4/20(金) 早や週末の金曜日となった。昨夜の酒は「高松」から「ローカーボ」で、HOYA兄いと二人で始まったが、最後は何時もの四人組になっていた。文化革命ならぬ、人形町四人組の揃い踏みと云う処だが、私は早目に切り上げた。
帰宅は十一時過ぎでなかったろうか。東急ストアに寄るか寄らぬか、迷ったが寄らずに帰った。と云うのも、今日は「オムスビ」にしようと思ったので食材に不安がなかったのだ。
六時過ぎに目覚め、弁当の準備に入る。オムスビなら、菜の方は卵焼きぐらいかと・・・。思いながらも、暇なオヤジはそうはイカンザキだとのこと。小エビの冷凍が有ったので、オムスビに天ムスを加えることにしたのだ。
鮭にタラコ、そして天ムスを加えた三種である。前日の残りご飯があったので、これは鮭まぶしのオムビにした。新たに炊いたご飯で、三種のオムスビを三個づつ作ることにした。
菜の方は、卵焼きに飽き足らず「鶏唐揚げ」「茄子味噌炒め」にスナップとウインナ―を素揚げし、胡瓜のごま油和え、板カマも加える。あれもこれもと作り過ぎの感もあるが、義母もいるので昼の菜になるだろう。
弁当を取りに寄った長女に『さあ~好きなだけ持ってけ!』と云うと、早速オムスビをひとつ食して行った。それに、オムスビは各種持参したのだから…痩せねぇな!。
と云うような分けで、弁当箱には菜だけが納まっている。フルーツでも加えれば、ピクニックのお弁当だね・・・・・。
今度の日曜、気温は28度にもなるとの予報だが、人形町パトロール隊は三度目の日帰り小旅行を決行する日なのだ。
行先は秩父である。八時半の西武鉄道レッドアロー号で秩父駅へ。そこから、先ずは秩父・長瀞下りで短時間ながら船上の人となる。荒川の清流を下る舟に乗船し、農園ホテルでランチだそうな。
農園ホテルは、随分の昔に労組の会議で泊まったはずだ。レッドアロー号はゴルフをやっていた時代に、十回以上は乗っている。然し、秩父で知っているのはゴルフ場に駅前の飲み屋と駅の売店ぐらいである。シャクシナの漬物と、酒饅頭が懐かしい。
秩父音頭は赤坂にあった店「くり丸」で、くり丸姐さんの唄う歌で知っているが、秩父の夜祭は、ついぞ機会を得なかった。何時かは行ってみたい、そんんな祭りの一つだったが・・・・。
もう一つ、秩父に関連するのは学生時代にさかのぼる。神田・三崎町に在った喫茶店[スポット」のオーナー夫人が秩父の出であった。その頃に秩父夜祭の賑わいを聞かされていた。
オーナー夫妻は落合に自宅が在り、何度か寄せてもらった。偶然にも、同郷の友人M&Kが落合に住んでいたが、その住み家と云うのが、廃屋に近いボロ家で「お化け屋敷」なんて言われたことを思い出す。
秩父で料理旅館だったと云う、くり丸姐さんの舞台があった大きな店は潰れた。その後、乃木坂でスナック「マロン」を始めた。一年程経ってからそれを知り、若干のツケを払いに行ったのがきっかけで、何度か通ったが何時の間にや音信が途絶えた。それから、三十年が経つ。
くり丸姐さんの店に連れて行ったのは、TV屋だった悪友のHOSOKAWAだった。彼も取材か、出演なのかで知ったのだろう。馴染なってからは、くり丸姐さんから「おさむちゃん」と呼ばれたが、なんのことはない、ピンからの宮路おさむからきている。
[スポット」のマスター野添さんは、毎日の記者だったが、地方転勤を断って退社。実家の印刷家業の傍ら、そこの二階で喫茶店を始めて間もない頃だった。
学生運動が盛んな時代で、暇な私はいつの間にか、客からアルバイトのバーテンになっていた。徹ちゃんと云う、東京出身で顔はごついが優しいバーテンがいた。彼と交替で小さな店の狭いカウンターに入っていたのだ。
野添さんとの年賀状だけは三十年以上もつづいていた。奥さんと別れ、海外の海に山にと優雅に暮らす様子は知っていたが、体も衰えたか亡くなったはずだ。その後の、秩父出身の奥さんのことは分らない。
ふり返れば、振り返るだけの思い出というか、トボトボと歩んできた自責がある。これが事績であれば顔の上げようもあるが、ただただ他人様の情けに縋って生きてきた身である。さりとて、こうして縁のある地に赴くとなれば、そのご縁について顧みることを許されよ。
パトロール隊三度目の日帰り旅も水に、舟に縁がある。水郷佐原では当然だし、柴又帝釈天と矢切の渡しも然り、そして今回の秩父と云えば長瀞の舟遊びである。三度目の正直、舟から落ちるなよ…諸君。総勢八人での秩父行である。
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