昨日の続き…
このあたり 丸く円を描いたように・・・後円部 ちょっと写真では全体が写せないのですが・・
ぐるりと 実際に歩いて 墳丘の形が 円形であることが分かりました。
さて、現在 実際に作業している個所へ 移動。
そこは、この調査に多大なご協力と御理解をいただいた 現在も 住まわれているお宅の前の畑を発掘していました。
「土」は「語り部」なんですね。 何世紀にもわたり、無人の時代 そして人が住んでいた時代の証が「層」となって
その時代を遺しているのです。 考証は土の種類や出土品などで。
新しい時代の層の下に・・・古墳の実態を証明するものが・・・古墳時代の「土」が顔を出した。
解明するには まだ時間がかかるようです。
現在、調査作業員さんたちが 細かく丁寧な仕事を続けていらっしゃいました。
説明会の為に わざわざ 出土品の一部を並べていただきました。
眠りから覚めた出土品たち・・・その中の 埴輪が
小さな破片を復元して姿を現した・・・・かなりの大物? だと思います。
説明は町生涯学習課主任技師の若さんから・・・・いろいろ聞いてみたかったけれど・・ちょっと遠慮
「*埴輪は古墳に立て並べることを目的として作られ古墳の装飾品。 日常的に使う実用品ではないのです。
埴輪は この写真のように何の変哲もない土管状の埴輪で「円形埴輪」と呼ばれている。
埴輪は 古墳の誕生と同時に出現し、古墳時代の終わりまで一貫して用いられたと・・・・ものの資料から 拝借しました。 」
他に 形象埴輪と呼ばれ「馬」 「人」 「馬具」などもあるそうですが、 ここ 御所山では これから どんな埴輪が? これも楽しみ。
面白かったのは・・・こんなエピソードが。
この古墳調査作業員の一人 40年前まであった酒造場がかっての実家 そこで「成務正宗」という銘柄の清酒を製造していたという。
また、銘柄の由来が・・・
(西日本新聞 平成26年2月14日 掲載)
その記事には、こんな話が・・昭和初期には、熊襲征伐で九州を訪れたとされる景行天皇の第4皇子・成務天皇の陵墓ではないか、と
推察する新聞記事が出たという。
この清酒「成務正宗」 将に、いわく因縁の命名? まったく歴史的な謂れがなければ・・・名前にはならない訳ですからね。
おまけに・・・酒造場の当主がその時代の出来事を スクラップし整理保存したものも。
またその時代に酒造場の生活に使ったと思われる器の破片も並べられておりました。
まだまだ 発掘は続き・・・ 古墳の規模は? どんな工法、材料はどこから?
説明の中で・・・こんな話も ポロリと・・ まだ なんとも言えない ひとつ
神社の建っている柱の基礎部分に これは?という礎石が 何食わぬ顔して 誰からも気づかれないまま風化寸前?
これから 「この石は?」 「下の石に 弁柄の赤い色は?」 *弁柄 帯黄赤色の顔料 成分は酸化鉄 (紅殻)
この「赤」を追いかければ・・・・ この謎解きには 十津川警部登場? なんてのも愉快じゃないですか。
それに 私的にはこんな興味も
古墳築造に使った 大量の「石」はどこから 運んできたのか? どんな方法で どのくらいの人手で 「部所」によっても石の種類は違うのだろう。
ここ九州だけの石で 間に合ったのだろうか
あの太閤秀吉が大阪城 の石垣を築くために 遠く四国からあっと驚く輸送法で運んだ ・・・ もっと遠い 古墳時代の運搬は どんな方法だったろうか。
「石棺」の形状は どんな大きさ は・・・・・興味は尽きません。
多くの新しい発見があるのではと ワクワク しています。 まだまだこの先「墳丘規模」 そして「周濠・周堤規模確定」と続く・・・
こうして 古墳の謎解きの為には 現在 苅田町では 古文書や・古写真 資料等を収集しているそうです。
みなさんの中で、明治から昭和にかけての「御所山古墳及び周辺の貴重な資料類 お持ちでしたら是非ご協力を。
苅田町歴史担当まで ご連絡ください。
お節介ですが・・・古墳を「まちの宝」として次代に引き継ぎたいと思う 強い気持ちからのお願いで~す よろしく。
いやぁ~ 古墳の話で 興奮! してしまいました。
次回の 発掘調査説明会が 待ち遠しい。 関係者のみなさん 頑張って 応援しています!