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黄昏どきを愉しむ

傘寿を過ぎた田舎爺さん 「脳」の体操に挑戦中!
まだまだ若くありたいと「老い」を楽しんでま~す

苅田町のこの「1区画」はアパート群と倉庫街?

2023-02-28 | 日記

 苅田町の区画整理事業で大掛かりな区画工事が進行中。

 第1期はから現在第2期に入っており、ここ10年で昔の面影は無くなった。

 私がこの地に帰って来て20年。

 当時は、どこまでも続く田園風景しかなかった。

  

 

  

 以前に(2020.6.02 のブログ)で変わりゆく一部を紹介していますが

 それ以降、もう、ただただ驚くばかりの変貌ぶりです。

       

 

 区画は、

 日産自動車の工場前の幹線道路から「与原」側に向かっての農地全体

  「黄色」の部分

 ほとんどが埋め立てられて~現在は、多くのアパート群に挟まれ

 一戸建ての新築家が…ほんの少々。

 とにかく、ここは「アパート村」になりそう。

 企業の寮、社宅としての借り上げ棟、そして一般賃貸。

 東建、積水、大和などの大手をはじめ、様々な業者が勢ぞろいです。

 

 そして今、この区画の海側~黄色い部分から「日産」に向けての

 地区が、凄まじい変貌ぶりです。

 もう、あっというまに「大型の倉庫群」の出現です。

 物流倉庫がひしめき合っています。

 その数 15以上かもしれませんね。

 

 北九州方面からの高速道、北九州空港、苅田港、門司港に隣接

という地の利と、更地の大きさ、地価の安さがこうした

結果に結びついているのでしょう。

 

散歩のコースに建てられている倉庫群を追いかけてみました。

 以前打ちっぱなしのゴルフ場があったほぼ全域は埋め立てられて

 次々に倉庫群が建てられています。

 その大きさが半端じゃない~この倉庫も端から端まで

 棟の長さは、数百メートルにも。

 まだ工事は継続中。

 

 

  ここは「日通」

 

  こちらも大きい~

 

 

  奥行きも凄いね…

 

 

  横幅も大きい、大きい~

 

 

 先へ歩きます~ RENGO って看板が

 

 

 道路を渡って~東向きに300mほど先へ

 並んで「工場」が続いてます。

 幹線道路に出ました。

 曲がってすぐに 「鶴丸」さんの事務所、倉庫~お隣りへ。

 

 

 この道路の東側はまだ埋め立て前・・・

 目の前に見えるほど近くに感じます・・・「二崎山」が。

 

 

  少し与原よりの「第2期区画」では まっすぐ道路も完成

  右側の造成もまじかです。

 

 

  丁度この角地では現在、大型のマンションが建設中

  建設業者の方が忙しく動きまわる姿が金網越しに見えます。

 

 

 ちょうど40分ほど歩きました。

 この辺は、最初に完成した処なので、落ち着いて来ました。

 道路の両側、奥にかけて…アパートが並んでいます。

 

 

 

 我が家からこの区画を、外周で速足だと40分、

 速足と、ゆっくりと交互で歩くとたっぷり個1時間ほどの

 ウオーキングとしてはちょうどいい道です。

 車にも、人にも 会うこともなく? 静かに散歩できます。

 

 でも、従来の 「人の息遣いが聞こえる町」ではありません。

 「向こう三軒両隣り」なんて古語もなく

 若い共稼ぎ夫婦世帯ですから、日中は声もなく~人も動かず。

 朝晩、犬の散歩で出会う程度 真の意味の「住む」ところだろうか?

 と、ふと 思う。

 まだまだ変わりゆく この地。

 これから50年後、このアパート群はどんな姿に。

 住む人もなく、建物は老朽化し、朽ち、壊れ・・・

 ゴーストタウンに? 

 

  また、昔の 広い海に戻るだろうか・・・・

  

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桜の芽が ちらほらと~ 美術展へ

2023-02-27 | 日記

   

 

 みやこ町の「みどりの館」

 第17回 美夜古の風 アート作品展  

 土曜日に最終日  急いで行って来ました。

 

 今川の堤を走りながら、左手の河川敷には枯れた桜の樹の並木が続く。

 ちらほらと小さな緑の蕾? いや まだ芽でしょうか

 でも、いくつかには 小さな花が顔を出している樹も・・・

 もうすぐ一斉に 花開き、満開もすぐそこまでようです。

 菜の花も負けずに 風に揺れていました。

     

 

   

 

 この二階に上がる階段が 少しきつく感じられる?

 ようになった… 体力減退! 運動不足 いや、加齢のせい…

 記帳を済ませて~展示作品に向かった。

 

この「美夜古の風」にも、もうずいぶんと通っている。

出品者の顔ぶれもあまり変わらない~

絵の雰囲気も、「変わらない」「変わった」「変わりつつある」

何度もその方の「絵」を前にしていると、分かってくるものだ。

今回は、通じて なんか物静かな感じでした。

 おお! という作品もなし。

 むしろ 全体的に もの足らない? かな?

 

 60点以上の中から いくつかの作品を紹介しましょう。

 

 いつも変わらず、シンプルで 色彩感覚のいい1枚

 「日本海 雪の砂丘」

 

  雪の砂丘の向こうは~日本海!

