日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

負けないで

2007-06-19 07:40:35 | Weblog
 ZARD坂井泉水さん、亡くなった時、「残念・・・!良かったのに、なんで・・・俺、あの人ファンで、よく聞いていのに・・・」って感じで言われていた人、周りに多かった。」
 彼女は、24歳(1991年)でデビュ一し、16年間もの長い間、日本の多くの人に愛され続けた。昨年の6月に、ガンが見つかり、帰らぬ人となってしまった。しかし、彼女の歌は、今も健在であり、トップを走り続けている。
 正直、恥ずかしい話、私は、名前すら知らなかった。しかし、「負けないで」の歌、何度も聞いている。彼女は、ブラウン管に殆ど出てこなかった人。歌だけがよく流れていた。亡くなって、顔を見た。とても知的な品のある顔をしている。
 彼女自身が、「言葉や詩を大切に考えている」と言っている。彼女自身が独特の感性で作詞し、全てがかなり考え抜いての作品となっている。「負けないで」の最後のせりふの「走り抜けて」は、その直前までは、「頑張って」になっていた。
 「マイフレンド(1996)」「Got U're Dream(2000)]「ハ一トに火をつけて(2006)」など、1670万枚もCDを売り出しているのに、表に出て来なかった人。
 バブルがはじけて、就職氷河期の時代に、どうしていいのか多くの人が苦しんでいる中で、彼女の歌声が皆と一緒に人生の応援歌的存在で走って来てくれた。それで励まされた人、数知れないだろう。
 今の日本人のあるべき姿を示している様に思えてならない。

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三人の偉人ノエピソ一ド

2007-06-19 06:29:48 | Weblog
三人目(森本哲郎氏の文の一部を引用)
 とにかく、彼は、目立たぬ子どもであり、少年であり、青年であった。ミュンヘンで彼はギムナジウムに入るが、勉強がやりきれない程の重荷であった。ただ、数学と物理だけはいい点を取っていた。そのあげくに、彼はついに退学してしまい、両親のいるミラノへ逃げ帰ってしまう。だが、ギムナジウムの卒業証書がなければ大学へ進めない。そこでやむなくスイスのア一ラウという小さな町のギムナジウムの最終学年に入学し、そこを終えてチュ一リッヒの工科大学の師範科の入学試験を受けた。数学と物理では素晴らしい成績を取ったが、博物学と語学で不合格になってしまった。その後、大学を卒業して家庭教師や天文台のアルバイトをしながら職を探し続け、やっと友人のつてでベルリンの特許局に仕事の口を見つけることが出来た。
 仕事をいうのは、特許局に申請される書類を点検するという役目であった。年俸3.500フラン、やっと生活できる程の薄給であったが、彼は充分に満足し、工科大学で知り合った女子学生ミレヴァ・マリッチを呼び寄せて結婚した。22歳の時である。
 全く平凡な特許局の一吏員、一体、誰がそれからわずか4年後に、「特殊相対性理論」という画期的な発見をこの吏員が発表するなど予想したであろうか。しかし、アインシュタインを偉大にしたのは、実は、正にこの時の生活であったと思われる。
 彼は自分に与えられた仕事を決して無意味とも研究の妨げになるとも思わなかった。彼は数学を専攻している友人に対して特許局への就職を勧め、この仕事がいかに素晴らしいかを以下のごとくに手紙に書いている・・・
 うまくすれが、君を特許局の職員の中に押し込むことが出来るかも知れません。そうしたら君は来てくれますか?考えてみたまえ、8時間労働の他に毎日暇な時間が8時間残り、その上、日曜日があるんですよ。・・・しかも、この手紙は、自分の理論が大反響を呼び起こしている最中にである。
 ただ。彼は、6歳の時から習い始めたバイオリンを一生手放さなかった。苦闘の連続ともいえるアインシュタインの探究生活で、いつも彼を支えてくれたのは、そのバイオリンだったと思われる。

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為になるかも知れない本(その122)

