって期待を持たせることなんか言わなければいいのに。(恵ちゃんの3桁の万の貯金は、もう、2桁の半分位になっていた)
○昭和52年3月4日(金)晴時々曇。
 献血車に乗った。150人程いて、とても忙しかったが、生活がかかっているから仕方がない。偶然、高校の時の進路指導の数学の渡辺清一郎先生に会った。僕のことに付いてもいろいろ聞いてきた(ある時、先生の数学の授業の時間に、僕の話をしたと後輩から聞いた)。僕の将来をいつも見守ってくれている人がいるんだなあと思い、いつまでも純粋な気持ちで医療に取り組んでいかなければいけないと思った。
○昭和52年3月9日(水)晴。
 ルンバ一ルが1回で入った。もう、上の人とそんなにルンバ一ルのテクニックでは差がないと思った。習うより慣れろだ。3月は当番が8回もある。インフルエンザの時にしなかった分が回ってきたのだ。とくかくこんなに忙しかったら、いい診療が出来ないよ。それに、僕の体にも、限界がある。
 患者さんを大切にしないといけない。いつも患者さんの立場になって診させてもらうって感じでないといけない。この髄膜炎の患者さんのおかげで、ルンバ一ルのテクニックの勉強、芯からさせて頂いた。何か哲学めいたものを若い時に読んでおくべきだったなあ。医療は、チ一ムワ一ク、同じ職場の人と仲良くして行かなければいけない。0時過ぎまで掛かって、蒲生逸夫著の小児科学をやっと読み上げた。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その130)

2007-06-26 09:48:01 | Weblog
○昭和52年2月26日(土)晴。(1.977年)
 細菌性髄膜炎を受け持った。とうとう持つべき疾患を持ったって感じだ。2カ月の女児、診察も難しいが検査も難しい年齢だ。顕微鏡で菌が見えた。白血球の中に連なって見えた。水痘脳炎が同時に来て、それは、他の先生が受け持ってくれた。僕は、本心は、両方持ちたかった。脳炎しても細菌性髄膜炎にしても、急変する疾患だ。夜中にタバコ誤飲で嘔吐して真っ青な顔で来た子を入院させた。今、病棟は一杯だ。
○昭和52年2月26日(土)晴。
 (母親自身が、この子が熱が上がる前に、喉がとても痛かったと言われたこともあり)溶レン菌だと思ったので(顕微鏡的に連鎖していた)ペニシリンG500万単位髄注した(梶原先生は、日本で初めてGMを髄注していた)。昨日は、ルンバ一ルの上手な梶原先生が(他の人がして初め失敗したら病名が付かなくなるというので自分等にはさせずに)して6回試みる上手くいかなく、野中医長がして何と不思議なことに1回で入った。今日は自分が4回して全て失敗し、小野先生が3回目にかろうじて入った。ルンバ一ルには、最近自信を持っていただけに、再び自信を失ってしまった。しかし、この子のルンバ一ルは、確かに難しい。脂肪が沢山付いているし、孔が小さいし、それに実によく動くなあ。
○昭和52年2月27日(日)晴。
 4回挑戦したが入らず、山元先生がしたら、3回目に入った。やっぱり僕は駄目なのか。どこがおかしいのかなあ。心疾患の急患が入院して、自分が受け持ちたかったが、小野先生が受け持った。
○昭和52年2月28日(月)晴。
 今日は、何と下手くそな僕が1回で入ってしまったのだ。しかし、これが実力だとは思わない。ルンバ一ルは、1に固定、2に針(当時は、磨いでいた)、3に腕と皆は言う。明日は当番、4日は献血、5日は抄読会(自分が発表)、とにかく頑張って今週を乗り切らなくてはいけない。