    こんな景色はめったに見ることはできないですよ。

 私も以前、赴任先は「松江」

 冬の山陰の海は、黒くどんよりとして、風は冷たく肌を切るほど~

 マンションのドアーの下の隙間から入る風の、ほんとに冷たいこと。

 単身赴任での1年間は、もう、忘れることのできない思い出です。

 

  「白い泪」

 

  パネルに反射してしまいました。

 

  「早暁のカレル橋」

 

     水彩ですが いい雰囲気です。

  「カレル橋」 チェコのプラハに流れるヴルタヴァ川に架かる橋です。

  神聖ローマ皇帝カール4世の治世に45年もの歳月をかけての完成

  きれいで、凄い橋。

  

   夕闇迫る頃には~

  

 

  海外取材の絵には、やっぱり中身に歴史を感じますね。

  他にも、今回の会場には数点、海外のものがありました。

 

 「上高地」

 若いとき 夏休み休暇を取って、上高地~白馬~穂高との山々を単独で

 歩いたのも、もう50年も前のこと。

 

 「公園の午後」

   何でもない風景、どこにでもありそうな・・・

    かえって落ち着くのは、誰もが感じるひとときでは?

 

    「チェスキー・クルムロフ」

チェスキー・クルムロフ…

 この名前に記憶がある。

 チェコ・南部ボヘミア州の小都市で、世界遺産にもなっているのだ。

 「美しすぎる街」と言われ、人気の街である。

 歌にもある「モルダウ川」に囲まれた街です。

 画家なら一度は描いてみたいと思うでしょう~

 日本の画家でも多くの画家がヨーロッパで勉強しているし、パリを中心に

 近隣の国に足を向けて絵筆を取っている。

 日本の風景と違って…「絵になる」風景ですからね。

 

 作品の中で海外の風景は珍しかったので~。

 実際のこの都市の写真を参考に。

 

 

 湾曲したモルダウ川が街の景観を一層引き立たせている

 

「トンバの旅」

 この方、もしや、ヴェトナムへ行った?

 このトンバも 古き街なんです。

 素材は何だろう? 模様なのか…

  古き昔の 原住民の生活? 

  この街でつくられる庶民のバッグの模様に、花柄は多い。

  鳥や植物をあしらったものも…

 

 

 最後は ほんの近くの 見慣れた、そしてほっとする風景で

 

 阿蘇 双子岳

 

 いつも重厚で 落ち着く1枚です。

 

 今回尋ねて 一番気に入ったものを見つけましたよ。

 窓辺にさりげなく…いや、きっと 思いを込めて活けた逸品!

 センスの良さ 

 さすがギャラリーを切り盛りする人だね。

 

 

 絵を鑑賞する上で、会場の雰囲気は大切です。

  これぞ、「おもてなし」かな。

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山下清 「東海道五十三次展」へ

2023-02-26 | 日記

 

 2月に始めに隣町の「行橋市増田美術館」からの案内状が届いていた。

 昨日、初日に合わせて会場へ。

 全国の美術館で巡回展示を行っており、今回は 福岡県の、

小さな市である「行橋市で開催されること自体が大変に画期的。

ともかく期待してその日を待っていました。

私も、山下清としての企画展は初めて。

それも、珍しく「貼絵」ではなく彼が版画を作るためにペン画で

描かれたものを版画にしたものの作品展。

 49歳で亡くなった彼ですが、この大作が自身による「版画」で

あったらととても残念です。

 

東海道五十三次と言えば、歌川広重ですが、その着想を得て

昭和の「五十三次」を昭和40年(彼が43歳の時)から約4年間を

費やして皇居前広場から終点、京都三条大橋まで取材とスケッチの

旅を続けて完成させたものです。

 

 まずは旅の始まり「皇居前広場」からスタートしましょう。

作品は全部で55点にもなるものすべて

「山下清管理事務所」所蔵の物です。

 

 全ては掲載できませんので、私が気に入った箇所とします。

「皇居前広場」

 

因みに 広重のスタートは、ご存じ 「お江戸日本橋」からです

  

 

 品川~川崎~横浜~保土谷~戸塚~藤沢~平塚

 

8番目 平塚 こま山

 

 時代が変わると場所の景色も・・・(広重)

   松並木は・・・いまでもある?

 

 

11番目 箱根旧道 

    

 

 

 

 三島~沼津~原~吉原

15番目 吉原(富士)

 

 

 広重 

 

 江戸の松並木が~新幹線? でも、

     富士山は変わらず で~んと居座っていますよ

 

 吉原~蒲原~由比~興津~清水

 

19番目 清水 羽衣の松

   

静岡~丸子~岡部~藤枝~島田~金谷

 

25番目 金谷 牧の原

   

 

日坂~掛川~袋井~磐田~浜松~舞阪~新居~白須賀~二川~豊橋

 

豊川・番外 いなり様の大将

     

 

 御油・赤坂 ~藤川~岡崎

 

39番目  岡崎 矢矧橋

  

 

ここで 山下清が語った一節を・・・

  「太閤さんの子供の時の名は日吉丸なんだな。

   日吉丸は ほんとうにルンペンみたいなことをしたんだな。

   昔、ここにかかった橋の上でどろぼうといいあいしたんだな。

   どろぼうはひとりじゃなかったんだな、ぼくならどろぼうの通りそうな

   橋の上なんか寝ないな、駅の待合室でどろぼうにあうことはめったにないな。

   それでも一ペンだけどおまわりにぼくがどろぼうとまちがえられて、二晩

   ろう屋にとめられてことがある災難というんだな」 《山下清》

 *清の独特の語り口ですね。 それと、「ルンペン」って表現、懐かしい! 

