日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

男性の性教育者

2007-06-08 12:25:55 | Weblog
(沖縄タイムス、2007年6月7日 夕刊 1面)

「男性の性教育者」

 沖縄は十代の出産が全国に比べて、二倍も高い。中には中高生も含まれる。親や夫の協力を得て、子育てをしながら卒業する女生徒もいるが、ごくまれ。ほとんどは学業をあきらめざるを得ないようだ。
 双方が生徒の場合、男生徒の親が息子を県外に行かせるなど女生徒側に責任を押し付ける親も少なくないらしい。

 小児科の小濱守安医師が勤務する県立中部病院の事例をまとめたデータによると、成人女性に比べて初診も遅く、赤ちゃんは低体重。未入籍も多い。出産後も、わずか一カ月での離婚や母親がDV(夫や恋人からの暴力)に遭うなどトラブルも抱えがち。十代の出産は、子育て以外でもさまざまな困難が伴うとみてよさそうだ。小濱医師は、赤ちゃんを元気に成長させるために「(親子を)長く外来で診たい。一年ぐらい通ってくれたら大丈夫」と実感している。

 そう話す小濱医師から、目から鱗が落ちる意見を聞いた。この課題を未然に防ぐために「男性の、専門の性教育者による男生徒への性教育が必要。悩みも、性欲求の解消法も具体的に教えられる」と。「十代の男子は性欲求が強く、早く多く欲求を満たしたいと思う。対して女生徒は、彼に嫌われたくない理由だけで拒まない」現実が背景にある。にもかかわらず、科学的専門的に性教育ができる男性は限りなく少ない。

 十代でも出産し、子育てをすると自己決定した女性に「おめでとう、と言える社会をつくらないといけない」と言う小濱医師の思いを共通に持ちたい。(与那嶺一枝)





 男への性教育、・・・まず、ちゃんと学校で教わっている所、ない?!女性の場合は、生理がある関係で、結構、教わっていると思えるが。
 それに反して、現実は、・・・ホテルに宿泊すると、成人ビデオで、まあ、見慣れた人だとそうでもないでしょうが、大学受験生で、そんな世界から隔離されていた人だと、興奮して、一番大切な時に、酷な経験となる。
 周りを見てみるとよく理解できると思われるが、仕事に成功していても、女性関係でも、それで成功するとは、限らない。周囲に、それなりに、いいアドバイスが若い人に与えられる年配の人の存在が必要だと思われる。
 東南アジアに行くと、カラオケ、バ一は、まず、売春婦とくるんでいると思った方が無難である。日本の様に、健全なスナック(カウンタ一から外に出て接客してはいけないことになっている)、世界広しと言えども、極めて少ないと思われる。これは、世界に誇れると私自身は思っている。
 イスラム教のお陰で、世界のエイズの広がりも、性の乱れも、少しセーブされていると思われる。
 サウジアラビアの女性に、直に尋ねた時、「サウジアラビアでは、男性の半分が、一人でなく、複数持っている。別に、女性に非が無くても。お金持ちであればある程、沢山持つ傾向にある」って感じで言われていた。もともと、イスラム教では、多妻は、救済の意味が大きい。しかし、生活の苦しいインドネシアやバングラデシュでは、二人何て、いくらイスラム教の国とは言え、考えられない。仏教国のタイでは、お金持ちが沢山女性を囲っている感じに思えたが、やはり、ここでも、救済の意味が大きい様に感じられた。
 日本の場合は、子どもが出来ても、男性側に、子どもが成人になるまで、ちゃんと面倒を見ないといけないと言う倫理が根本から欠けているケ一スが多い様に思う。


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為になるかも知れない本(その112)

2007-06-08 07:25:19 | Weblog
○昭和51年7月10日(土)曇。
 急患を三人診察した。交換輸血のベビ一、元気に哺乳している。何による黄疸かをいつも考えるべきだと思う。子どもがA型、Rh(+)、母親もA型、Rh(+)、恐らく「特発性高ビリルビン血症」だろう。
○昭和51年7月17日(土)曇。
 山元先生と二人で当番をした。けいれんで3病棟に往診に行った。夜もけいれんが来た。やはり、土・日は多い感じだ。自分も半分医者なんだなあと思った。
○昭和51年7月17日(土)曇。
 「忙しい忙しいと言っても暇はある。マルクのアナリ一ゼをしたり、麻酔に行って挿管を覚えたり、・・・」と松岡先生が僕に言ってくれた。有り難いお言葉。どんなに病棟が忙しくても、遅くとも10時までには終えて、外来に行くようにしよう。「何でもやじ馬根性で診ることだ!」とは、梶原先生の朝の抄読会の時のお言葉だった。後1週間で、まる2カ月になる。初めの2カ月間が一番苦しいとは、オ一ベンの小野先生の言葉。
○昭和51年7月20日(火)晴。
 明日は、給料日(7万3200円だった)、バイト禁止で、時間外手当も、ボ一ナスのかけらも、研修医にはない。大学に行った松岡先生も、「涙が出るほど給料が安くて悲しかった」と言っていた。恵ちゃんが悲しい顔をした。僕が安月給で苦しんでいるのに、周りの人から、自分だけのんびりしている様に思われていると考えて・・・。
○昭和51年7月23日(金)雨。
 小野先生が、いい知らせがあると言うので、よく聞くと、不明熱の主治医になれということだった。これで、受け持ち患者数は、10名。今までに退院させたのは、7名。2ヶ月の間に、これだけもう経験したのだ。テタニ一(ビタミンD依存性クル病)の患児も、ファンコニ一(貧血)の患児も、難しいのだ。
○昭和51年7月26日(月)晴。
 朝、小野先生のCPの患者さんが死にかけていて、先成先生と小野先生と僕が、汗だくだくになって蘇生した。午後の1時半からマルクになっていたのに、その15分前から用意をナ一スがしていて、「1時半からするのだから、その前に来ておくべき」とガンガンナ一スに言われ、小野先生と僕が叱られた。小野先生は、決してナ一スを叱ることがない。こっち(ドクタ一側)が謝っていれば万事丸く収まると小野先生はいつも言う。自分には耐えられない。


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