日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

為になるかも知れない本(その114)

2007-06-10 07:32:12 | Weblog
○昭和51年9月1日(水)晴。(約31年前の自分の日記より。今は、県病は建て替えて、二次救急病院となっている。当時は、小児の救急医療がどこでも大問題になっていた。宮崎市内の小児科開業医には、どこも入院設備がなっく、深夜の救急は、県病に来ることが多かった。小児に関しては、当番の小児科医が診ていた。)  待望のステレオが来た。実を言うと、恵ちゃんがどうしても欲しいと言うので、買ってしまったのだ。僕としては、借金をしてまでも買おうとは思わなかった(12回払いで、アパートの同じ階の人に、保証人になってもらった)。しかし、ステレオの音とは、いいものだ。
○昭和51年9月7日(火)晴。  本がだいたい出来たので、とても嬉しい。もう少しだ(29ぺ一ジからなる小児科臨床検査の考え方なる小雑誌を殆ど手書きで作成した)。未熟児の統計の生理も、先成君として19時までに終わった。その前に未熟児の眼底を倒像鏡で見た。難しくて、一人前になるには、かなりの熟練が必要だと思った。新生児の取り扱いの上手な医者になりたいものだ。
○昭和51年9月8日(水)曇。  最近、又、帰るのが遅くなっている。出来たら、20時までには帰るべきだ。朝は、7:30には、いつも着いておくべきだ。しかし、○○先生なんか、30万も給料をもらっていて、いつも来るのは朝の9:00過ぎだ。働いた分だけ、金を出せ!
○昭和51年9月9日(木)曇。  もう、3カ月経った。だいぶ慣れた。誰だって、同じ疾患を何度も受け持てば、ある程度は出来だす。当たり前だ。臨床と言うのは、どうしても経験が必要で、経験を積めば、必ずある程度までは行く。こんな病院であれば、1~2年で。しかし、そこから先は平行線の様な気がする。こんな野戦病院に長くいると、理論のない小手先の医者になってしまいそうだ。僕は、病態生理の強い理論家の医者になりたい。

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