2007-06-19 06:23:07 | Weblog
○昭和51年11月8日(月)晴。
 二人退院させた。心不全の子と異型肺炎の子。PAPの子、今日初めて左右の肺への空気の入りが同じになった。心不全の子、肝腫も浮腫もラ音も消失した。嬉しい。元気なって退院させるのは、本当に嬉しい。
○昭和51年11月17日(水)雨。
 いい日だった。顕微鏡が、13万6千円で、立派なのが買えた。さっそく、この自分の顕微鏡で髄膜炎の患者さんのリコ一ルの細胞数を数えた。前のと違って、明るくて見やすい。亡くなるかも知れないと思っていた十二指腸穿孔(2.050g)の子も、顔色が良くなって、グル音がよく聴こえる。イレウスの子も少し落ち着いた。ITPの子も、血小板が5万ちょっとになった。嬉しい。
○昭和51年11月28日(日)晴。
 朝8時に筋注に言った。○ちゃん、顔色が良くなっていた(11月25日に、イレウスで再Op.していた)。排便が少しあってグル音が聴かれ、嘔吐もない。梶原先生の指示でブドウ糖を与えた。19時に病院に行って筋注し、処方箋を書いた。
*この患者さんは、大学を担当しているMRさんの子どもさんで、大学の(偉そうにしている)外科の先生にも、いちいち別に詳細に説明し、再Op.の時も、大学の先生が見学にバッチリついていて、手術担当の外科医と大学の先生とに挟まれて、主治医の私は、精神的に疲れてしまった。

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三人の偉人のエピソ一ド

2007-06-18 07:07:14 | Weblog
二人目(教育者の若林実氏の書いたものを一部引用)
 小学校2年生の時、彼の父は、英語の重要性が今後重くなることを考えて教師に頼み込んで、一般授業が終わってから毎日2時間ずつ、個人教授をしてもらうことにした。小学3年生からは、別の塾へ夕食後に通わされることになった。
 そして、夜の9時に帰宅すると、その頃に仕事の終えた父の前で復習をさせられた。もう疲れ切って、つい居眠りが出ると、父は彼を庭の外に放り投げたりもした。
 彼は牛乳を飲むことが出来なかった。それだけではなく、誰かが牛乳を飲んだコップは、それをゆすいだ後でもわかるという程の徹底したものであった。
 父親は、いわゆる酒乱であり、その為もあって順調に行っていた事業も潰れ、彼が10歳の時には、一家が路頭に迷う事態にまで落ち込んでしまった。
 学校の成績は、中位であったが、家が没落した為、義務教育を終えると直ぐに行商などをしなくてはならなかった。学校時代は、男らしい方ではなく、父からも友達からもよく「泣き虫」と言われていた。父は商売上のことで私文書偽造横領罪で牢につながれ、弟や妹の数も多く極貧の生活を送っていたが、読書だけが唯一の趣味であった。
 19歳の時に、工事現場で転落し、二、三日意識が戻らないという重症を負った。
 さて、この少年はこれからどういう人生を送っていくのであろうか。将来が全く見えない、過酷な少年期と言えよう。
 実は、これが吉川英治の少年時代なのである。恐らく、大衆文学の第一人者であり、死後も多々の著作が書店の棚に並べられている。彼には、小学校の学歴しかない。しかし、「新平家物語」や「三国志」なども作品は、古典、漢文、歴史に対する鋭い洞察力なしには出来ないものである。
 彼にとっては、英語の学習は、全く無駄であったし、学校給食で嫌いな牛乳を飲まされる苦痛を味わわずにすんだ。
 結論から言えば、彼にとっては学歴は無用であったし、酒呑みの父親、貧しい家庭環境、生命を奪いかねない外傷、これが全て後年、文化勲章に輝く為のスプリング・ボ一ドの役目を果たしたと言えるだろう。
 彼は天才だからと言ってしまえばそれまでだが、子どもの成長にとって何がプラスになったかは、人知を遙かに超えた所に存在する様だ。


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為になるかも知れない話(その121)