 

 知立~成美~名古屋

 

第42番目  名古屋 熱田神宮

 

 

桑名~四日市~石薬師~庄野

 

第46番目 庄野 ふつうの景色

 

 

 この庄野といえば、広重の中でも有名な場面・・・

 広重 庄野

 

  見事な表現ですよね~

 

 「雨を描く…」こと

  西洋美術では考えられなかった~

   あの、有名なゴッホが、大変に驚き、感動し

   この手法を模写したのです。

    以前にも、一度紹介した1枚に・・・

    「大はしあたけの夕立」

   

 

第48番目 関 本陣の門

   

 

  この場面を 清は語っている。

「本陣というのは、昔えらいい人だけがとまる宿のことだというな。

 いまはお金さえだせばどんな宿でもとまれるらしいが、昔はえらい人と金持ち

 は一緒だと、きまっていなかったのだな。昔のえらい人というのは、

 いばることのできるひとのことをいうので本当にえらい人というのは別かも

 しれないな。昔の大将でもいまの大将でも、頭はいいけどほんとうに苦労

 するのは兵隊だな。 《 山下清 》

 第54番目 大津 瀬田の唐橋

  

 

第55番目 京都 三条大橋

 

 

 最後に

 清は 「やっと京都にきたな こんどの仕事はこんでおわりだな

 数が多いからいつまでかかるかわからないな ぼくは京都は

 なんべんも絵にしたな 冬は金閣寺を貼絵にしたこともあるな

 夏は大文字焼をスケッチしてそれを焼き物の絵にしたことも

 あるな こんどは春の絵を描くんだな

 春の感じをだすんだな 柳の芽が風にふかれているのが春らしいな

 これをかくのを忘れないようにしょうなぁ」

 

 

 

  どうぞ この春の風に誘われて~ 行橋市 増田美術館へ

  足を運んで 「山下清」の素晴らしい 1枚 1枚 に時間を

 

 館内に同時に コレクション展として こんな珍品もありました。

 

 

 

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孤高の画家 田中一村 NO.5

2023-02-01 | 日記

昭和三十三年の暮れ

一村は師走の風追い立てられるように千葉を旅立った

 

昭和三十三年十二月十二日の午後一時過ぎ、奄美航路の

高千穂丸は、噴煙たなびく桜島を眼前に仰ぎながら

鹿児島港を出港した。

       

 鹿児島から380キロ、およそ18時間の船旅であった。

奄美大島は、黒潮の流れに黒々と横たわっていた

 

 奄美大島を見たときの印象を描きとめたもの。

   画面右上に「十三日未明船上より初めて黒き奄美の姿を見る

         「遥けくも来つる哉の思ひあり」・・・・・田中孝

 

一村は、水平線の彼方の空を仰いで、静かにつぶやいた。

 

奄美での作品の多くは、最初の日にまとめて紹介していますが

 この編では、スケッチを含めた数々の作品をアップします。

 

スケッチブックを小わきに抱えた一村は、朝の光が輝く

中を歩いた~道端には、ガジュマルが怪異な根塊を見せ

      

クロトンやゴムの木など、海洋性亜熱帯植物群からは、むせかえるような

生命感が伝わってきた。

 

  「クロトン」  

         

 

  「パパイヤとゴムの木」  

            

 冬だというのに…ハイビスカスやブーゲンビリアが咲いている。

  

 トタンぶきの小さな平屋が軒を連ね、人々の暮らしの息吹が

 感じ取られた。

      

 海岸から続くソテツやアダンの小道を

 頭にかごを乗せた母と娘を思わせる人物が歩いてくる。

 柔らかい光やソテツの実、女性の服装から春先の情景

 南の島らしい人々の暮らしが感じられる。

  「海辺の道」 

  

 一村は梅乃屋の間借りの一室に落ち着いた~

 数日後、山に囲まれた静かな環境の和光園を訪れた。

 三百人ほどのハンセン病患者が療養していた。

 

 そこで事務長の松原氏や小笠原医師との出会いは

 お互いに人柄に魅かれていった。

 その後、小笠原医師とは彼の官舎に同居するほどにも。

 

 一村はすぐに与論島の視察旅行を~

   絵のモチーフを求めての旅だった。

 「与論島初冬」 

 

円錐形のかやぶきの家々は、サンゴのかけらを積み上げた

石垣に囲まれていた。

 その石垣をガジュマルの根ががっしりとつかんでいた。 

 

奄美の生活の中で…数々のモチーフに挑戦

日日、筆を執る一村~

人々の生活の匂いまでも、画集に、残す、残す。

 

 「高倉風景」

 高倉は、奄美諸島とトカラ列島にみられる高倉

 (穀物を貯蔵する倉)です。

    この集まりを群倉(ブリグラ)と呼びます。   

 

 「魚樵對問」 

   

 この絵のタイトル「魚樵對問」は、もともと漢画の画題で、

 漁師は隠者、樵夫は仙人を表わす。

 漢画を学んだ一村が、奄美の風俗を重ねて描き、川村幾三氏に

 贈った作品。

 

 一村は生涯を通じてかなりの健脚であった。奄美での朝は早く

 五時にはすでに山路を辿る姿が見られ、周囲の人にとって

 時計代わりだったという。

  歩け、歩け ・・・画材の宝庫がもったいない! 

