昭和7年(1932)
5月の国画会展に出品した「亀田長谷川邸の裏庭」が国画会奨学賞を得、
同時にボストン美術館・パリのリュクサンブール美術館の
購入作品となった。
「これからは版画で生きていこう」と決意を固めた。
しかし、ようよう暮らしていくのに精いっぱいな毎日であった。
「亀田長谷川邸の裏庭」 1932 多色摺木版 棟方志功記念館
「十和田奥入瀬C」 1932年 棟方志功記念館
奥入瀬渓谷の水の流れを表現した連作3点の内1点。
川上澄生の作風から脱却を図るべく、棟方は肉筆画とは違う版画としての
「線」と「面」の探求に邁進。
「白」と「黒」の対比を意識し、対象物の単純化と抽象化を試みている
ことがうかがえる。
一方、棟方は、挿絵画家としての道も歩き始めていた。
佐藤が主宰していた雑誌「児童文学」に挿絵画家の一員として迎えられた。
「子供のための読み物」を志した意欲的な本だった。
棟方は、宮沢賢治、百田宗治、伊藤整などの新作童話に挿絵を提供。
人から人へと芋づる式に人脈は広がり、詩集の表紙や挿絵を描くことで
糊口を繋ぎつつ、棟方は独自の版画の追及を進めていった。
宮沢賢治作「グスコーブドリの傳記」挿絵 (<児童文学>第2号掲載)
*棟方らしいユーモア?
「絵の中にしっかり「ムナカタシコウ」と書き込んでいる」
加えて天性のバランス感覚とデザイン力が棟方にはある。
独自の世界を展開させ始めた棟方に着目する人もあり、
「版芸j術」昭和8年(1933年)3月号にはいち早く棟方の
特集号が組まれ、棟方は着実に独自の版画の道を歩み始めていた。
1934年(昭和9年) 東京 中野
版画の世界に踏み入って6年あまり。
その作風と創作のスタイルは、
彼を知る芸術家たちのあいだで評判になっていた。
何よりも棟方が夢中になったのは、版画がもつ広がりだった。
僅か30㎝四方の板に描く世界。
それなのに無限な広がりがある。
この世界のすべてを板上に表現できる気がした。
こうして、棟方の行くべき道はようやく定まった。
遊びに来ていた松木が・・・
ーー そのうち棟方志功は化けるのではないか? ーーー
皆がそう噂しているぞ、松木は棟方に伝えて励ますのだった。
「(化ける)づで、どっだ意味がね? 」棟方
松木「想像もしねがったすごぇは版画家になる、という意味だ」
棟方が今考えているのは~定型の紙一枚で完結する版画ではなく
何枚もの連続させて構成する大型の版画だ。
横に長い「絵巻版画」である。
版画のために自分に何ができるのか、真剣に考えていた。
松木「絵巻作るなら、まずは文章、要るべ。
誰が書いた文章使うんだ?」
棟方「最近は金がなくで、本も雑誌も買えねんだ。
だばって・・・」
松木は帰りがけに、「これ。 いろいろ、
読み物載ってるから、読んでみろ」
手に持っていた本を棟方に押し付けた。そして帰っていった。
「新詩論」と表紙に書いてある。
みると、何かが挟んである…十円だった。
「あいずは、そういうやづなんだ」棟方が、ぽつりと言った。
チヤは、そっと本を広げた。泣き出してしまいそうだった。
そのページを声に出して読んでみた。
大和し美し
大和は國のまほろばたたなずく青垣山隠れる大和し美し
黄金葉の奢りに散りて沼に落つれば 踠くにつれて底の泥
その身をつつみ離つなし・・・
詩人、佐藤一英が書いた「大和し美し」
倭建命の一代記を描いた三千字に及ぶこの長詩が、その後、棟方の
人生を変えるものになろうとは、このチヤが気づくはずもなかった。
佐藤一英 「大和し美し」の作詞者。 1899年 愛知県生まれ。