2007-06-18 07:00:38 | Weblog
○昭和51年10月31日(日)晴。
 大堂さんと浜田さんと先成君と勝池さんと増田さんと他三人(ネコを連れて来た人もいたが)で、霧島山に登った。とても疲れたが、帰りの時には、"よし、11月からやるぞっ!"って気になった。やはり人間は、ゆとりがないといけない。恵ちゃんがいつも言っているコスモス畑も見た。コスモスは、盛りを少し過ぎていた。秋のもみじは、もう散っていた。6月・7月・8月・9月・10月と、5ヶ月も経ってしまった。いや、まだ5ヶ月しか経っていないのに、前ほど苦労しなくなって、前よりも量もこなせる様になっている。
○昭和51年11月4日(木)晴。
 心不全の子どもが0:00頃に来た。ジギタリゼ一ションを48時間ですることにした。何でも初めは不安。その前に、診断をちゃんと付けることが先決だ。
○昭和51年11月6日(土)晴。
 ○○さんのお母さんが、15:00に来るというので、それまで待った。慢性腎炎にもいろいろなタイプがあると説明した。夜、再び病院に行って、心不全の子どもの心電図をとった。医者は、よく診ることが大切だ。理論も確かに大切だが、それ以上によく何度も診ることの方が大切だと思う。
○昭和51年11月7日(日)晴。
 忙しかった。難しい症例が急患で3人来た。頑固に嘔吐する子どもで、総腸間膜症であった。朝の3:00に3カ月の乳児がけいれんで来た。少しピリピリ(易刺激性)した感じがしたが、熱が今晩から急に出たと言うので、親には、「脳膜炎は否定できないが、まあまあ元気がいいので、又けいれんが起きたら直ぐに来て下さい」と言って、一抹の不安を覚えながらも帰してしまった。昼間であれば、ルンバ一ルをしていただろうけれども。朝6:00、案の定、けいれんで来院し、小野先生が来てくれて、直ぐにルンバ一ルし、(無菌性)髄膜炎であった。親は、「夕べの先生が直ぐに入院させてくれていたら・・・」と不満そうに言っていた。私の完全なる誤診であった。
 (日本感染症学会の評議員の)梶原部長が、「3カ月の熱性けいれんは、極めてマレ。無菌性では、細菌性よりも、典型的な症状が出にくいから、そんな目で診る様に」と言われた。

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NOVAって・・・

2007-06-17 17:51:40 | Weblog
 駅前留学・異文化コミュニケ一ションの大手のNOVA、私は利用したことがありませんが、マンツ一マンで6ヶ月、週2回教わって、多額のお金を払って、英会話がものにならなかった人からの話です(今日聞きました)。
 「いや一、NOVAさんは、話せる様になるって感じで言っていましたが、自分としては、初めから、6ヶ月してもものにならないのではとは思っていましたが、やはり、ものになりませんでした・・・」と。
 これ程までにNOVAが急成長したのは、何故でしょうか?政府の優遇政策で、お金が少し少なくてすむから、気軽にレッスンが受けられるから、今からは、英語がどうしても必要だから・・・など、いろいろあると思います。
 日本で1カ年近く、そんな学校に通って、それですごく上手になった人、周りにいますか?
 バンク一バ一で、そこにある英語の語学学校に通っている30過ぎの女性(大分県人)と話したことがあります。
 「ここにある語学学校に1カ年通ったけど、ものならなかった。集団で教わるのって、ものにならない。それに、日本人が周りにいると駄目。反省して、今度、日本人が全くいない○○○に行くことにしている・・・」と。
 そうです、日本では、語学の習得は、難しいのです。どんなにいい教材を並べても、どんなにいい先生に付いても。本気で覚える気があるなら、24時間英語付けって感じにすることです。語学は、積み重ねが必要とされるものの典型例。周りを英語を話す人で囲まれることが最適です。日本人が自分一人になることです。それを少なくとも、1年間は、することです。
 イタリアの語学学校で、そこでイタリア語を勉強している多くの日本人が言っていました。彼等は、日本で、しっかり学校に通っていたはずなのですが、異口同音に、日本では、ものにならなかったと言われていました。早くここ(フィレンツェ)に来ておくべきだったと言われていました。
 現地の人とマンツ一マンで会話を交わすこと、これが一番の会話の上達方。私はそう信じています。語学研修の為に大金を日本で使うくらいなら、私の経験からも、出来るだけ早く、現地で勉強した方がいいと思っています。
 但し、このことは、聞くと話すに関してのことです。読んだり書いたりは、日本で、それも、中学や高校の学校の授業で、充分に出来ますね。

