日本の心・さいき

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為になるかも知れない本(その105)

2007-06-02 08:47:20 | Weblog
 「六年間の懺悔」と題して、卒業記念誌に、昭和45年に卒業されたある人の書かれた内容が記載されていた。

 この六年間を振り返って見るに、月並みな言葉ではあるが、実に長いようで短かった六年間であった。自分はなぜ医学部を志望したのであろうか。大学受験の半年程前までは、他の学部を目指していたのだが、やはりあの当時、祖父が癌で死んだという事が自分を医学の道へ進ませる大きな力になっていたのではなかろうかと思っている。だから、一応は目的を持って大学に入った訳ではあるが、教養の生活でともすると自分の目的を見失っていたのではないだろうか。
 あの二年間でよく記憶に残っている事と言えば、クラブとかまた何物にも煩わされずにゆっくりとできたことぐらいである。一体何を学んだかというと、ただ独語の変化を覚えるのに四苦八苦したことぐらいである。やはりあの縛られた高校時代の生活から抜け出た開放感と、自分の自覚の無かったことがあのような生活態度となっていたのであろう。なぜもう少し語学をしっかりとやっておかなかったのだろうかと、今更ながら後悔する次第である。
 そして、専門に進んでからはどうかというと、これはまた教養とは段違いに忙しかった。まず、あの骨の名前を覚えるのに真っ先に参ってしまった。教養の時代で頭はすっかりボケてしまっていてたのであろう。わけのわからぬ単語をラテン語で丸覚えすることはそれはそれは苦痛であった。しかし、あれだけ苦しんで覚えたのにもかかわらず、現在では、殆ど忘れ去ってしまっている。覚えるのは遅いが、忘れるのはそれは早いものである。
 また、専門の基礎科目がいかに臨床と関連があるかということは、今頃になってやっとわかってきたのであるが、これがなぜもう少し早く分からなかったものかと悔やまれてならない。先輩とか先生方ともっと積極的に話しておくべきであった。そうしていれば、そのことが少しでも避けられていたと思う。
 臨床科目を学ぶ時にも、絶えず基礎に立ち帰るということが今我々に一番欠けているのではないだろうか。ともすると一時的な暗記に陥りやすいものである。それはその時には如何にも効果があるようにみえるが、実際は何ら役に立たないものである。自分自身幾度となくこのような事を体験してきている。医学によらず何事に於いても、単に付焼刃的な勉強ではいずれその報いが自分に来るということはよくわかっているつもりであるが、この六年間何となくズルズルと過ごしてきたと思う。試験に通ってからといって事が済むものではないのである。試験にパスしたということがその科目は終了したというような錯覚を与えることを、我々は常に用心し反省しなければならないし、また錯覚であるとわかっていながらそれに対して自己満足するということにも注意しなくてはならないと思う。
 とにかくこの六年間を振り返って感ずることは、医学の医の字もはっきり理解せず、ただ作られたル一トに乗っかかって考えるわけでもなく、単にぼんやりと過ごしてきたのではないだろうかということである。やはり、マイペ一スであっても、絶えず初心に帰って謙虚に自分を見つめ直し、自分の今まで至らなかった点を常に反省し、それによって今後自分の人生に少しでも進歩的な道が開ければ幸いと思う次第である。


( 参考図書:

・大学をどう選ぶか 週間朝日 昭和58年10月5日増刊号    
・学生時代に何をなすべきか 講談社 昭和60年1月1日発行  
・人生の四季 NHK教育テレビ 日野原重明 )

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