   そんな気持ちではないでしょうか‥‥

 

 残されたスケッチ~

 一村は、好奇心の赴くままに、奄美を取材し、その時に描いた

 風景、鳥や魚、植物などのモチーフは作品にも反映されている。

  丁寧に採食された写生図や、作品の構図なども残っている。

 

    素描 エビ

  

              本物は   

    

 

  素描 エビ

  

 

   素描 魚

   

 

   素描 魚

   

            本物は 

   素描 魚

   

   

   さてさて 一村も これにて 終わりと致します。

 

  奄美の生活では、まだまだ多くのエピソードもございますが、

  あまりくどいと 飽きが来ます・・・・

 

  「孤高の画家」

  一村は、夕食の準備中心不全で倒れ、69歳の生涯を終える。

 

   「学閥や金力や世のあらゆる権威に頼らず、ただ自らの

    才能だけを信じて、世に認められることもなく、貧窮を

    ものともせず、ひたすらに絵を描くために生きた一村の

    生涯は、私たちに多くのことを語りかけてくる。

    絵とは何か。美とは何か。

    その絵を支える美学を、生涯かけて生き抜いた一村の

    絵かき人生は、そんな根源的なものまで問いかけてくる

    ように思われてならない。

         「日本のゴーギャン」(南日本新聞社 中野惇夫 )文中より引用

 

   一村終焉の家      合掌・・・・

 

 

   日本のゴーギャンと言われた一村。

  

 まだまだ 語る尽くせませんが~ いつかまたの機会に~

  現在の一村ブーム? を黄泉の国からどう思っているのかな?

 

   NO.5 長きにご協力 ありがとうございました。

           (^.^)/~~~

  

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孤高の画家 田中一村 NO.4

2023-01-31 | 日記

一村を変えた南国への旅

 スケッチ旅行の始まり~

 単なる景観の描写にとどまらず、新しい作品挑戦への心を

 奮い立たせた貴重な旅であった。

 想像力を湧出させる旅でのスケッチ・・・

 画家にとってはさらなる飛躍のために不可欠なもの。

 旅は、画材の宝庫!

 そこで出会う自然との遭遇は感性の錬磨なのだ。

 新しい発想もそして数々の悩みも吹き飛ばす。

 

 先ずは、九州阿蘇山に登った。(写真利用)

    

 このスケッチ旅行の経路と考えられる~ルートは

阿蘇山~高千穂~宮崎(青島)~鹿児島~雲仙~長崎~大分~別府~

八幡浜~松山~高知~足摺岬~室戸岬~高松~鳴門~洲本~和歌山

~新宮~熊野

*旅先からK氏に送ったハガキが残っている。

 四国に廻り、紀州熊野川まで見て帰る予定です。

 車中にて 田中一村と記す。

「放牧」   昭和30年 

     

   阿蘇の放牧を。一村の心が広がっていく

    途方もなく大きなスケールで広がる新芽の絨毯

    のびやかな情景。

    旅に出たのが正解であったと思わせるものであった。

 

 「山村六月~北日向にて」 高千穂

   

    梅雨の季節豊かな田園風景 遠くに高千穂の峰を

    手前ハンカイゾウの黄色い花

 「ずしの花」 

     

 「阿蘇付近北日向 ずしの花多し 山間田蛙路傍到ル所にアリ

   草丈八尺に達す」と記す。

 

 「青島の朝」 宮崎

  

   枇榔樹の葉はそよぐ…         青島を航空写真で見る(参考)

「海ハ碧玉 空ハ緑玉 枇榔樹ノ葉ハソヨグ 南国ノ夢アリ」と記す。

 

鹿児島(桜島)の噴煙を仰ぐと、さらに南の島々への思いがつのっていった。

 船便を見つけてて、種子島、屋久島、トカラ列島まで足を延ばした。

 黒潮に浮かぶ南の島々は、一村の心を魅了した。

   

  

 

 「岬~トカラにて」 

    

 

雲仙・島原へ~

 「雲仙雨霽(うせい」

  

雲仙山麓 雲乱レ飛ブ 長崎ヨリ島原ニ向フ車中即目」

 牛にすきを引かせ田を耕す農民…

 雨上がりの情景をしっとりと描いている。

 

 長崎から久大線 ~大分

 「由布嶽朝靄」

   

  別府から四国へ渡った一村は、足摺岬や室戸岬を巡った。

 「足摺狂濤」 足摺岬 

 

 

    「室戸ハ奇石累々 足摺は断崖千尺

      太平洋ノ怒涛ハ脚下ヲ噛ム」とある。

    黒潮の打ち寄せる荒々しい情景を、群青の濃淡と

     胡粉の白波によってみごとに表現している。 

 

  高知から松山~鳴門へ そして洲本~和歌山へ。

 

 和歌山に出て、筏流しの名勝・瀞八丁と那智の滝を見た。

  

 

 高みから流れ落ち、岩にあたって砕け広がる滝の様子を

 描いた1枚があります。が、 

 この作品は「岡田美術館蔵」なので、今回、参考として掲載します。

 参考: 「瀑布」 

 

 

 

 旅から帰った一村は、南国の風光や黒潮に浮かぶ南の島々の

 印象を、姉喜美子に語り続けた。

 南国のイメージは、日ごとに膨らんでいった。

 やはり千葉を離れなければいけない。

 

 必死で勉強してきた成果を集大成しなければならない。

 絵かき人生を締めくくる最後の絵は、

 やはり旅先で描くことになるだろう。

      もう時間はない。

     一村の心は決まった。

 

   黒潮に浮かぶ南の島々に心は飛んでいた。

 

               最終章へ~

 

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孤高の画家 田中一村 NO.3

2023-01-30 | 日記

千葉寺の家の周辺には、画材になる植物や花が一面に植えてあった。

縁側には小鳥かごが積んであった。さまざまな小鳥たちがさえずり、

 まるで小鳥屋の店先のようににぎやかだった。

暇を見ては小鳥たちのさまざまなしぐさやポーズをスケッチしていた。

花鳥風月は日本画の伝統のモチーフだが、彼の姿は、単に絵の題材として

以上に、彼ら(小鳥たち)を愛しているふうだった。

 

 素描の中から~(鳥)

    

 

    

 

   東京育ちの米邨にとっては全く不慣れな百姓仕事であったが、

 近所の農家に一から学び、本を読み、篤農家をたずねて次第に

 いい作本を作るようになった。

午前中は畑で写生している姿があった。

一村は、農業をすることで、自然への洞察力を高め、感覚を磨いた。

 

