黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

「板上に咲く」第2話

2024-03-24 | 日記

1928年(昭和3年) 十月 青森

 夜半である。

 家の者は皆とっくに寝てしまった。

 ふと目が覚めてしまって、もう眠れなかった。

 裸電球をつけ、三畳の隅にちんまり控えている机の前に正座した。

 「看護婦の心得」 他~ノート、硯、墨、筆、何本かの鉛筆が

 きれいに揃えられている。いつも寝る前に…習慣である。

  赤城チヤは18歳で、この冬には19歳になる。

 小学校から夢見ていた看護婦になるべく、目下受験勉強中である。

        

 チヤは14歳の頃に雑誌でナイチンゲールの物語を忘れることが出来なかった。

       

 遠い異国の人の話だけれど、こんな人実際にいたんだ、婦人であっても人の

 役に立てるんだ、社会のために働けるんだ~と胸を熱くした。

 いまの自分にとって一番の選択だろう。いや、絶対に必要なことだと、

 心が決まった。 ヮ、看護婦になる!

 

  と、小学校の卒業と同時に両親に宣言した。

 二人ともハトが豆鉄砲を喰らったような顔…衝撃的過ぎて

 何も言えないようだった。

 母は、津軽のお叔父ちゃが縁談持ってぐるで、看護婦になるで、

 そった馬鹿なこど、おメは!

 縁談が持ち込まれると知って、チヤはいよいよ腹を括った。

 時間をかけて粘り強く父を説得した。

 真面目で穏やかな気性の父は、娘の言うことを黙って聞いていたが

 、とうとう首を縦に振った。

 それでまたチヤは母にこっそり台所へ連れて行かれた。

 ー看護婦になる試験の銭コはお父さんが出す心算だはんで、

 まんず、しっかり勉強すだと。

 チヤはうなずいた。

 そこで初めて、涙が出た。  

 そんなことがあって、目下、看護婦資格取得試験のために猛勉強中である。

  

  朝、いちばん、チヤは昨夜遅くにしたためた合格祈願の札を懐に入れて、

 善知鳥神社(うとうじんじゃ)を訪れた。

      

  「この善知鳥神社は、北国に生息する海鳥で、その肉は美味だと言います。

    この鳥にまつわる伝説があります。善知鳥はひな鳥を上手に隠し過ぎて、

    親鳥が「うとう」と鳴いてひなが「やすかた」と答えないと、親鳥でも

    見つけられなくなってしまう。ある日、猟師が親鳥の鳴きまねをしてひなを

    捕らえると、一滴でも浴びると幽鬼になってしまうという血の涙を流しながら

    追いかけてきた。その涙を浴びて幽鬼になってしまった猟師は、旅の僧侶に

    自分の蓑と袈裟を預け家族に届けてほしいと頼んだ。」

 

    これから先、 棟方の板画の「柵」に「善知鳥」が多く出てきますし、

    彼の若いころ、この善知鳥神社の境内で遊んでいた思い出の場所でもある。

        

    また、能の演目に善知鳥と北国の風景が彼の中で「白と黒」の絶対性で

    掴みたいとうイメージを生んだようです。

 

   「善知鳥」の1部 作品

        

   お参りしたその足で、チヤは善知鳥神社のすぐ近くにある川村イトの家、

  川村歯科医院に立ち寄った。

  イトはチヤのいちばんの友だちで、小学校の同級生だった。

  何をするにも、いつも一緒。

  この秋、看護婦の受験をするのも一緒。

   そんなわけで、二人はほぼ毎日、どちらかの家へ行って一緒に受験勉強を

  していた。

 

 その日も、 イトの部屋に入るなり美味しそうな羊羹を出して~

 「これ、三浦甘精堂の。チヤちゃ、こごのお菓子好きはんで、買っでけだ。」

  ・・・などと、おしゃべりが始まった。

 チヤちゃ、三浦甘精堂の丁稚さ、知っでるか?」

 「いんや、知らねども?」

       

(因みに、この三浦甘精堂 菓子店は現在も健在で老舗の菓子店として有名です。)

 

  以下、イトが母から聞かされた話~

 正雄さ、いう人なんだけど。まんず、面白ぇんだ。

   そりゃもう、おかしな絵コ、 描いででね」

 「絵コ?」

 「すだ。絵コ」

  チヤはべつだん絵に詳しいわけではないが~丁稚どんが絵を描いているなんて

  ずいぶんとっまた高所な趣味じゃないか…と素直に受け止めた。

 

