オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

サンドイッチ

2010-06-04 | Weblog

6/4(金) 昨夜は、後輩のU氏とK氏で田町駅のアイリッシュパブにてギネスとハイボールをやる。今進めている企画の参考とするため、U氏から借用した資料の返却があり参上した。

二人とも、時期は違えども同じ釜の飯を喰った仲間。歳は其々に異なるが、この年になると年齢差は余り関係ない。勝手な事を言い合い、昔話で盛り上がった。

さて、そんな夜であったが、帰宅前に駅前のパン屋にて今朝のサンド用のパンを求めた。昨日、弁当袋と弁当箱を会社に置いたまま外出した所為であるが、たまにはパンも善いだろうと。

今朝も早くからMixの鳴き声に目覚めたが、窓を空けて寝た所為か、眠りが浅くボンヤリとしている。そんな訳で、愚図愚図と弁当の用意に入る。

サンドの具材は何時ものパターンで、ツナとジャガ&茹卵、ハム&野菜である。手順も変わらず、味付けも同じ。チットも面白くないが、気合が入らない朝はどうしょうもないのだ。せめてと、パンのきり方を変えて、斜きりにしてみた。

                     

都合14枚のパンをサンドイッチに仕上げ、今朝の作業が終わる。作りすぎだ~、小僧にも持たすか。

 

 「五十年祭」」

五月二十九日(土)は祖母の「50年祭」。そう、母方の実家は、神道なのだ。祖母は、昭和36年5月29日に没した。82歳とあったが、満年齢だと81歳か?

私の母は、八人兄弟の末っ子。兄・姉は、彼岸へと去り、祖母の子として50年祭を迎えるのは母だけである。それだけに、母はこの日を特別に意識をしていた。

育んでくれた母への思いを、俳句や短歌に託して供えていた。

私も、小さい頃はお婆ちゃん子であった。百姓の母の実家では、現金収入となる蚕を飼い、紙の原料とするミツマタの木を大きな釜で蒸し、皮を剥いで出荷していた。そんなことをしている廻りで遊び・育ったのだ。

祖母が亡くなって二月程たった夏の或る日。少年の私は、川で魚捕りをし、石垣をよじ登って上の道路に出ようとしていた。

角張った大きな石がゴロゴロしている河原から、道路までは10m程だったろうか。石垣の隙間に指を這わせながら、もう直ぐ道路に届くところまで登っていた。

 あっと、思った。両手の指が、手が石垣から離れていた。指が離れ、体が反る、ふわっとする感触・感覚。落ちる、とそう思った。

次に気がつくと、いつのまにや、しつかりと指が石垣を掴んでいた。不思議だった。

あの瞬間、私は身を反って後ろ向きに頭から河原に落ちているはずだった。落ちていれば頭から血を流して死んだに違いない。離れた手が、指が、何故また石垣を掴む事が出来たのか・・・。

亡くなった祖母が、未だ死ぬなと後ろから背を支えてくれた。そう思った。今もそう信じている。

 神主が来て祝詞を上げる。皆が玉串を捧げる。お墓に詣でて参る。ビールを飲み・酒を酌み交わす。従兄弟や親戚の顔、顔。こんな時でしか会えない人たち、亡くなった人のお陰で会うことができる人たち。

おばあさんの為のお祭り。私はこうして参列している。小さな声だが、「おばあちゃん、ありがとう」と云う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする