オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

八丈島 2

2014-10-09 | Weblog

10/某日 今週月曜日、八丈島でのことを記したが途中で終わったままである。この時は、島に着いてロケハンに廻りながら翌日の天気が心配になり、撮影を開始したこと、酒場での対談に触れた。翌日は、釣りのシーンの撮影である。

翌朝、オーシャンビューのホテルの窓越しに海を見る。時刻は六時頃か、群青の海はうねりも少なく、漁船が左から右へと走って行った。雲の合間から陽が射していた。これなら撮影が出来ると、一安心をした。暫くして、ホテルのレストランで朝食を摂るために別棟の玄関を出ると・・・、山側は雲に覆われていたのだ。朝の海の光景は束の間の喜びであった。

                        

出発時刻には、とうとう降りだした。これじゃあ釣りのシーンは撮影ができないと諦め、取り敢えず島の見どころ・ポイントをチェックしようと雨の中を島内一周に出掛けた。

前日撮影を済ませた、、流人たちが石を運んだと云う、丸石の石垣が在る陣屋跡を横目に、江戸期のが御用船を差配した「服部屋敷」へと。ここでは、パッションフルーツのジュース(600円)、コーヒー(350円)を飲みながら島の踊り「樫立踊り」(江戸時代に島に住んだ各地の人から伝えられた歌や踊りを島人がアレンジして島踊りとした)や、「八丈太鼓」「ショメ節」(ショメと云うのは、食に欠かせない塩と梅のことだとか)などを見せ聴かせてくれる。

                    

唄や踊りを見た後、島の伝統織物である「黄八丈」の工房に立ち寄った。雨は相変わらず、強くなリ、弱くなりを繰り返して降りつづく。昨今、踊り手や、島伝統の黄八丈の織リ手となる若い人が育たないとか聞いていたが、この工房では若い人が機を織っていた。

                       

ここから、地熱発電所に廻った。島の電力需要の20%を賄っているとのこと、残りは火力発電だそうだ。もっと地熱発電を増やしたいそうだが、匂いの問題などから進展していないと云う。地下、1500m のマグマ溜まりからの熱水を取り出して発電している。この発電所の余熱を利用した「えこ・あぐりまーと」という、ハウス農園に立ち寄りバナナ・マンゴーなどの熱帯植物を見る。

そして末吉から洞輪沢漁港に下りると、台風18号が運んでくる風と波が逆巻くように押し寄せていた。ここから底土港までの間で、一台の車とも行きあわなかった。この天気の所為もあろうが、途中に人家は見当たらなかった。

             

底土港をバックに、対談のお二人のインタビューの映像やスチール撮影。昼を過ぎた、昨日予約した「島寿司」でランチの時間だ。「あそこ寿し」で、島すしとムロアジのツミレのすまし汁を頂きながら、Asanumaさんが手作りした舟のこと、ラジコン撮影のことなどを聞く。ライターは盛んに、島の釣りポイントを聞いていたが、これも釣りがテーマの対談である故だ。島寿しも中々良かった!

                     

島での取材先、ASANUMAさんは上の写真のような漁船を六艙も自作したそうだ。自宅からアパート、ラジコンヘリの制作と凄い人である。その信条がいい「人がやっていることは、自分にもできる」である。その一念で何でもやってしまうとは、恐れ入谷の鬼子母神であった。             

 こうしているうちも、雨は小止みになったかと思えば大降りになったりと、雲行きが怪しい。台風十八号の余波であろうが。スタッフは、夕方の便、17:20発で島を発つ。八丈富士の麓の方まで雲がかかってきた・・・。私は明朝の便であるが、明日の方が天候が崩れると云う・・・。

空港でビールを飲みながら、スタッと対談で来てもらったIWAMOTOさんを送るために待機。17時前に羽田を発った便が八丈空港の上空に着いた。雲の状態が悪いので、暫く旋回をして回復を待つとのアナウンスが流れた。「どうなんだと、やきもきしながら空を眺める」のはスタッフ・・・。

とうとう17時半を過ぎた頃に、飛行機は羽田に引き返して行った。嗚呼、残念だねぇ。今夜も八丈島泊まりだ。 『宿は、俺と同じでいいか?』と、私が泊まる民宿「みどり荘」に電話した。食事はできないが、泊まるのはOKとのこと。ASANUMAさんに、大雨の中をみどり荘まで送ってもらった。

「みどり荘」に泊まるのは45年振り三度目となる。が、真っ暗な中で見るみどり荘に、かつての面影をみいだせなかった。以前、昔と云う方が適切かな、台所や食堂になっていたはずの部分は、二階に増築されて部屋が出来ていた。夕食の準備で忙しいそうな、元気のよい女将さんに、四人に一部屋と、一人に一部屋が割り当てられた。

大の大人が四人一部屋か、もう一部屋にはゲストのIWANUMAさんに入って貰った。スタッフのTOKIO,カメラのSUGITA,ライターのINOUEと、情けなさそうな顔をしていた、。昨夜のホテルにすれば良かった、そんなとこだ。そりゃそうだわな、好き好んでの民宿泊まりじゃあない。私のノスタルジーでの泊まり先だ。

大雨の中を車を読んでもらい、食事に行くことにした。行先は、昨夜は満席と断られた「梁山泊」という店である。この店は島では人気、観光客が大勢来る店のようだ。平成n20年11月17日だかのBLOGにも、この店で一杯やった写真が載っていた。今夜も、明日葉ビール(650円)を皆で注文したが、生ビールに明日葉の生ジュースを混ぜた代物だそうだ。

                          

そして「青ヶ島焼酎」を一瓶オーダーしたが、芋焼酎独特の薫りが薄かった。某氏によると、島の焼酎は大方が九州あたりから樽や缶で届いたものを、島で瓶詰してラベルが貼ってあるとか。そういわれれば、ご利益も有難味も薄まる・・・。

 

翌朝、食事の時に暫し女将さんと話をする時間があった。小母さんは十年ほど前に亡くなり、小父さんは五年前に亡くなったとのこと。『あの時は、すかっかりお世話になりました』と、四十七年前のことを話すと、「オバアサンは、人が良かったから」と返ってきた。なんと云う事のない朝御飯だが、味噌汁と飯は殊のほか旨かった。

みどり荘から見える三原山は雲の中、雨は降りつづいていた。飛行機が飛ぶのか、その前に着くのか、着けば飛ぶと心配しながら空港まで送って貰った。若し、着かなければ直ぐに底土港に向い、9:40分の船便で帰るしかない。台風が近づいている、これからますます天候は悪くなる一方だ・・・。

とは云いながら、私はこれまで間一髪、危機一髪の処を凌いできた。今回も何とかなろう・・・・と、内心思っていた。

空港に着くと、思った以上に雲は高い位置にある。これなら大丈夫だと、一安心した。昨日の便の残留や、予定を早めた客で満席に近い乗客を乗せて、予定どおりに離陸し羽田に向ったのであった。

心に残っていた「みどり荘」を訪れることができた、念願は果たせた。あの時の、小父さんや小母さんは逝ったが、それは覚悟をしていた。二十歳前の僕ら、MIWA、TANZAWA,NAGAKURA、TAKASHIMAか、フリージャの薫りで満たされ、南の島の日差しを浴びながら島をうろついた若い頃。そんなに古いこととは思わないが、何時の間にか半世紀近くも経っていた。

 羽田に向かう機窓から、島が見えた。それは、島ならぬ雲海に浮かぶ富士山であろう、八丈富士ならぬ富士を遥かに臨みながら現実の地へと向かっていた。

                           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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