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三人の偉人のエピソ一ド

2007-06-17 08:17:36 | Weblog
一人目(教育者の若林実氏の書いたものを一部引用)
 こういう男がいたら、世間の人達はどう思うであろうか。
 小学校に上がるまでは、色白で女の子の様にかわいくて、よくいじめにあって泣いているという弱虫であった。小学校時代は、成績極めて優秀で、名門中学に合格した。家庭では長男として超過保護に育てられ、自由にふるまった。中学に入ると、成績はみるみる落ちていった。勉強よりも小説を書いたり、マンドリンを弾いたり、野球に熱中していたからである。そして、高校入試に失敗した。一年浪人して合格したのであるが、その合格を知らずに父は死んでいった。入学して間もなく本人も病気になって長く入院する羽目になってしまったが、ベッドの中でひたすらフランス語の原書などを読んでいた。その後、東大の仏文科に入学したが、大学へはろくに行かず、毎晩酒を飲んで文学青年達と遅くまで議論し合った。そして、そこの顔を出していた青年の愛人といつの間にか同棲する様な関係となり、母や妹をおいて別居する事態に至った。しかし、必ずしも幸福でなく、逃げ出してくるしまつであった。
 この男は非常に頭がいいという以外、わがまま放題の何の取り柄もない青年と思われるだろうか?
 実は、これは、小林秀雄という文芸評論家の青年時代までをまとめたものである。42年後には、文化勲章に輝き、めでたしめでたしということになる。
 最近、臨床の場で不登校、心身症が増加していることをいしひしと感じる。ところが、いろいろな人の伝記を読んでいると、一見悪い子や情緒障害児の様だった著名人がゴロゴロしているのに驚く。学校生活の敗北者が人生の敗北者になると言えない所が面白い。
 彼らの前途は明るく輝いていることを信じたい。

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為になるかも知れない本(その120)

2007-06-17 08:01:32 | Weblog
○昭和51年10月17日(日)晴。(著書:続・為になるかも知れない本(非売品)より)
 (県病院にかかっている患者さんの)腎臓の統計の為に、まる一日が潰れた。患者さんを一日に何度もよく診て、よく説明してあげることが大切だなあ。自分が患者さんの立場だったらどうして欲しいのか、それを常に考えておくことが大切だなあ。
○昭和51年10月21日(木)晴。
 忙しくて夜中の1時に帰り、3時に、熱性けいれんで起こされた。朝の7時に又電話があって、頭が痛い状態で、献血車に乗った(2ヶ月に1回、献血車に乗って朝から夕方まで仕事をして、9600円もらっていた。自分も、よく献血をしていた)。
○昭和51年10月22日(金)晴。
 今日何をしたのか、サッパリわからない感じだ。何となく一日が終わった感じだ。腎臓の統計の為に、朝、病棟を回らずにそれをして、やっと9時過ぎに終わった。万歳。先成君、さすが、終わっていた。彼は本当に(学生時代、夏休みに、一人で鹿児島から稚内まで自転車で縦断した程の)根性のあるすごい人間って感じだ。
○昭和51年10月30日(土)曇。
 一応、検査が病棟でも出来るように僕が中心になってした。RBC、WBC、Hb、Ht、リコ一ル、尿沈渣、細菌のグラム染色、それに出血時間と凝固時間と、アナリ一ゼ(リコ一ルも)。いろんなテ一プがあるし、鮮血便や真菌検査も、簡単に出来る様になった。

*リコ一ルのアナリ一ゼは、教科書に書いてなく、試行錯誤で、やっとコツが掴めた(ポイントは、壊れやすいので、引かなくて垂らす感じですること、ギムザ液の染色は、5分間で切り上げること)。部長回診の時は、それをセッティングしていて、見てもらっていた。この頃までには、リコ一ルのわずか一滴だけで、染色しなくても、生(なま)で、数だけでなくリンパ球か好中球かがある程度見分けが付けられる様になっていた。又、自分なりにリコ一ルを染色してアナリ一ゼすることで、無菌性か細菌性か、又、その経過をよりはっきりと知る
ことが出来る様になっていた。
 病棟に古い顕微鏡があったのだが見えにくく、いいのを買って欲しいと何度も言ったのだが、あるから買わないと病院側から言われた。仕方なく、恵ちゃんの退職金でいいカメラも買いたかったのだが、我慢してオリンパスの上等な顕微鏡を買った。しばらくすると、他の小児科医も、それをよく利用していた。
 この時、私が、病院が買わなければ自分がそれを買うと言っていたのを、副院長の梶原部長は、買わせる為にわざとそう言っているものだろうと思っていた様で、実際に買ったので、目を丸くして本当に驚いていた。


