日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

NOVAって・・・

2007-06-17 17:51:40 | Weblog
 駅前留学・異文化コミュニケ一ションの大手のNOVA、私は利用したことがありませんが、マンツ一マンで6ヶ月、週2回教わって、多額のお金を払って、英会話がものにならなかった人からの話です(今日聞きました)。
 「いや一、NOVAさんは、話せる様になるって感じで言っていましたが、自分としては、初めから、6ヶ月してもものにならないのではとは思っていましたが、やはり、ものになりませんでした・・・」と。
 これ程までにNOVAが急成長したのは、何故でしょうか?政府の優遇政策で、お金が少し少なくてすむから、気軽にレッスンが受けられるから、今からは、英語がどうしても必要だから・・・など、いろいろあると思います。
 日本で1カ年近く、そんな学校に通って、それですごく上手になった人、周りにいますか?
 バンク一バ一で、そこにある英語の語学学校に通っている30過ぎの女性(大分県人)と話したことがあります。
 「ここにある語学学校に1カ年通ったけど、ものならなかった。集団で教わるのって、ものにならない。それに、日本人が周りにいると駄目。反省して、今度、日本人が全くいない○○○に行くことにしている・・・」と。
 そうです、日本では、語学の習得は、難しいのです。どんなにいい教材を並べても、どんなにいい先生に付いても。本気で覚える気があるなら、24時間英語付けって感じにすることです。語学は、積み重ねが必要とされるものの典型例。周りを英語を話す人で囲まれることが最適です。日本人が自分一人になることです。それを少なくとも、1年間は、することです。
 イタリアの語学学校で、そこでイタリア語を勉強している多くの日本人が言っていました。彼等は、日本で、しっかり学校に通っていたはずなのですが、異口同音に、日本では、ものにならなかったと言われていました。早くここ(フィレンツェ)に来ておくべきだったと言われていました。
 現地の人とマンツ一マンで会話を交わすこと、これが一番の会話の上達方。私はそう信じています。語学研修の為に大金を日本で使うくらいなら、私の経験からも、出来るだけ早く、現地で勉強した方がいいと思っています。
 但し、このことは、聞くと話すに関してのことです。読んだり書いたりは、日本で、それも、中学や高校の学校の授業で、充分に出来ますね。

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三人の偉人のエピソ一ド

2007-06-17 08:17:36 | Weblog
一人目(教育者の若林実氏の書いたものを一部引用)
 こういう男がいたら、世間の人達はどう思うであろうか。
 小学校に上がるまでは、色白で女の子の様にかわいくて、よくいじめにあって泣いているという弱虫であった。小学校時代は、成績極めて優秀で、名門中学に合格した。家庭では長男として超過保護に育てられ、自由にふるまった。中学に入ると、成績はみるみる落ちていった。勉強よりも小説を書いたり、マンドリンを弾いたり、野球に熱中していたからである。そして、高校入試に失敗した。一年浪人して合格したのであるが、その合格を知らずに父は死んでいった。入学して間もなく本人も病気になって長く入院する羽目になってしまったが、ベッドの中でひたすらフランス語の原書などを読んでいた。その後、東大の仏文科に入学したが、大学へはろくに行かず、毎晩酒を飲んで文学青年達と遅くまで議論し合った。そして、そこの顔を出していた青年の愛人といつの間にか同棲する様な関係となり、母や妹をおいて別居する事態に至った。しかし、必ずしも幸福でなく、逃げ出してくるしまつであった。
 この男は非常に頭がいいという以外、わがまま放題の何の取り柄もない青年と思われるだろうか?
 実は、これは、小林秀雄という文芸評論家の青年時代までをまとめたものである。42年後には、文化勲章に輝き、めでたしめでたしということになる。
 最近、臨床の場で不登校、心身症が増加していることをいしひしと感じる。ところが、いろいろな人の伝記を読んでいると、一見悪い子や情緒障害児の様だった著名人がゴロゴロしているのに驚く。学校生活の敗北者が人生の敗北者になると言えない所が面白い。
 彼らの前途は明るく輝いていることを信じたい。

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為になるかも知れない本(その120)

2007-06-17 08:01:32 | Weblog
○昭和51年10月17日(日)晴。(著書:続・為になるかも知れない本(非売品)より)
 (県病院にかかっている患者さんの)腎臓の統計の為に、まる一日が潰れた。患者さんを一日に何度もよく診て、よく説明してあげることが大切だなあ。自分が患者さんの立場だったらどうして欲しいのか、それを常に考えておくことが大切だなあ。
○昭和51年10月21日(木)晴。
 忙しくて夜中の1時に帰り、3時に、熱性けいれんで起こされた。朝の7時に又電話があって、頭が痛い状態で、献血車に乗った(2ヶ月に1回、献血車に乗って朝から夕方まで仕事をして、9600円もらっていた。自分も、よく献血をしていた)。
○昭和51年10月22日(金)晴。
 今日何をしたのか、サッパリわからない感じだ。何となく一日が終わった感じだ。腎臓の統計の為に、朝、病棟を回らずにそれをして、やっと9時過ぎに終わった。万歳。先成君、さすが、終わっていた。彼は本当に(学生時代、夏休みに、一人で鹿児島から稚内まで自転車で縦断した程の)根性のあるすごい人間って感じだ。
○昭和51年10月30日(土)曇。
 一応、検査が病棟でも出来るように僕が中心になってした。RBC、WBC、Hb、Ht、リコ一ル、尿沈渣、細菌のグラム染色、それに出血時間と凝固時間と、アナリ一ゼ(リコ一ルも)。いろんなテ一プがあるし、鮮血便や真菌検査も、簡単に出来る様になった。

*リコ一ルのアナリ一ゼは、教科書に書いてなく、試行錯誤で、やっとコツが掴めた(ポイントは、壊れやすいので、引かなくて垂らす感じですること、ギムザ液の染色は、5分間で切り上げること)。部長回診の時は、それをセッティングしていて、見てもらっていた。この頃までには、リコ一ルのわずか一滴だけで、染色しなくても、生(なま)で、数だけでなくリンパ球か好中球かがある程度見分けが付けられる様になっていた。又、自分なりにリコ一ルを染色してアナリ一ゼすることで、無菌性か細菌性か、又、その経過をよりはっきりと知る
ことが出来る様になっていた。
 病棟に古い顕微鏡があったのだが見えにくく、いいのを買って欲しいと何度も言ったのだが、あるから買わないと病院側から言われた。仕方なく、恵ちゃんの退職金でいいカメラも買いたかったのだが、我慢してオリンパスの上等な顕微鏡を買った。しばらくすると、他の小児科医も、それをよく利用していた。
 この時、私が、病院が買わなければ自分がそれを買うと言っていたのを、副院長の梶原部長は、買わせる為にわざとそう言っているものだろうと思っていた様で、実際に買ったので、目を丸くして本当に驚いていた。


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