徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「きみはいい子」―人と人のつながりにささやかな幸せを求めて―

2015-07-04 20:00:00 | 映画


 大人たちもかつては子供だった。
 いまの子供たちもやがて大人になる。
 中脇初枝の、五つの原作短編からなるオムニバス風の作品だ。
 ひとつの町を舞台にした、老若男女いろいろな人たちの事情を細やかに綴っている。

 「そこのみにて光り輝く」で数々の映画賞を受賞した、呉美保監督の長編4作目である。
 これまで基本的に、ひとつの映画でひとつの家族を内側から描いてきた呉美保監督は、今回は群像劇で登場人物の日常の点描を重ねながら、人と人とのつながりの意味を問う作品に仕上げた。











大人も子供も男も女も、いろいろな人たちが、様々な問題を抱えている現在の社会・・・。
虐待、認知症、自閉症、学級崩壊、育児放棄、モンスターペアレンツと、登場人物たちはそれぞれが事情を抱え、日常を生きている。
どれひとつを取り上げても一本の映画になるのだが、この作品では敢えて全部を取り上げた。
少しばかり欲張り過ぎた感じは否めない。



小学校4年生を受け持つ新米教師の岡野匡(高良健吾)は、言うことをきかない児童と、文句ばかり言う親に頭を悩ませている。
彼は真面目だが優柔不断で、学級崩壊していくクラスに何もできず、もがいている。

岡野の学校の近くにひとりで暮らす佐々木あき子(喜多道枝)は、認知症が進行しており、6月に「家の中に桜の花びらが入ってきたわ」といって、微笑する。
彼女は物忘れもひどく、そんな自分に不安を抱いている。
彼女が唯一挨拶を交わすのは、家の前を登下校で通る自閉症の小学生・櫻井弘也(加部亜門)だった。

同じ町の一室で、夫が単身赴任中で今は3歳になる娘と二人で暮らす、水木雅美(尾野真千子)は、幼い頃に虐待を受け、自分の子供に手を上げてしまう。
子供は泣き、母親はそんな娘に手を焼きながら自分を止められない・・・。

同じ町で暮らすそれぞれの誰もが、人とのつながりを通して、苦悩と向き合いながら、少しずつ希望を見出していく。
虐待や学級崩壊のシーンなど非常にリアルに描かれているし、先日男子を出産したばかりの呉監督は、ここでひとつの家族の崩壊と再生への希望を描いた。
そうなのだ。
現実は確かに厳しいが、傷つき、救われたり、そうして経験は誰かへの優しさにもなり、希望へつながっていく。
子供の悲惨という衝撃的な題材を扱っているが、ドキュメンタリーのような側面も見せ、終始淡々としたリアリズムの的確さに引きずられ、呉監督の演出の力を感じる。

新米先生の岡野は、意志があるのかないのかわからないような、ただの「お兄ちゃん」だし、娘に手を振り上げる母親は腹が立って虐待しているわけでなく、むしろ娘に対する怯えみたいなものがある。
それは、自分自身が母親ときちんと接してきた実感がないだけのことだ。
その彼女の目の前で、母親仲間のひとり陽子(池脇千鶴)が、自分の息子をぐしゃぐしゃにしながらハグし、悪いことをしても、頭を撫でて最後は抱きしめている。

子供を産んでみたものの、さてその子供とどう接していくかがわからない。

そういう人が多いのだそうだ。
陽子が息子を抱きしめたとき、雅美も救われたかもしれない。
周囲に、気づいてくれる人がいてほしいものだ。
誰もが自分を見てくれている。
そう感じた時に、雅美も変わる。

そんな期待感、安堵感の込められたカットだ。
尾野真千子は、この役柄に彼女としてはかなり抵抗感があったようで、1日でも早く撮影が終わってほしいととても気が重かったそうだ。
そうだろうなあ。その気持ちよくわかる気がする。


懸命に生きる片隅の人々に向ける視線は、どこまでも柔らかで、緊張感を込めつつも、表現は繊細で力強いものがある。
世人の抱える問題を、特別な事例として取り上げるのではなくて、決して綺麗ごとではない人生の景色から目を背けない。
呉美保監督作品「きみはいい子」では、カメラはときに各場面を盗み見るように情感を込めて描きだしているが、起こりうる出来事が実に身近に感じられて、本来高度な心理ドラマのはずである。
しかしこのドラマは、大きなドラマになっていない。
登場人物が多いだけ、彼らの内面をもっと深く掘り下げてほしかった部分もあり、個々の人間の描写が希薄になってしまったからだ。
大人になることのできない、大人みたいな人たちを描いて、救いを求めている映画だ。
人が、人を愛することの幸せとともに・・・。
呉美保監督の今後にも期待したい。
      [JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点
次回はポーランド・ポルトガル他合作映画「イマジン」を取り上げます。