 千葉時代の作品を  昭和30年代

 

 風景

 

   千葉寺・農家の庭先

   

 

   千葉寺の春(牛のいる風景)

  

 

 千葉寺・雪の日 昭和30年

  

 千葉寺風景 ①

  

 素描・ザクロ 昭和30年

     

 

  花とトラツグミ  昭和30年

  

 

 ユリと岩上のアカヒゲ 昭和35年

   

 

 この時代より前~昭和20年代の千葉寺風景がある。

 千葉寺の四季のたたずまい。

 山水画の趣を見せる淡彩の風景。

 それはいずれも静かな農村の情景であり、大地の恵みを

 描いたものである。

 

 千葉寺・秋  昭和23年

     

 

   麦播 昭和19年

    

 

  牛を引く農夫  昭和19年

    

 

  田植え   昭和20年

    

  山の田   昭和21年   

 

    

  囀り    昭和22年

         

  カワセミ  昭和20年

  

 

千葉での生活はそれなりに充実していたが、米邨の胸中には

 いつも焦燥感のようなものがあった。

ゲーテの禅宗の中で見た

「芸術は長く、人生は短し」という言葉が、

実感を伴って迫って来るのだった。

 

 昭和三十年の梅雨が明けたある日

       一村は四国、九州へと旅立った。

 

 

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孤高の画家 田中一村

2023-01-29 | 日記

 一村の性格をご紹介しよう。

 千葉時代にある婦人あての手紙に…

 「絵かきは、わがまま勝手に描くところに、絵かきの値打ちがあるので、

     もしお客様の鼻息をうかがって描くようになったときは、それは生活の

     為の奴隷に転落したものと信じます。

    勝手気ままに描いたものが、偶然にも見る人も気持ちと一致することも

   稀にはある。それでよろしいかと思います。

 その為にに絵かきが生活に窮したとしても致し方ないことでしょう」

       (日本のゴーギャン 田中一村伝 文中より引用)

                                         

千葉寺に借地を見つけ、待望の家を持った。まだ開発の手が届かず

のどかな農村風景の中にあった。 この時米邨は二十九歳。

絵かきとしての実力を問われる年齢にあった。

東京を離れ、千葉に引っ込むことはいろいろと不便でもあり

不利ではあった。しかし千葉寺にひろがる自然は大きな魅力だった。

 しかし、絵の前に、生活の闘いがあった。

絵筆持つ手で鍬を握った。

一家四人の生活が懸かった農業だった。

     

 

農業をして鳥を飼い、絵に打ち込む米邨は、

毎日が一心不乱の日々であった。

 

この頃、禅の集まりに姿を見せることもあった。

しかし、いよいよ法話や座禅が始まるころには、ふいと姿を

消すのが常だった。

          

「おれには、禅などやっている暇はねぇ」というふうだった。

この座禅会を仕切る柳沢氏の話に。

  「米邨さんは、頭脳明晰な方だったから、

   禅のこともかなり深いところで理解しておられたのでしょう。

   あの人には、絵があったから、宗教はいらなかったのかもしれない。

   確かに私たちには及ばないものを持っていましたね」と。

  また、柳沢氏は、欲を言えば、もう少し平凡なものがあれば、

  世俗的にはうまくいったのでしょうが、それは米邨さんのように、

  世人より優れた天才的な人が負う宿命かもしれませんね」と語る。

 

 やっぱり生き方の違いはしょうがない…妥協なしの個性では

 これじや貧乏もするし、絵も売れはしないよねぇ~。 私思う。 

 

 少し下って~彼一村は、幼くして、南画を描いていた…

南画は中国に発生した画風で、南宋画とも言われ、主に

文人によって描かれていた。

日本では、池大雅や与謝蕪村、青木木米、田能村竹田 などなど…。

 

そこで現在残っている中から…ご覧ください。

先ずは、十代の頃

 作品並べて

  大正15年18歳      昭和2年19歳    大正14年17歳  

 「ソテツとツツジ」    「山水図」      「牡丹図」   

                   

    どうですこの力強さ~ うわさ通りの神童かも?

    中学時代にも学業の傍ら南画の画会をしばしば

    開いていたというから これは凄い!  びっくりです。

 

  色紙にも こんな作品が・・・

    これって、子供の描く絵・・・???

     「白梅図」  大正6年 9歳

        

     「アジサイ」 大正9年 12歳

     

     「雪中南天」 大正12年 15歳       

       

  

    芙蓉図 昭和2年 19歳

    

 

   「牡丹図」 昭和2年 19歳

    

 

        「南天図」27歳 「ケイトウ」24歳

                  

 

                   秋色 ①  昭和20年代

                

         

 35歳の頃(昭和18年)船橋市の工場で

 徴用工として働くが、体調を崩し終戦の年まで闘病生活が続く。

 この頃 (昭和15~20年頃)  観音菩薩像を多く描く。

        

     「崖上観音像図」 昭和15年頃

 

米邨から一村と変わった四十代の作品

「私の南画は先達の南画作品を倣っていますよ」ということを

明確にしてきている。

 新しい絵画を模索する姿勢に貫かれ、あくまでも南画は勉強の

ために描いている。

倣いながら、画風に心酔しながら、特徴をとらえ

そして次第に自分の南画としていった。

 倣 蕪村

         

 

  倣 木米

    

 

 倣 木米

    

 

  倣 聾米

    

 

   倣 鉄斎

           

  これらの作品は、昭和22年に描かれたものばかりです。

 