*その時に、自分が染色して検鏡したもの(学生の講義の時には、常に、このスライドを見せている。同時に、別の患児の細菌性髄膜炎での剖検所見で、大脳に膿がべったりと付いたスライドを見せ、如何に細菌性髄膜炎が怖い病気であるかを説明している)。白血球の中に、溶連菌が鎖の様に連なっているのが見える。細菌性髄膜炎では、何の菌かを出来るだけ早く決め、出来るだけ早くそれに合う抗生剤を使用することが大切と思われる。
*ルンバ一ルの時は、まず、眼底を見ていた。脳腫瘍の場合は、脳ヘルニアを起こすことがあるので(実際に、それで、裁判沙汰になったケ一スあり)、必ず、眼底を診たことをカルテに記載していた。する前に、皮膚から脊髄腔までの距離を頭に浮かべてし(新生児は、12.0mm、満1歳22.4mm、満2歳25.6mm、満3歳27.0mm、満4歳27.6mm、満5歳28.3mm、満6歳29.0mm、満8歳30.5mm、満10歳32.9mm、満12歳35.6mm、満14歳39.5mm)、黄靱帯、次に硬膜がプツンと切れる感じを体で覚えていった。
*この頃より、採血の難しい例には、(正式には、認められていないと思われるが)自分なりの方法で、時間が掛かるが沢山の量でも採血出来る方法を思い付いた。それは、ヘパリンで筒を濡らしてよく動く様にしておいて(当時は採血は全てガラスだった)、21Gの針で血管を刺し、無理に引こうとせずに針をしっかりと固定したままで血圧で自然に逆流させて採血する方法である。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その129)

2007-06-25 09:19:45 | Weblog
○昭和52年2月12日(土)晴。(今から30年余前の日記より)
 当番の日だった。急患が13人も来て、2人入院させた。一人は、下血と吐血で貧血が強く、血圧が60しかなく、輸血したら直ぐによくなった。インフルエンザによる出血かなあ?もう一人は、仮性コレラで、すごい脱水だった。(県外で以前に肝生検をして診断が付いて)Reye症候群の既往を持っていた。今、患者さんは13人、水痘脳炎も川崎病も落ち着いている。白血病の子、自分を見てやっと笑ってくれる様になった。嬉しい。
○昭和52年2月17日(木)晴。
 心臓外来があって忙しかった。明日は、脳炎の子の神経学的診察をバッチリしよう。学生の時に覚えたのがそのまま役に立っていることが多い。あの時、一生懸命に勉強したのが良かったなあ。九大の教授による免疫不全症の講演があって、内容が刺激的だった。免疫学、今からはとても大切な学問だ。しかし、お金がなくて本が買えない。忙し過ぎて学会に行けない。一番勉強しないといけない時なのに。
○昭和52年2月23日(水)晴。
 典型的な無菌性髄膜炎ではないし、二次性脳炎の疑いって感じで神経内科に相談したら、無菌性髄膜炎とのこと。神経は難しいなあ。
 月曜は産婦人科医との食事会、火曜は送別会、水曜(今日)も仕事で早く帰れなかったので、恵ちゃんはやはりフグになっていた。疲れて帰っているのに思いやりがないなあ、いつも妻は、温かく見送り迎えるべきだと思うけどなあ。
○昭和52年2月24日(木)晴。
 ルンバ一ルの結果、ギラン・バレ一症候群だった。そう考えればそうなのだ。神経内科も間違ってしまった。臨床って、やはり難しい。下手に経験すると、今まで経験した病名の中で考える傾向になる。又、同じ病名でもいろんな経過がある。診断が当たる確率とは、自分に言わせれば、情報(デ一タ)を時間で積分したものだ。教科書に書かれている症状なんて、全く典型的な場合でしかない。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その128)

