黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

「板上に咲く」第8話

2024-03-31 | 日記

昭和7年(1932)

 5月の国画会展に出品した「亀田長谷川邸の裏庭」が国画会奨学賞を得、

 同時にボストン美術館・パリのリュクサンブール美術館の

 購入作品となった。

 「これからは版画で生きていこう」と決意を固めた。

 しかし、ようよう暮らしていくのに精いっぱいな毎日であった。

  「亀田長谷川邸の裏庭」 1932 多色摺木版 棟方志功記念館

   

   「十和田奥入瀬C」 1932年 棟方志功記念館

 

  奥入瀬渓谷の水の流れを表現した連作3点の内1点。

   川上澄生の作風から脱却を図るべく、棟方は肉筆画とは違う版画としての

   「線」と「面」の探求に邁進。

   「白」と「黒」の対比を意識し、対象物の単純化と抽象化を試みている

   ことがうかがえる。

 

   一方、棟方は、挿絵画家としての道も歩き始めていた。

 佐藤が主宰していた雑誌「児童文学」に挿絵画家の一員として迎えられた。

 「子供のための読み物」を志した意欲的な本だった。

 棟方は、宮沢賢治、百田宗治、伊藤整などの新作童話に挿絵を提供。

 人から人へと芋づる式に人脈は広がり、詩集の表紙や挿絵を描くことで

  糊口を繋ぎつつ、棟方は独自の版画の追及を進めていった。

 

  宮沢賢治作「グスコーブドリの傳記」挿絵 (<児童文学>第2号掲載)

 

     

     *棟方らしいユーモア? 

       「絵の中にしっかり「ムナカタシコウ」と書き込んでいる」

  加えて天性のバランス感覚とデザイン力が棟方にはある。

   独自の世界を展開させ始めた棟方に着目する人もあり、

  「版芸j術」昭和8年(1933年)3月号にはいち早く棟方の

   特集号が組まれ、棟方は着実に独自の版画の道を歩み始めていた。

     

 

 1934年(昭和9年) 東京 中野 

 

版画の世界に踏み入って6年あまり。

 その作風と創作のスタイルは、

彼を知る芸術家たちのあいだで評判になっていた。

 何よりも棟方が夢中になったのは、版画がもつ広がりだった。

僅か30㎝四方の板に描く世界。

それなのに無限な広がりがある。

 

この世界のすべてを板上に表現できる気がした。

 こうして、棟方の行くべき道はようやく定まった。

 

遊びに来ていた松木が・・・

     

 ーー そのうち棟方志功は化けるのではないか? ーーー

皆がそう噂しているぞ、松木は棟方に伝えて励ますのだった。

   

 「(化ける)づで、どっだ意味がね? 」棟方

 松木「想像もしねがったすごぇは版画家になる、という意味だ」

 

 棟方が今考えているのは~定型の紙一枚で完結する版画ではなく

 何枚もの連続させて構成する大型の版画だ。

  横に長い「絵巻版画」である

 版画のために自分に何ができるのか、真剣に考えていた。

 

 松木「絵巻作るなら、まずは文章、要るべ。

    誰が書いた文章使うんだ?」 

 棟方「最近は金がなくで、本も雑誌も買えねんだ。

        だばって・・・」

松木は帰りがけに、「これ。 いろいろ、

   読み物載ってるから、読んでみろ」

 手に持っていた本を棟方に押し付けた。そして帰っていった。

 「新詩論」と表紙に書いてある。

  みると、何かが挟んである…十円だった。

 「あいずは、そういうやづなんだ」棟方が、ぽつりと言った。

 チヤは、そっと本を広げた。泣き出してしまいそうだった。

 そのページを声に出して読んでみた。

   大和し美し

    大和は國のまほろばたたなずく青垣山隠れる大和し美し

    黄金葉の奢りに散りて沼に落つれば 踠くにつれて底の泥

     その身をつつみ離つなし・・・

 詩人、佐藤一英が書いた「大和し美し」

 倭建命の一代記を描いた三千字に及ぶこの長詩が、その後、棟方の

 人生を変えるものになろうとは、このチヤが気づくはずもなかった。

 

 佐藤一英 「大和し美し」の作詞者。 1899年 愛知県生まれ。

          

     


続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。