終戦直前まで結核に苦しみ、ひたすら観音菩薩像を描いていた

米邨は、戦後の開放感の中で、自分の再生の喜びに浸っていた。

 

それは創作意欲に結実していった。

米邨はこの喜びを込めて、号を「米邨」から「柳一村」と改める。

宋の詩人の「遊山西村」の七言詩からだった。

    「山重水複疑無路 柳暗花明又一村」

『山が重なり、川が曲がりくねり、この先もう道がないのかと思っていたら

   また向こうに、柳の茂みが小暗く、花が明るく咲く風景が見える。

   あそこにまたもう一つの村があったのだ。』

 

 また唐の詩人・白楽天に「朱陳村」という五言詩があった。

  「都から遠く離れた辺地に、朱と陳の七つの姓しかない村があるとして、

   この村に託して白楽天の理想郷を歌った詩である。

  この中に偶然にも、「田中一村」と字づらが連なる箇所があった。

       「生為村之民 死為村之塵 

        田中老興幼 相見何欣欣

        一村唯両姓 世世為婚姻」

   あるいは、この「田中一村」がヒントになって

   「柳一村」が導き出されたのかもしれない。

    奄美では田中一村が使われていた。

             (本文中より引用)

 

 さて、一村は、全くといっていいほど人物を描かなかった。

 まして自画像などはただの一点も描いた形跡はない。

  (画家はまず自画像を残す方が多いようなのですが。)

 

ただ、これが私の自画像だ! と言わんばかり~

 軍鶏(シャモ)の絵があの人の自画像・・・

 「感覚を研ぎ澄まし、闘魂を燃やし、立ち向かってくる

  やつすべて敵だといわんばかりに、眼光鋭くあたりを

  睥睨している。 そんな感じの人でしたよ」

   と、母方の親類である川村幾三さんの言。

 

 素描 「軍鶏」 昭和28年頃

    

 

  「花と軍鶏」 昭和28年  紙本 襖絵   45歳

 

 

 

 

 今日はこれまで 千葉寺風景 ~スケッチ旅行の旅へと 続きます。

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孤高の画家 田中一村

2023-01-28 | 日記

今、私の手元に1冊の古書 NHK出版(2001年出版)

 「奄美に描く 田中一村」田中一村記念美術館 収蔵作品 図録

を眺めて~いつになく興奮している。

最近、私の息子がぶらりと訪れた古本屋で、偶然目に止まり…

何を思ったのか、手元に寄せ、眺め…そして購入し

「おやじ、これどう?」

 と渡してくれたのだった。

これまた偶然が重なりますが、この1月ほど前にも同じようなことが、

「日本のゴーギャン田中一村伝」南日本新聞社編集。小学館文庫(1999年)

これも、息子が古本屋で見つけ、私に勧めてくれ、

読み終えて改めて彼の画業のすさまじさを感じ入っていた

そんな短い時間での この 双方の「出会い」

奇遇というか~なんとなくドラマ仕立てのような…

      と言う訳で、これから一村の「絵」について少し話を進めて参ります。

 

 私の、リタイヤ前の仕事は「旅行業」 趣味は「絵」 

  商売柄、企画としても「絵画展」は好都合なので、趣味と実益?

 おかげさまで国内・海外といろいろな美術館巡りをしてきました。

 美術館巡りは現在も時間を見ては訪ね歩くのが老いの身には

生きがいでもあり、まだまだこれからも続けようと思っている次第。

因縁はまだ続く~

 奄美のとの「出会い」は

現役時代に企画担当として、広島(昭和48年)で、まさに「奄美」

取り上げ、「新婚パック」として販売促進に熱を上げていた時

商品づくりのために現地にはもちろん下見に行き、島の魅力には

商売抜きに感激した記憶はまだ鮮明。

しかし、頭の中にはこの時点では「一村はゼロ状態」

この頃、一村は紬工場をやめ画業に専念~しかし体調は悪い状態。}

  

時代は平成に入り、私が一村について 

これは凄い画家と思ったきっかけが

「田中一村の世界」展

 千葉で見たのが最初であった。平成7年の春

 丁度、社内の研修を船橋でやっていたのを利用し

 会場へ行きました。

 

今日は古本の図録を追いかけながら一緒に楽しみましょう。

この図録は奄美の記念美術館収蔵品なので本物との出会いは

ないのが残念ですが・・・。

 

一村と言えば、誰でもが、この絵を一番先に~

   

「アダンの海辺」であるが、残念ながらこの1枚は千葉の美術館にある。

  

 では、ページを捲っていきます。 

 図録の最初に 

  「生涯の最後を飾る絵を描きたい」

 画家の名は田中一村。

 家を売り、すべてを捨て、彼を支え続けた姉とも別れ、

 奄美の生活に賭けた。

 染色工として働き、そして絵を描く。

      (中略)

田中一村、その時すでに五十も半ばという年齢にあった。

      

 

 彼は写真にも興味を持っており好きな姉のポートレートを

 写したもの。

  構図、陰影、角度 プロ並み?の技

      

 

本土は違う自然・・・

南国特有の季節感と変化はどれもが新鮮だったのでしょう~

 1枚1枚の絵を見ても、光、風、を感じる。

 

 奄美の生活で シリーズとして描いていたのが

「奄美の杜」というタイトルだ。

ご紹介していきましょう。

 {写真については、ネットや図録から写しての掲載ですから

     揃ってはいませんので、お許しを・・)

 

 「奄美の杜」① ビロウ・コンロンカに蝶

   

 

「奄美の杜」④ 草花と蝶

   

「奄美の杜」⑤ ガジュマルとトラフズク   

    

 「奄美の杜」⑦ ビロウ樹

       