2007-06-24 08:35:30 | Weblog
○昭和52年1月16日(日)晴。
 午後1時過ぎまで病院にいた。白血病の子、熱発していた。口内炎の子、だいぶ前よりは良くなったが、まだ少し元気ない。バ一ドを付けている○○君の患者さん、いつまでもつのかなあ。○○先生の患者さんも、○○先生の患者さんも死んでしまった。
○昭和52年1月21日(金)曇。
 給料日だった。7万ちょっと。死にもの狂いでこれだけ働いてもだ。僕って、自分の努力が認められる所でないと納得しない性分なのかなあ。大学に行ったら、も少しましかな。文部教官助手になれば、20万はあるかな。そしたら、少し貯金が出来るかなあ。(家内の100万円の貯金のお金を小刻みに使って行き、次第に心細くなっていた)
○昭和52年1月23日(日)曇。
 昨日入院したベビ一のビリルビン値が30もあったので、交換輸血をした。小野先生に少し手伝ってもらったが、殆ど自分でした。もう一人でも出来ると思った。交叉試験も自分でした。その前に意識のない患者さんが急患で来て、眼底出血があって、対光反射がなかったので、神経内科(その後、脳神経外科)に相談したら、直ぐに来てくれた。この病院は、いつ何が来るかわからない。そして、又、よく亡くなるなあ。
○昭和52年2月5日(土)晴。
 抄読会で自分のペ一スが狂ってしまって忙しかった。仮性コレラと急性腎炎の二人を、土曜というのに受け持った。けいれん重積(急性腎炎で高血圧性脳症になった)の子を退院させた。水痘脳炎の子、経過はいい様だ。難治性のテタニ一の子、新薬の1α一OH一D3が効いている様だ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その127)

2007-06-23 08:21:43 | Weblog
○昭和52年1月1日(土)曇。
 年頭の所感
 病態生理の強い医者になる。
・暇を見つけて本で勉強する。
・一例一例を確実に自分のものにする。
・患者さんをよく診る。
・コツコツとマイペ一スで行く(本を作成する)
○昭和52年1月6日(木)曇。
 当番の日だった。梶原先生の家で新年会があったが、殆ど飲まなかった。夜中に救急車で二人来た。軽い方を他の先生にまかせて、けいれん重積の方を受け持った。浮腫があり、血圧が上が160前後あって、尿が異常だったので、(BUNはさほど上昇してしていなかったが)急性糸球体腎炎で、それによる3大合併症の一つの高血圧性脳症と診断した。病院に泊まった。F2のけいれん重積(ウイルス性脳炎)の子も、まだ落ち着かず、朝の5:30頃に寝た。
○昭和52年1月7日(金)曇。
 朝7時30分頃に病棟に行ったら、ウイルス性脳炎子があれから何回かけいれんを起こしていた。医者はやはり体力だと思った。この日の22時、23時、24時、朝の6時に、必ず自分に電話する様にナ一スに念を押した。F2のナ一スも、とても協力的だ。少し頭が冴えないが、野戦病院の一角でとにかく自分なりに頑張っているといった感じだ。
○昭和52年1月9日(日)曇。
 ウイルス性脳炎の子が深夜にけいれんが起きたらどうしようかと思って、心配だった。朝電話したら、けいれんが起きていないと言う。11時病院に行った。そしたら、元気になっていた。信じられなかった。流動食が効いたのかなあ?ステロイドか効いたのかなあ?嬉しいよ、全く。
○昭和52年1月10日(月)曇。
 当番だった。23時頃、腸重積が来た。殆どもらさずに整復出来た。正に、何が来てもドンと来いって感じだ。しかし、そう思う所がまだ未熟な証拠に違いない。兎に角一つ一つ体でしっかりと受け止めて覚えて行っているって感じだ。大部慣れた。(今度小児科に入局した)山内君が僕を尊敬すると言ってくれた。嬉しい。
○昭和52年1月14日(金)曇。
 白血病を受け持った。取り敢えず、輸血を150mlした。この子どもと亡くなるまでずっと一緒かと思うと、何とも言えない気持ちになる。3歳女児、自我が芽生えて、難しい年齢だなあ。医療よ、どんどん進歩せよ。そして、5年間は無理でも、3年間は、生きて欲しい。(当時は、子どもの白血病は、骨髄移植などなく、殆ど、助かっていなかった)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(ぞの126)