  が、その逆なんだとイトが笑みを嚙み殺すのが大変な様子だ。

 「なんもなんも、そった高尚でねんだっで。

  絵コっだで、なんだががんだが、

   さーっぱりよくわがんねもん描いでんだよ」

 

  以下、イトが母から聞かされた話ーーイトが話す。

 

  古藤正雄はいま、21歳で、小学校を卒業してすぐ、県下随一の菓子店、

  三浦甘精堂に菓子職人見習いとして住み込みで働き始めた。

  大変真面目で好青年。手先も器用、細やかな菓子作りができる。

  これは将来が楽しみだと、主人にも見込まれていた。

  ところがあるときを境に、人が変わったように陰気な性格になってしまった。

  何かを深く考え込んでいるようなので、何か悩み事でもあるのか…

  さては惚れた女子でもできたかと主人が問い質した。

   すると正雄はいかにも沈痛な面持ちでこう答えた。

  ・・・ ゲージツです。ヮだば、ゲージツに身をやづしているはんです。

  その芸術とは、絵のことだった。

  ゲージツだ、ゼンエーだと言われても

   主人にはさっぱり理解できなかった。

   もう少し詳しく聞かせてくれ~ その ゲージツカというのは

    どこの誰ぞ?

   ・・・ゴッホです、と 正雄は言下に答えた。

        「… ゴッホ ? 」

   イトが口にしたその言葉を、チヤは思わず繰り返した。

   初めて聞く名前、不思議な響きである。名前なのかどうかもわからない。

   イトはうなずいて、「こっからが面白ぇんだ」

    話す前からも笑っている。

 

   正雄は青森の若い画家たちの集まりに参加していて、

   前衛芸術やら西洋の絵画には何の知識もなかったが、ただ絵を描くのが

   好きで興味があった正雄がすっかり取り憑かれてしまったのが、「ゴッホ」

   という名前の西洋の画家だった。

   そんな名前の画家になぜまた身をやつすほど心酔してしまったのか

   主人にはさっぱりわからなかった。

   ほとんど片恋いのように思い詰めた正雄は、とうとう寝込んでしまった。

  

   正雄の部屋を覗いてみると~なんと猿股ひとつの半裸になって

   ふすまの表面いっぱいに ぐちゃぐちゃに色を

   塗りたくっているではないか、それも、菓子用の餅粉、紅粉

   草色、黄色、紫の粉・・・油絵具の代わり???

   かみさんは驚きの あまりすて~んんと、ひっくり返ってしまった。

 

   アハハハ、と思わずチヤは笑い声をあげた。「やっだ、面白ぇ!」

  「ねし、面白えだべ? アハハハ」 イトも笑い過ぎて涙目になっている。

 

   秋の日は釣瓶落とし、という。薄暗くなってきたなぁ~

   夕餉の支度も手伝わなければならない、チヤはこたつの上の教科書を閉じて

   「へば、ヮ、そろそろ帰るはんで」 立ち上がりかけると、

 

  「まぁま、ちょっと待ってけろ」イトが袖を引っ張てまた座らせた。

  「いまがら、たんげ(すごく)面白ぇ人が来るはんで。

        もうちょっとだけ、な?」

  「さっきのゼンエーゲージツの話。そった絵を描いでる

   絵描きがいまから来らんだし。

   会っでけって、面白ぇがら。な? たんげ面白ぇがらさ」

 

  「イトちゃあ。 イトちゃ、いるがあ」

    元気のいい、野太い呼び声が聞こえてきた。

   「ほら、来だし」 イトはくすくす笑ってから…

   「はあい、ただいま参りまぁす」

   

 玄関からの声…「ちょっ、ちょっと待っでよスコさ!

           まんずまぁ、足が泥だらけでねの!

         いま雑巾持ってくるはんで…

           チヤちゃ、ちょっとぉ、チヤちゃ!」

    イトが困惑して呼ぶ声がした。

 

  もじゃもじゃに波打つ長髪、分厚いレンズの黒眼鏡。

  秋風が身に染みる季節だというのに、つんつるてんの紺絣の着物、

  裸足に下駄履き。どこを歩きまわってきたのか、足は泥だらけ、

   濃い毛が絡みつく脛は泥ハネだらけ。

  大きなずだ袋のような斜めがけにし、腰には縄で魚籠をくくりつけ、

  弓矢のような絵筆が何本も突き刺さっていり。

   ・・・画家先生といよりも、愛嬌のある子熊のような。

           

   やがて生涯の伴侶となるその男。

     棟方志功と、チヤはこうして出会ってしまった。

 


続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。