 「奄美の杜」⑨ ビロウとアカショウビン 

     

 

 「奄美の杜」⑩ ビロウとコンロンカ

       

 

 「奄美の杜」⑪ ソテツとアダン

  

 

  如何でしたか?  画家としての一村の心をとらえたものは、

      自然の造形が持つ美しさに違いない。

   それは、亜熱帯だからこそだ。 

 ビロウの葉の広がり~と、 形の妙 そしてどれもはっきりとした色彩。

 

 風景だけでなく… 色鮮やかな 熱帯魚にも。

  「エビと魚」

    

  奄美~沖縄諸島近海で獲れる魚の色彩は まるでパレットですね。

     図録にははっきり 右端に署名しているのが分かります。

          古稀 一村 とある。 (1976年頃)

 

  「花と鳥」

  

 

 彼の観察力は抜群です~実に細かいところまで掴んでいるのが分かります。

 枝に止まっている鳥の 嘴の動き、 目の動き 羽ばたき など

       瞬間の細かい動き さえ感じますねぇ。

 

  今までの絵は、奄美で描いたもの。

 一村は、 幼くして、南画を描いていた。

 彫刻家であった父に手ほどきを受けたといわれる。

 一村の南画の腕は、これが子供の描いたものかと驚くほどの達者さを見せている。

 現在残っている南画もかなりの数ある。

 一村は、18歳の時、東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科に入学。

 同期生には、東山魁夷ら後に”花の六年組”といわれる仲間がいた。

 しかし、僅か3か月での退学。 原因は 病気?  ‥‥定かでない。

 この頃(19~30歳)の彼の身辺は~父母、弟3人 を亡くす…

  また、本人の病気など、画家としての活動に見るべきものはなかった。

        ~ 悩みの時代だった ~

 40歳のとき、 

 再生の喜びを込めて 号を「米邨」から、「柳一村」と改めた。

 

昭和22年、 心機一転した一村は

あふれるような創作意欲を公募展にぶつけた。

川端龍子が主宰する第十九回青龍展に「白い花」を出品、初入選する。

同期生の東山魁夷は日展に名作「残照」を出品特別賞を受賞

魁夷はこの作品で一躍脚光を浴び、不遇な生活にピリオドを打った。

 

 東山魁夷 「残照」   

   

 

 二人の人生は、このあと、大きく別れていった。

 魁夷は、「残照」以後、国民的支持を得て、次々と名作を発表し、

 日本画壇の頂点へと上りつめていった。

 

 一方の一村は、翌年の第二十回青龍展に屏風絵「秋晴れ」を出品。

 一村の自信作であった。

 ところが龍子は、これを選から落とした。

 そして参考作品として出品しておいた「波」を入選作とした。

 自信作「秋晴れ」が

    落選したことに納得できず「波」の入選も辞退する。

     『絵の表現も、感情表現も 素直なんだなぁ~ 

        これって、芸術家に多いような…私の独り言です。』

 

一村は、日ごろ、龍子のことを「三百年に一人の絵の達人」として

その画才に敬意を払っていたのだが~ 今回のことからぎくしゃくとなり

その後、龍子とは絶縁状態となっていく~

 

そして 一村は千葉寺にこもり、農業と絵の研鑽に打ち込んでいくのです。

   姉喜美子、妹房子、祖母スエとともに~移り住む。

 

  今日はこれまで~ まだまだ 楽しい絵が鑑賞できますよ。

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雫の魅力

2023-01-19 | 日記

 先日少し雨が降った。

 冬の雨は冷たい。

 そして久しぶりの小雨は静かに、天から降りてくるような。

 土砂降りの雨とは違った風情なのだ。

 人生80年。

 過ごしてきた自分だが、「気が付かなかった」ことも多い。

 それがなんだか? それは、新しい発見ができたときに「気が付くのだ」

 天を仰いでいなければ、星の美しさも、分からない。

 雲の動きも、次々と変化していく微妙な動きも。

 思うに~現代の大人も、子供も、「上を向いて」の動作があるのだろうか?

 

 気が付かないどころか、気になって心配なことが多いのも、現代。

 電車に乗っても、バスに乗っても、待合所でも、

 レストランで食事が運ばれてくるまでの短い時間にも…「下を向いている」

 そう、「スマホ」という文明の機器にしがみついている姿だ。

 

 文明の機器は、確かに便利だ。

 これがなければ1日過ごすことができないという~いや、完全に縛られている方も。

 私は今心配している、この機器による、身体の影響を。

 姿勢は悪くなり、眼も、耳も。 いあや、もっと、その影響の度合いは広がるのでは。

 周囲の動きなぞ、一向に気が付かなくなって、自分の世界だけで息をしている。

 歩いていても、自転車に乗っていても、

 もっと危険なのが、自動車を運転しながらスマホを握っている。

 「自分だけは大丈夫」という、まさに自分勝手な行動が席巻している今日。

 このままの状態で時を刻んでいけば、絶対に何かが起きる

  と、いらざる心配をする田舎の爺さんなんだが…

 

 そうそう、前に戻って新しい発見の話だ。

 雨が上がった後に、庭を歩いて、その「雫」の美しさに見惚れたのだ。

 たかが「雫」だが、まぁ、ご覧ください。

 秋の賑わいを演出してくれた「紅葉」も 枯れ枝だけの状態に・・・。

 

 その小さな枯れた枝に。 気が付きましたか?

   ほら、 小さな白い粒が・・・光っていますよね。 

   真珠の珠? 