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今、アメリカで、ブ一ムになっている2つとは、何・・・

2007-06-16 21:09:03 | Weblog
今、アメリカで流行しているものが2つあるらしい。一つは、ヨ一ガで、も一つは、何と日本のアニメである。
 その日本のアニメ、英語版になった時には、多少修正がなされている。例えば、血が出る所は、血が出ない様にしているとか、窓ガラスが砕け散る所は、ヒビが入るだけにしているとか、裸の姿は、パンツだけでも付けさせているとか、かなり細かく修正されている。つまり、これ等は、法律上での児童の精神的保護を考えての当然の処置となっている。
 (スペインを旅行する日本人が減少している。その理由として、そこでの犯罪に会うことを恐れる為とのこと。近年、スゴイ数の日本人からの被害の報告が上がっている。一方、スペインでは、今、日本語ブ一ムらしく、その理由はただ一つ、原語で日本のアニメが読みたいからだとのこと)
 その点、日本の場合は、テレビのチャンネルをひねれば、いつでも、子どもも大人と同じ番組が見れることになっている。考え方によっては、極めて危険な状態になっていることになる。
 有名タレントがタバコを吸うシ一ン、有名なタレントが笑いながら頭をバンバン打つシ一ン、人の失敗を見て笑うシ一ン、目を覆いたくなるシ一ン、しばしばある。子ども達は、これでもかこれでもかって感じで、無批判に低俗番組を浴びせられている。その一方で、国会で、いじめの問題や不可解な子どもの行動が議論されている。
 日本国民よ、行動に移そう。


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為になるかも知れない本(その119)

2007-06-16 08:17:44 | Weblog
○昭和51年10月8日(金)曇。
 脳血管撮影をした。それでは、はっきりとした腫瘍の所見がなかった。視神経炎かな?脈拍数が正常になった。アンギオでヘパリンを使っていろいろしている内に、それで良くなったなんてことはにだろうが。どうもすっきりとしない。診断を適確に付けるということは、何と難しいことか。検査をこれ以上、して行くべきだろうか?何の検査をどの程度まですればいいのか、それさえわからないのに、僕は主治医なのだ。
○昭和51年10月13日(水)曇。
 正午から、F3の詰め所で、医師とナ一スとの話し合いがあった。僕が、断崖から飛び降りる感じで、「看護婦さんは、もっと優しくあって欲しい」と言ったので(とうとう言ってしまったという感じだが)、婦長さんから、「田原先生は、おごりたかぶっているとある看護婦が言っているのを聞いたことがありますよ」と皆の前で言われショックだった。反省しなければいけない。僕には、人間関係を上手くやって行ける能力はないのだろうか。伝染病棟で、ムンプス髄膜炎を受け持ち、ルンパ一ルが一発で入って嬉しかった。

*詳しい正確な情報は当時持ち合わせていなかったが、全国的にとても忙しい研修病院では、自分の様に苦しんでいるドクタ一は、少なからずいた様である。小児科の3Fの看護師さんの忙しさは、小児の急性期のひどいのがその箇所に集中する為に、夜も殆ど仮眠が取れない状態で、そのストレス状態は正にピ一クに達している感じであった。事実は定かでないが、そのはけ口として、若いドクタ一がいじめになっていると思っていた。私も当時はまだ、正義感に富んで気が強かったせいか、言うべき時には黙っていないで行動に移す主義を取っていたので、それなりに、トラブルメ一カ一になっていた(31年後の今も少なからずそうかも知れませんが・・・)

○昭和51年10月14日(木)雨。
 悪夢であって欲しかった。1歳の女の子が夜22:00にけいれん重積で来院した。既に1時間も強い全身性間代性けいれんが起きていて、激しく動くものだから外来でするセルシンの静注が入らず、30分後にやっと入ったが、けいれんが完全に止まらず、いろいろ試みても同じで、朝の5:00に心停止した。5:55に、梶原先生の判断で、「1時間ほど心マッサ一ジをして生き返らなければ意味がない」ということで、永眠となった。リコ一ルを検査して、リコ一ルの白血球が有意に増加していたので、ウイルス脳炎と診断した。朝の6:00に、小児科医全員が集まった。梶原先生が親に納得してもらえる様に説明してくれた。母親はショックで倒れた。昨日と言い、今日といい、自分はまだ本当に未熟だと思う。麻酔をしてけいれんを止めるべきだったと思う。


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