2007-06-22 13:26:13 | Weblog
○昭和51年12月25日(土)晴。
 ファンコニ一症候群(ファンコニ型の再生不良性貧血)の○○君が退院した。蛋白同化ホルモンAnadrolの5mgで維持し、ステロイドホルモン30mgから減量して行って、10mgになった時に退院とした。スゴイ貧血だったが、とても顔色が良くなって帰った。信じられない位だ。今まで何度も輸血されていたのに、自分はしなかった。一度も。貧血があっても結構元気で、それに輸血することにより骨髄を刺激することよりもむしろ造血能を低下させると考えたからだ(輸血したらと周囲から言われてきていたが)。(○○君、それから、ずっと年賀状のやりとりをしていた。数年前に亡くなられたが、亡くなった時、母親からその通知の連絡があった)
(昭和51年7月24日Hb4.3g/dl、昭和51年8月1日Hb6.0g/dl、昭和51年10月25日Hb10.6g/dl、昭和51年12月23日Hb12.9g/dl)
○昭和51年12月27日(月)晴。
 ○ベビ一を帰した。十二指腸穿孔で腹膜炎になっていたのに、しかも、体重が2.050gしかなかったのに、助かった。
 ○○看護婦さんが、「先生が(看護婦さんはもっと優しくあって欲しいと)言ってから、(職場の雰囲気が)変わった」と言った。前よりも、明るい職場になった感じがした。
 この○ベビ一の症例は、私に新生児医療の素晴らしさを教えてくれた。手術した外科医からは、「助からないだろうが・・・」と言う様に言われ、そう父親には説明していた。父親は、毎朝早く、ベビ一室の窓越しから自分の診察とベビ一を真剣に見ていて、「先生、今日は昨日よりも顔色が良くなった」とか「手足の動きが昨日よりもいいごとある」などと言い、術後1週間経って多分大丈夫でしょうと説明した時、泣いていた。私も必死でよく診たが、親も実によく観察していたことを知ってビックリし、又、新生児の生命力の強さに驚かされた(その後、佐伯の西田病院に私がいることを知って、その後数年経てから、大きくなったその子どもを連れて、挨拶に来てくれた)。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その125)

2007-06-22 12:00:00 | Weblog
○昭和51年12月24日(金)晴。
 部長回診の時に、梶原先生にいろいろ質問した。梶原部長、よく考えて返事をしてくれる。九大に9カ年間、ここで20カ年間もの長いキャリアがあるのだ。打診、聴診、触診に関しては、医局員は、「神業的」と言う。
 回診の時の言葉数は実に少ないが、その一言一言は実に大きい。沢山の不必要な検査を嫌がり、薬の種類は、少ない。昔は厳しかったそうだが、今は優しい。抗生物質の使い方が実に素晴らしい。自分等がここで如何に一生懸命に頑張っているか、きついかを一番良く知っているのは、この梶原先生しかいない。
 夜に電話すると、ビ一ルを飲んでいて顔が赤くなっていても、どこにいても、直ぐに駆けつけてくれる。深夜患者さんが悪くなっても、朝、6時まで待って(梶原先生は、朝の6時には、既にいつも起きていたので)、電話することが多かった。

*梶原先生が、ある時、次の様に言われた、・・・「ここの小児科医には、遊ぶという言葉はない。小児科医は、朝診察し、帰る時に診察し、悪ければ絶えず診察する。そう、小児科急変するから、24時間働かなければいけない。しかし、忙しい中で生き抜くコツを覚えないといけない。」と。

 梶原先生は、ちょっと診察にきて、主治医にいろいろ助言して、後、診ない感じの(偉い?)人の仕方をとても嫌がっていた。
 よく診ることの大切さを常に強調していた。リコ一ルを検査任せにするドクタ一を叱っていた。検査の結果が出る前に、自分の目で、顕微鏡で直ぐに見て、細菌性かウイルス性かを判断する様に言われていた。自分の目を信じることの大切さを常に強調していた。
 聴診打診触診をとても大切に言う先生で、回診の時に、間違いを訂正していた。幸いなことに、私は、梶原先生から、聴診打診触診を信じてもらえていた。で、何度も聞かれた、「田原先生は、どこで覚えた?」と。で、私は、いつも、「独学です」と返答していた。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その124)