   土砂降りの雨だとこんな姿は見ることができない・・・雨のいたずらです。

             枯れ枝に見事に花が咲いた。

  

   なんとも情緒がありますね。

 

 

 ならばともう少し歩いて探してみると。

 「オキザリス」の緑の葉の上に・・・

   この美しい緑の葉の上に~小さな花が咲いた。 雫の花です。

  そう、この花(雫)も、一瞬の時間だけもらったのです。

 

 

  上を向いて探してみました。

  「ユーカリ」の葉にも。

   広げた葉に しがみつくように 雫が。 眺めていると…雫が動きました。

   どう表現しましょうか~ スーッーっと 音もなく(変ですね)

   細くて、赤い枝に映えています。

 

 

  寒さと共に、庭の樹や、花たちの動きから遠くなる。

  葉の色の、花の動きも、そして色彩の変化さえも・・・見過ごしてしまいそうです。

 そんな寒い日に、はっと気が付き、改めて 「美しい」という発見ができたこと。

 これも、「生きている」実感の一つなのかも?

 

 そういえば、なんとなく眺めていた「南天」の葉。

 

  ねぇ、この美しさ見てくださいよ! と、声を掛けられた!

   美しく装っているのに「気が付かなかった」よ。

     ごめんなさい。 

      今の君は、「美しい!」 よ。

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ブログを振り返って

2023-01-18 | 日記

 今日、私のブログを開いて頂いている方のタイトルに

 「マチスとピカソ」が。2020年のもの。

 

 このごろ私も、生活が淡々としているせいか、ブログのネタ?がない。

 そんなことをお察ししてなのか、昔のネタを開いてくれる方極めて多い。

 恥ずかしいやら、嬉しいやら…。

  時間があるので、私も、どんどん遡って自分のブログを追いかける始末。

 時間かけて、盛り込んでいるなぁと。自画自賛?

 我ながら、面白いなぁと…時間が経つのも忘れるほどです。

 

 先日、模様替えのことアップしましたが。

 その絵の作品でもう1点、「春」に因んだもの。

 大好きな小倉遊亀さんの作品を追加します。

 これはリトグラフですが、8号大のもの。

 これもかなり気張って購入した思い出のあるものです。

  「花と鉢」

   桃がおいしそう・・・

    九谷焼 凄くすてき!

    

 

  本当はこちらの作品も欲しかったのですが…財布の方が?

   「器」がいいです。 本物の器の値段も気になります。

     

 

 という訳で…今日のブログは、画家の「花」を主題に

 好きな画家の「花」の作品を並べて、花美術館と呼ばせてもらいます。

   ほんの一部だけの紹介ですが~

 どうぞ、ごゆるりとご鑑賞くださいませ  (^^♪  (^^♪  (*^^)v

 

 先ほどの「マチスとピカソ」から 行きますよ。

 先ず、ピカソは これ。 「花束を持つ手」

     

 

  シンプルで最高! 見る側の心もつかむ? でしょ。

 マチス 「花と果物」

    

 

 もう、デザインですよ。 

 教会のステンドグラスに いいかもね。

 

 我が家に「ひまわり」の絵がありますが・・・

ひまわりと言えば、この人

 そう ヴィンセント・ファン・ゴッホ の「ひまわり」登場です。

日本でいえば~当時、世間を賑やかにした あの1点。

 (東郷青児記念損保ジャパン興和美術館)常設されています。

    

 花瓶に入ったひまわりの作品は7点ありますが…もう1点

 ご存じですか?

 

 「芦屋のひまわり」って作品。

 私も、以前、ゴッホの作品を調べているときに初めて知りました。

 大正時代に日本にゴッホの名作があったと。

 その作品は兵庫芦屋の実業家が購入したもだそうですが惜しむらくは

 戦火によって幻の1枚に。

 それにしても、その時代、ゴッホの作品をどうしても欲しいという

 情熱は何処から? 残念ですね、現在残っていれば~。

   

 

 あの「モネ」も珍しく、睡蓮以外に花を描いていました。

 貴重な作品です。

    

 いいですね~、まだ視力も大丈夫な時代に描いているのでしょう。

 燃えている、揺れている~楽しく踊っている・・・。

 

 グスタフ・クリムト の「ひまわり」もありました。

    

 丁寧に描かれていますね。

 クリムトと言えば・・・「豪華絢爛」黄金って 。  

 でも、雰囲気はありますよね。

 

 私の好きな画家 ベルナール・ビッフェにも花の絵が。

 こんな1枚が欲しいのですが~ 「キンセンカ」  

  ダイナミックで勢いがあり、黒の線が効いています。

   彼のサインもそのまま 絵ですねぇ~。

   

 

 日本画家の中で 好きな画家に 東山魁夷

  「花明かり」があります。

   

 

  奥村土牛さん この方の絵も 魅力的です。

  画集で楽しんでます。 

   「チューリップ」と「蘭」  惚れ惚れ 

    どうですかこの筆力

    

 

   

 

昨年、安井曽太郎賞の受賞者ばかりの展示会に行き

   「島田省三」さんを知り すっかりお気に入りになりました。

     その後、彼のすてきな1枚に出合いました。

    この1点。  「花と女」  良いですねぇ~。

  

 まぁ、しかし、画家って 

 「花」をテーマにしているんだなぁって ほんとに思いますね。

 志して、「人」と「風景」そして「花」と「静物」は

 やっぱり欠かせなんでしょうね。

 

 まだまだ 沢山ありそうです。 

 暇を見つけては、見つけ出して来ますよ。

 ではまた。

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続 黄昏どきを愉しむ

 傘寿を超すと「人生の壁」を超えた。  でも、脳も体もまだいけそう~  もう少し、世間の仲間から抜け出すのを待とう。  指先の運動と、脳の体操のために「ブログ」が友となってエネルギの補給としたい。