
○昭和51年10月8日(金)曇。
脳血管撮影をした。それでは、はっきりとした腫瘍の所見がなかった。視神経炎かな?脈拍数が正常になった。アンギオでヘパリンを使っていろいろしている内に、それで良くなったなんてことはにだろうが。どうもすっきりとしない。診断を適確に付けるということは、何と難しいことか。検査をこれ以上、して行くべきだろうか?何の検査をどの程度まですればいいのか、それさえわからないのに、僕は主治医なのだ。
○昭和51年10月13日(水)曇。
正午から、F3の詰め所で、医師とナ一スとの話し合いがあった。僕が、断崖から飛び降りる感じで、「看護婦さんは、もっと優しくあって欲しい」と言ったので(とうとう言ってしまったという感じだが)、婦長さんから、「田原先生は、おごりたかぶっているとある看護婦が言っているのを聞いたことがありますよ」と皆の前で言われショックだった。反省しなければいけない。僕には、人間関係を上手くやって行ける能力はないのだろうか。伝染病棟で、ムンプス髄膜炎を受け持ち、ルンパ一ルが一発で入って嬉しかった。
*詳しい正確な情報は当時持ち合わせていなかったが、全国的にとても忙しい研修病院では、自分の様に苦しんでいるドクタ一は、少なからずいた様である。小児科の3Fの看護師さんの忙しさは、小児の急性期のひどいのがその箇所に集中する為に、夜も殆ど仮眠が取れない状態で、そのストレス状態は正にピ一クに達している感じであった。事実は定かでないが、そのはけ口として、若いドクタ一がいじめになっていると思っていた。私も当時はまだ、正義感に富んで気が強かったせいか、言うべき時には黙っていないで行動に移す主義を取っていたので、それなりに、トラブルメ一カ一になっていた(31年後の今も少なからずそうかも知れませんが・・・)
○昭和51年10月14日(木)雨。
悪夢であって欲しかった。1歳の女の子が夜22:00にけいれん重積で来院した。既に1時間も強い全身性間代性けいれんが起きていて、激しく動くものだから外来でするセルシンの静注が入らず、30分後にやっと入ったが、けいれんが完全に止まらず、いろいろ試みても同じで、朝の5:00に心停止した。5:55に、梶原先生の判断で、「1時間ほど心マッサ一ジをして生き返らなければ意味がない」ということで、永眠となった。リコ一ルを検査して、リコ一ルの白血球が有意に増加していたので、ウイルス脳炎と診断した。朝の6:00に、小児科医全員が集まった。梶原先生が親に納得してもらえる様に説明してくれた。母親はショックで倒れた。昨日と言い、今日といい、自分はまだ本当に未熟だと思う。麻酔をしてけいれんを止めるべきだったと思う。