2007-06-21 07:14:30 | Weblog
○昭和51年12月13日(月)晴。
 月曜日は一番有意義に過ごすべき日だと思う。というのは、紹介患者さんが沢山来るからだ。難しい病気が多いし、梶原部長がてきぱきとさばいているのが勉強になる。僕はどこにいても人間不適格者の様な気がする。どこにいても満足し切れないのだ。僕には協調性がないし、個性が強過ぎるし、人の意見を尊重しない。
○昭和51年12月14日(火)晴。
 昭和医大を卒業した山内という人が抄読会に来ていて、県病小児科に入るとのことだった。僕等が経験したのと同じ様に彼も又苦しむのだなあ。今日は、未熟児の眼底が見れて、嬉しかった。
○昭和51年12月15日(水)曇。
 カゼがなかなか治らない。全くいやになる。毎日とてもきつい。明日は、子ども達の前で待望の手品の発表の日。何とかイメ一ジが出来た。自信がそれなりにある。お金があれば、手品道具をもっと買って、ダイナミックな演技が出来るのだが。最近、体がとてもきついのに、我慢して働いている。どうしてこんなに働かないといけないのかなあ。体が壊れてしまうよ。
○昭和51年12月20日(月)晴。
 大学と一緒に忘年会があった。この時の酒がおいしいことを長いこと夢見ていたが、本当においしい酒になった。自分なりに苦しみ、耐え、そして喜んできた。わずか7カ月間しか経っていないのに、何とか曲がりなりにも医者と言われるまでにはなったと思う。後1カ年間もすれば、いわゆる小児科医と言われる医者になれるだろうし、そうならないといけない。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

休憩室

2007-06-20 08:23:16 | Weblog
その1
 副腎皮質ホルモン剤を患者さんに投与していると、その親から、「うちの子は、口が悪くなった」とか「自分の子どもでないような言い方をする」とかいうのを我々小児科医はよく耳にする。次のは、ある県病院での小児科部長回診の時の実話、 患児「つるっぱげ!」と大声で言ってしまった。親はその時、オロオロしていたが、・・・
 部長「あのね、○○ちゃん、ハゲは聡明な人ヨ」
 患児「そんなら、はよなおせ!」

その2
 県病小児科病棟の子どもが小児科の医者達の顔を紙に書いていた。何故か、S先生のだけ書いていない。
 ナ一ス「なんでS先生のだけ書かんの?」
 患児「だって、顔が大きくて、紙に入らん」

その3
 県病院でのある小児科の研修医、黄疸の強い赤ちゃんに交換輸血する時、
 研修医「・・・ということで100%安全という訳ではありませんが、・・・一応、若いですけど、私が主治医です。何かあれば直ぐに上の先生に連絡して適切な処置を取りますので、経験は浅いですが、一応安心して下さい」と言うと、
 父親「そうですなあ、まあ、何の仕事でも一人前になるのは、先生10年、10年は掛かります。わしも大工をしといてつくづくそう思います・・・」


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

為になるかも知れない本(その125)

2007-06-20 08:17:59 | Weblog
○昭和51年12月1日(水)曇。
 カゼを引いて苦しい。マスクをしての診察、このマスク、どれ程効果があるのか疑問。ゆっくり休みたいなあ。金曜から引いている。ちっとも治る傾向にない。熱はなく、すごく咳が出て、喉が痛くて苦しい。PAPかな?こんな時、自分の病気を直ぐに治せる医者に出会ったら、その医者を神様みたいに思うだろう。退院数61名。自分の大学だと、数だけでは、もう2年以上経験したことになるなあ。頭を使う医者にならなければ駄目だ。
○昭和51年12月7日(火)晴。
 抄読会があったが、カゼで苦しい為に欠席した。咳をするととても苦しい。こんな苦しい咳をするのは生まれて初めてだ。ミノマイだと嘔気が出てので、ダラシンにした。咳止めは、リン酸コデインでないと効かない感じだ。(結局、私の疾患は、自分で診断を付けることになった。他の小児科医も、誰も気が付かなかった。百日咳であった)
○昭和51年12月8日(水)晴。
 僕の将来はどうなるのだろうか?来年の10月に県病院を退職し、宮医大にしばらくいてから国内留学をして、そこで新生児の循環器をバッチリ1年間勉強した後に、○○病院の小児科部長として赴任し、時々、西田病院の産婦人科に行って新生児・未熟児を診察し、○○病院に10年間前後いてから開業し、体力的に救急が無理になったら再び短大か私立大学の先生になって、暇を見てはアチコチ外国に行く。どこまで本当になるのやら?とにかく、今はここで最善を尽くすしかない。ここで学べることは、全て吸収したい。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする